第2話 え?

 現実の時刻は知らないが、腕時計の時刻では午前8時30分を指している。

 いつも通りの時間で会社に着いたと思いたい。


 けれども和樹の気分はまったく晴れなかった。虚構の時刻を確認せずとも、曇天の心持のまま出社し、だるい足取りで消沈のエレベーターを降りた。


 ――有給使ってもいいから、はやく帰りたい……。


 そのような感想を抱きながら、タイムカードを切った。

 角を曲がり、広報課に続く曇りガラス製の自動ドアから出てくる、ひょろっとした男性を見て、嫌な予感がした。トイレの方へ行こうとしたようだが、和樹の予想通り、すぐに気付かれた。そして第一声が、

「おはよう! 隼くん!」

 ――げっ。

「おはようございます、林部長。いやぁ、今日はお日柄もよく」

「隼くん、そんなことよりもだな……」


 ニコニコしながら部長――林疾風ハヤシハヤテ――は相好を崩す。若白髪の混じった髪を撫でつけながら、口角を歪ませて愛嬌を振り撒く。

 ……どう考えても罠だろう。

 和樹はう、と委縮し、態度を翻して間をおかず言い訳めいた呪詛を口にする。社会人失格の遅刻理由を、さも申し訳なさそうに。

「実は今日、人身事故がありまして……京王線が――」

「昨日残業した甲斐があったようだね。さっき確認したよ」


 ――え?


「いやぁ助かったよ。これで今日のプレゼンが上手く行きそうな気がするな。ぶっつけ本番だが、棒読みでも及第点は余裕だろう。ありがとう、未来のホープよ」

 聞く耳持たずな上司は、和樹が昨日作った資料を振り、ぽんと肩を叩いて歩き出す。


 ――あれ? 怒られない?


 いぶかって後ろを振り向き、少し首を傾げた。

 じゃ、またよろしく、と言いながらいつも通りトイレへ消えていこうとする部長を見送ってから、得心がいかない風で自分のデスクに座った。

 途端、あれ?――と、即座に思った。デスク上の卓上時計は8時36分を指していた。


 (――どういうことだ? なぜ、いつもより2時間前の時刻を差している?)


 左腕にはめた虚偽の時刻をみた。デスク上の小型時計と同じ時刻を差していた。


 もしかして、と思うや否や、腕時計を外してあることを試す。

 今度は針を2時間進めてみた。朝、トイレの個室に閉じこもる部長が、すぐ後ろのミーティングルームから出てくる。

 開口一番満足そうにいう内容をきいて、彼の口角は上がってしまった。


「いやぁ、ばっちりだったよ! また頼むね、隼くん!」

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