(2)頭巾長屋のいつもの朝

「お美佐坊、それでは大根が削れてしまうぞな」


 突然かかった声に追憶の世界から現実の世界に引き戻されてハッとして振り向くと、そこにはその追憶の世界で見たばかりのミデス、今は巳太郎と名乗っているエルフがニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて立っていた。


 どうやら物思いの間中、ずっと大根を磨いていたらしい。


 ちなみに、声をかけた巳太郎のその姿は、ミデスと呼ばれていた頃は若々しい青年の姿であったのだが、さすがに言動と姿があまりに合わないので彼得意の魔法で日本の爺さんの姿になっている。


「ぼおっとしてたわ」

「情けないの、若者であるのに」

「言うほど老いちゃいないでしょ、巳太郎」

「そうかの、これほど腰が曲がって皺顔をさらしておるのにか」

「もう、すぐそういう意地悪を言うんだから」

「ハッハッハ、わかっておるよ。でもまあ、じじいのフリも致しかたないでな」


 そう、それは、江戸で暮らすには仕方のないこと。


 しかし、美佐としては、わざわざ醜い姿に変え、腰を曲げて歩かなければいけない巳太郎がどうにも不憫でならない。と、言うのが本音だ。


「なんとおもしろきことに、この世界じゃぁ、なんと五十をすぎれば爺らしいのでなぁ」


 ところが、当の本人はこれがよほど気に入っているらしく、仕事の時以外はひとりのときでもこの姿で過ごしているらしい。もちろんそれは本人が変わり者ということもあるのだろうが「エルフにとって老いを体験するというのは貴重なことじゃよ」と語る巳太郎の言葉に、うなずけなくもない。


 が、美佐本人がそうしなければならないとなれば、きっとげんなりであろう。


 したがって、美佐の巳太郎に対するふるまいは、自然と娘が年寄りにするもののように優しくなるというわけで。


「しかるに、爺と呼ばれるのも年寄り冥利に尽きるというものよ」

「うんでも、王家の不始末のせいで、本当に申し訳なくて……」


 からかうような巳太郎の言葉に、ついさっきまであの夜のことが脳裏に浮かんでいたからなのか、それともこの陰気な寒さのせいなのか、美佐は力なく答えた。


 と、そんな風に答えた美佐の尻を、巳太郎が突然むんずとつかんだ。


「きゃっ!」


 あまりのことに、大根を握ったまま、驚いて飛び上がる美佐。


 それを見て、巳太郎は嬉しそうに高笑いだ。


「ふははは、尻ばかり育ちおって。しかして、中身はまだまだ子供じゃのぉ」

「もう! いつもそんなことばっかり」


 そう言って、美佐は大根を振り上げて巳太郎を睨みつける。いくら優しく接してやろうと思っていても、勘弁できることと出来ないことがあるのは、年頃の娘としては仕方のないところ。


 しかし、そんな美佐を見て、巳太郎は更に優しげに微笑んだ。


「うむ、それくらい威勢のある方が良いな」


 言いながら、巳太郎はほりほりと頬を掻く。


「え、ああ、うん、ありがとう」


 そうか、巳太郎はわたしが落ち込んでるから。


 その優しさに気づいて、美佐は胸の中に暖かいものを感じ、振り上げていた大根をその胸に押し抱いて微笑んだ。


 いつもこうだ。いつも、この長屋にいるみんなはわたしを気にかけてくれている。


 美佐は、この江戸に来てからずっと自分の周りを取り巻いている仲間の優しい思いに胸が熱くなるのを感じ、溢れる想いとともに、自然と巳太郎に頭を下げた。


「なにをしておるか。おなごが抱きしめて微笑んでよいのは、大根ではなくおのこの厚き胸板だけよ」


 そんな美佐の態度に、真意をつかれて恥ずかしいのか、巳太郎は照れくさそうにおどけて言うと、そそくさと美佐に背中を向けて井戸端を去ろうとする。


 そして、そのまま、何気なくつぶやいた。


「ああ、そう言えば昨日の千両箱じゃがな」


 後ろ向きでそう告げる巳太郎の言葉に、美佐はきゅっと表情を引き締める。


 仕事の、はなしだ。


 そして巳太郎は、そんな美佐の緊張に背中を向けたままでも気づく。


「なあに、そんなにしゃっちょこばらずともよい。万事遺漏なく、問題なしじゃよ。前回同様、我らの生活費と例の払い用にほんの少しだけ残して、あとは江戸の貧しき者共に配っておいたわ、魔法での」


 その言葉に、美佐は「ありがとうございます」とつぶやいてホッと胸をなでおろした。


 巳太郎は、仲間内では1番の魔法の使い手。まだミデスと名乗っていたころも、王国で第二席次を任されていたほどの大魔法使いだ。エルフという魔に特化した種族の第二席次、それは言い換えればあちらの世界においても屈指の魔の使い手であるということ。


 だから、美佐の胸中に心配はない。


 きっと誰にも気づかれずに、頭の上に小判をおいといてくれてるよね。偏りなく、隔てなく。巳太郎なら、きっと。


「まあ、遠からずかわら版が義賊ナガミミ小僧の評判を運んでくるじゃろうがな」


 いいながら、巳太郎は「ほっほっほ」と声を立てて笑いながら自分のねぐらへと帰っていった。


 美佐はその小さく曲がった、それでいて何より信頼できる背中を見送りながら、江戸の市中に撒かれ多くの人々の笑顔を産んでいるだろう黄金色の輝きを思い浮かべて少し微笑む。そして同時に、それがまたしても江戸市中に大きな評判を呼ぶだろうことを思って、少し誇らしい気持ちになった。


 義のために盗みを働く盗賊としての呼び名、義賊。


 それは、江戸の人々にとって、神仏と同義だ。


「そうね、きっと、隣のカラス長屋のおカネさんあたりが飛び込んでくるに違いないわ」


 前の時もそうだった。そして、カラス長屋のおカネと言えば、今や義賊ナガミミ小僧の虜になった女として界隈で有名な女。


 美佐は血相変えて飛び込んでくるだろうおカネさんの姿を思い描きながら、前回の長っ尻を思い出して小さくひとつため息をつく。そうしながらも、真っ白に輝く大根の表面を丁寧に布巾で拭き取って、う~んと一つ大きく背伸びをした。


「義賊……かぁ……」


 美佐はそう言いながら、頭巾の下に隠している耳をその上からそっと触る。


 そこにあるのは、ピンと尖った長い耳。


 もちろんそれを魔法で隠すことは、できる。


 しかし、危ない橋とわかっていながらも、美佐たちはそれを魔法で隠すことはしなかった。それが、ひとたび頭巾を失えば、それこそ急な突風で飛ばされるようなことでもあれば、その見た目からすぐにナガミミの一味であるとばれてしまうとわかっていても。


 誰ひとりそれを隠すことを選ばなかった、エルフの、プライドの証。


 髪や瞳の色は変えても、これだけは絶対に。エルフであることを忘れないように。


「泥棒してて、プライドも何もあったもんじゃないけどね」


 美佐はそうつぶやいて、瞳を閉じる。


 殺生を好まず、暴力を厭い、嘘を憎んで、他者より奪わず、そして盗まず。


 様々な種族が闊歩する元いた世界において、善意と高潔、清廉と潔白を体現し象徴する種族であったエルフ。人々を助ける義賊とはいえ、泥棒であることへの拭いきれない負い目は、今も美佐の心にある。


 だからこそ、それを褒めそやすおカネや江戸の庶民の声が、誇らしくもあり、どこか申し訳ない気分でもあるのだ。


「ナガミミ小僧がわたしだって言ったら、どうなっちゃうんだろう」


 そんな、考えても仕方のないことをつぶやいて、美佐は大根を見つめる。


 それにしても、なんでこの世界の泥棒って小僧なのかしらね、わたし女の子なのに。


 心でそうつぶやきながら、美佐は大切な宝物でも扱うかのように大根を一つづつ丁寧にザルに入れて、結構な重さのあるそれをヨイショと持ち上げた。


 途端、海から吹く冷たい風が美佐を包んで通り過ぎる。


「ふぅぅ、今日も寒くなりそう」


 見上げれば低く薄い雲が、遠慮がちなお日様の光を遮って、いかにも寒々しい表情を見せていた。


 そしてまた、一筋の冷たい風。


 今まで水仕事をしていた美佐は、そんな冷たい風に身を震わせると小走りになりながら自分のすみかへと駆け出した。


「さて、このお大根、なににしようかなぁ」


 走りながら、美佐は器用に考える。


 こっちに来て以来、この世界のお料理の美味しさに目を奪われ続けてきた美佐だ。これまで食したいろんな大根料理を思い浮かべたそのとき、帯の下のお腹が「グー」っと悲鳴を上げた。


「きゃっ」


 その音に、美佐はとっさにお腹を抑えて周りを見渡す。


 幸運なことに、誰も美佐を見てはいない。そこにあるのは、どこにでもある江戸の長屋の風景だ。ただ、そろって頭巾をかぶっているだけが違う、どこの長屋ともかわりない姿。


「今日も一日、無事でありますように」


 美佐はそう小さくつぶやいて、自らのすみかに戻る。


 あとに残ったのは、やはり、どこにでもある平和な長屋の姿なのであった。

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