第1章 エルフ、江戸に生きる
第1段 頭巾長屋
(1)江戸の夜明け、エルフの夜更け
はぁ今日も寒いなぁ。
江戸は深川。水辺に近いと言えば聞こえはいいが、結局は海の上に急
そんな、街の一角にその長屋はあった。
そして、いま、長屋のどまんなかにある井戸の縁で、黒髪に黒い瞳、年の頃は十五、六といった娘がふぅーっと手のひらに息を吹きかけつつ、船売の八百屋から買った大根を洗っている。の、だが。
なぜかその頭には、不自然に紫色の頭巾をかぶっていた。
「まあ、寒いのに朝から大根洗いなんて、えらいことですね」
そう声をかけてきた女、この女もやはりすっぽり紫の頭巾をかぶっている。
それだけではなくこの長屋、奇妙なことに住んでいる二十ほどの住人全員が紫の頭巾をかぶっている。まあその理由は、井戸から出てきた観音像のお告げというもっともらしい謂れがくっついているのだが、とにかくその異様な様子から「頭巾長屋」として名の通る、江戸の市中でも一風変わった長屋なのである。
といっても、避けられているわけでも、気味悪がられているわけでもなく。
観音様のお告げじゃ仕方ねぇやな。と、信心深い江戸っ子のおかげで、変な
だから、大根を洗う少女も、そのあたりは安心して暮らしている。
「あ、イーノおはよう。今日はおっきな大根が安くてね」
そんな少女の言葉に、イーノと呼ばれた女は少し顔をしかめて訂正した。
「まあ、あたいの名前は
そう言うと、イーノ、いや一乃は少女の頭をぽんと優しく叩くと、そっと周りを見渡して小声で告げる。
「ミサリリア……姫様」
その一言に、ミサリリアと呼ばれた少女はハッとして口を抑える。
そして、一乃をギロリと睨むと、頬を膨らませて答えた。
「もう、わたしは姫様じゃなくて……」
「わかってますよ、お美佐ちゃん」
そう言うと一乃は、くるりと踵を返し後ろ手に掌をひらひらと振りながら長屋をあとにする。彼女の今の仕事は髪結い。聞くところによるとその正確な仕事と、ぐんと髪質が良くなる秘伝の髪油で徐々に大店の奥方あたりの良い客を掴み始めている。
まあ、その髪油、異国というか、異世界の魔法付き、なのだが。
「ミサリリア姫様、かぁ」
美佐はそう小さくつぶやくと、手のひらの上にホォっと緑色の光の玉を出した。
と、同時に、あの日のことが頭をよぎる。
彼女の運命を一変させた、あの夜の出来事が。
月は中天に輝き、星の光が空の
遠く空に揺らめく炎の明かりを背に、その声は暗い森の中に響く。
「ミサリリア様! お早くこちらへ!」
その日、美佐、いやミサリリアは暗い森の中を黄金の髪を振り乱しながら、白銀の女騎士鎧を身に着けた姫付き王宮近衛兵であるイーノに手を引かれて走っていた。
「わたしは大丈夫だから振り返らないでそのまま走って。それより、ドワーフの軍勢はどのあたりまで迫ってるの?」
走りながら、ほんのわずか心配そうに城のあったほうを振り返るミサリリア。
しかし、今は他人の心配をしている場合ではない。
「残念ながら、門は突破されたとの報告が届いております。王族とその側近たちはすでに転移門へと向かったと聞きますから、ご家族ではミサリリア様が最後になります」
「じゃぁ、お父様たちもこの道を?」
「いえ、分散したほうが良いだろうということで、ラーダ王とアリスタ妃の両陛下、加えてメーデル王子殿下と筆頭魔術師のメーダは近衛を伴ってドリアスの森を迂回して向かっているそうです」
その言葉に、ミサリリアの心を鈍い痛みが襲う。
父も母も兄も、それどころか師匠までもが自分とは違う道を使って転移門へ向かっている。その事実が、ミサリリアの心に拭いきれない薄墨のような不安の影を落としているのだ。
ドリアスの森。わたしたちならば簡単に抜けられるけど、ドワーフには無理。わかってる。
……なのに。
「お父様たちは、大丈夫かしら?」
「きっと。ドリアスの守りが我々を見捨てることはございません」
「そ、そうね、うん、きっとそう」
「ええ、ですから、わたしたちも急ぎましょう、ね、ミサリリア」
「はいっ!」
ミサリリアは姉のように慕うイーノの言葉に深くうなずき、足に魔力を込める。
魔法ではない、しかし、魔力を込めた足は雲を踏むように木々の隙間を軽やかに動き、森の獣すらかなわないほどの速さで音もなく漆黒の森を抜けていく。
そのかいあってか、程なく二人は、転移門のある洞窟へとたどり着いた。
「お、お父様は……?」
しかし、そこにいたのは、十数名の近衛の兵たちだけ。
「アーデルト!王陛下はどうした!」
心配そうに近衛の兵たちを見つめるミサリリアの前で、イーノはその隊長であるアーデルトに詰め寄った。しかし、アーデルトはうつむいたまま唇を噛んでいる。
「王陛下はどうしたと聞いている!」
今にもつかみかかろうとするイーノ。
しかし、それを止めたのはミサリリアだった。
「アーデルト近衛隊長、大丈夫です。ただ、父上たちの今を知りたいだけなのです」
「ひ、姫様……」
ミサリリアの言葉に、アーデルトはその場に跪いて叫んだ。
「王陛下御一行は敵の手に落ちましてございます!」
「えっ、うそっ……」
アーデルトの言葉に小さくつぶやいて、そのまま口を抑えて固まってしまったミサリリア。かわりにイーノが問い詰める。
「バカを言うな、ドリアスの守りはどうした!」
「ど、ドリアスの森の守りがすでにドワーフによって破られ、その、待ち伏せを……」
「そんな、馬鹿な……あれは、我らの一族に伝わる最上位魔法だぞ……」
「真実です、森にはすでにドワーフが」
「ありえぬ」
イーノは唇を噛んで首を横に振る。しかし、それを悲痛の面持ちで見つめながら、アーデルトは続けた。
「敵の数は多く、必敗は明白。そこで王陛下は、ご自身とそのご家族をおとりに森の奥深くに入ってゆくと宣言され、そのかわりにわたしに託されたのです」
「託された?」
「はい、王陛下は、自分たちはどうなっても構わないから近衛の兵は森を抜けてミサリリアを守れ、と」
アーデルトは、顔中を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、振りしぼるように叫ぶ。
「う、うそ。うそよ!」
「嘘ではございません、姫様。コレが、その証です」
そう言ってアーデルトはふところから小さな緑色の玉を出した。
「そ、それはアメンテの宝玉」
「はい、我らの宝であり、転移の門を開く鍵となるアメンテの宝玉。王がこれを託された意味、ミサリリア様にはわかってほしく……」
「いやぁぁぁ!」
泣きながらそう訴えるアーデルトの言葉を待たず、ミサリリアはドリアスの森に向かって駆け出した。
「お父様! お母様! お兄様!」
「いけません、姫様!」
しかし、その身体をイーノが抱きすくめる。
そんなイーノの瞳にも、必死でこらえた涙が光っていた。
たった一日、たった一晩の戦で、千年王国と讃えられたエルランド王国が消えていく。たったひとり、こんなにも幼くもか細い姫殿下を残して。
その避けがたい事実がイーノの心をさいなんだ。
しかし、時間はもうない。
ドワーフの軍勢が、この転移門へ至るのも時間の問題だ。
「ミデス! そなた、転移の秘法は唱えられるな!」
イーノは鋭く声を飛ばす。
それに答えたのは、近衛兵団に所属する唯一の次元魔法の使い手、ミデスだ。
見た目は他と変わらない若さだが、その歳はすでに老齢の域に差し掛かっている。国で第二席の老魔道士。
「まあ、このじいでも唱えられますがなぁ。メーダの婆さんほど得意ではないでな、行く先の保証はできんよ」
「かまわん、ここを離れられればよい」
イーノは答えながら、自分の腕の中で暴れ悶えるミサリリアを見つめる。
この人さえ、姫様さえ生き延びれば、まだ希望はある。
エルランド王国の未来も、そして我らの。
この世に残された最後の一族の、未来も。
「急げ、ミデス」
「いや! まだ待てます! 父様たちはきっと来るから!」
叫び暴れるミサリリア。
しかし、イーノはつらそうな表情を浮かべてその口を乱暴に塞いだ。
「んー!んんーっ!!」
「急げ!」
「はいはい、まったく急いで魔法なんぞ唱えてもいいことにはならんぞい」
「うるさい、急げ!」
「はぁ、これだから王宮の女兵は……」
ぶつぶついいながらミデスは、ゆっくりともっていた杖で空に魔法陣を描く。
天空に描かれる、エメラルド色の魔法陣。
「エ・デストラ・メイメイ・ホーデン・パダリーヤ……」
ブーンと不気味な音を立てて魔法陣が鳴動を始める。そして、導かれるようにアメンテの宝玉がその中心に向かって浮かび上がった。
「いくぞい」
ミデスは一声そう呟いて「パデス!」と叫ぶ。
その途端、周囲は緑色の光りに包まれ、そこにいた二十名ほどの人間が細い糸のような光に変わってその魔法陣の中心に吸い込まれ始めた。
そんな光の中で、イーノは祈る。
神よ、我らの未来に栄光を。
神よ、この少女の行く末に祝福を。
神よ、我が一族に。
この世界にたったひとつ残された、エルフの運命に憐れみを。
そして、どうか、どうか、神よ。
「我らが新天地での暮らしに、御加護を!」
イーノの叫びとともに、こうして、彼らは旅立った。
魔法と魔獣の闊歩する世界、魔大陸トリステアーノから、まだ見ぬ新天地へと。
そして次の瞬間、トリステアーノから最後のエルフが消え、遠く異世界、天下泰平の享楽を謳歌する江戸の街に、最初のエルフが現れることになったのである。
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