収束⑧ 保険
「何があった?」
蛇穴先生の言葉に、樸生先生は何かを言おうとした。
でもそれは言葉にはならず、唇が僅かに震えるだけだった。
それでも蛇穴先生には、分かったようだった。
蛇穴先生は「そうか」と呟き、樸生先生の背中を壁に預けて座らせた。
それから、扉の中へと入って行った。
扉の奥からは蛇穴先生の足音がした。
そして、あの疳高い嫌な音も。
「……きれなかった」樸生先生の震える声が聞こえた。
「……全部無駄にしちまった」肩を震わせていた。
そんな樸生先生の姿はいつもとは違い、別人のように弱弱しかった。
樸生先生は戦った。
そして負けた。
そんな現実を、私は受け入れたくなかった。
――まだだ! まだ間に合う!
そんな想いが渦巻き、体を突き動かした。
蛇穴先生の後を追って、部屋の中に入った。
そこには、焼け焦げながらも、蠢くショゴスが居た。
「なんで死んでいないんですか? 樸生先生ならショゴスを殺せるはずじゃ」
「……殺し切るには精神力が足りなかった」
蛇穴先生はショゴスを見ながら言った。
「想定よりも、ショゴスの増殖が早かった。だから殺し切る前に精神力が尽きた。そういうことだ」
蛇穴先生はそう言った。
その意味を、私は分かった。
「私たちのせい。ですね。私たちが介入したから、本来よりも時間がかかった。その分、ショゴスの増殖が進んで……」
その言葉に蛇穴先生は首を振った。
「いや、神宮寺たちのせいじゃない。静のやつだ。どこまで行っても、あいつの責任だ」
そう言うと蛇穴先生は部屋の外に出た。
樸生先生の前に立ち、見下ろしながら言った。
「炎神を出せ」短く告げた。
「できないよ」樸生先生は喘ぐように言った。
「そんなことしたら、どうなるか分からない。神の意志なんて、人間には推し量れない。ここら一帯が、地図から消滅するかもしれない」
「もう、それしかない」
樸生先生は、小さな震える声で「できない」と言った。
敵意の圧縮された威圧。
それでも樸生先生は、涙を流しながら首を横に振るだけだ。
蛇穴先生は樸生先生の襟首をつかみ、そのまま釣り上げた。
だらりと脱力している樸生先生の顔を見て、もう一度「やれ」と言った。
「できない。私には決められない。これ以上、出来ない」
「また、選べないのか」
樸生先生は視線を伏せた。
「もういい」そう言って、蛇穴先生は手を離した。
樸生先生は、ドサりと床に落ちた。
「お前ならできると、そう思っていた。でも、勘違いだったみたいだな。一度ならず二度までも、同じ
そう言って、蛇穴先生は樸生先生に背を向けた。
その横に、盟がそっと寄り添った。
「そうして、気が付かない内に周りを不幸にしていく。その会後処理なんて、全部誰かに任せて、のうのうとしてる」
蛇穴先生は見覚えのある、小さな装飾品を出した。
愚者の石だ。
「それがお前の生き方なら、俺も最後まで付き合ってやるよ。お前出来ない後処理を、俺がしてやる」
愚者の石が明滅し、魔術が行使される。
盟のすぐ横に、黒い穴が開いた。
盟はその中に腕を突っ込み、その先から何かを掴みとった。
それを、目の前にどさりと投げ捨てた。
門倉輝梨さんだ。
同じことをもう一度。
今度は七条春さん。
それから4人。
そこに投げ捨てられたのは、精神力を搾取されていた生徒達だった。
まさか。
もう一度精神力を搾取して……。
そう思った。
でも違った。
それよりも恐ろしいこと、二人はしようとしていた。
投げ捨てられた人たちはみな、虚ろな目で鳴いていた。
「テケリ・リ」「テケリ・リ」「テケリ・リ」
蛇穴先生は言った。
「静。お前はショゴス細胞の出所を疑わなかったな。ショゴス細胞も持ち出し、人間に渡した
アザトースの使者。
這い寄る混沌。
無貌の神にして、千の仮面を持つ神。
クトゥグアが最も忌み嫌う神。
ナイアルラトホテップ。
またの名をニャルラトホテプ。
この事件の全てはあいつが仕組んだことだ。
この世に偶然なんて存在しない。
あるのはニャルラトホテプの悪意だけだ。
あいつだったらショゴスの細胞を手に入れるのは造作もない。そうして、今回のゲームは組み上げられた。全てアザトースに捧げる夢の為に。俺にはこんなゲームなんてどうだっていい。ただ、天音を解放できればそれでいい。だから保険を掛けさせてもらった。お前が炎神を召喚する気になるようにな」
蛇穴先生が短く呪文を唱えると、
4人は、どろりと溶けて、人の形を崩し始めた。
体の一部分が、黒いてらてらとした粘着質のものに変わっていく。
「こいつらにはショゴス細胞を植え付けていた。今の天音は弱っているからな、こいつらをエサにする。こいつらのショゴスを覚醒させて、天音に取り込ませる。
さあ、最後だ静。
選べ。
炎神を召喚して、天音を炎神の炎で焼き払うか。
大切な生徒たちがショゴスになり天音に取り込まれるのを、ただ指を
樸生先生は「仁」と呟いた。
それから、壁に背中を押しつけながら、立ち上がった。
「もう止めてくれよ」
蛇穴先生は何も言わない。
ただ鋭いまなざしで、樸生先生を見ている。
「やっぱり選べないか。もういい。探索者のとしてのお前は、あの時に死んだ。全部無駄だった。それだけの話だ」
「頼む、止めてくれよ」
「何も言うことは無い」
その声は重たく響く。詠唱。
何か目に見えないものに語りかけるような言葉が紡がれると、周りからは苦しみに呻く声での合唱が始まった。
瞬間。
識暉は床を蹴って弓のように真っ直ぐに、蛇穴先生に向かって飛び出して行った。
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