第19話


         ※


「全く、とんだ長風呂になっちまったぜ……」


 そう呟きながら、竜弥は脱衣所を出た。床に飛散した扉の破片を片づけねばならないが、そんな気力は残っていない。

 面倒なので、後回しにする。鼻血が止まっただけでもよかったのだと自分に言い聞かせる。


 居間の方に、のろのろと歩いていく。すると、次第に言葉が耳に入ってきた。間違いなく、実来と楓の会話だ。


「違うよ楓ちゃん、表裏が逆になってる」

「そ、そうか? しかし、こんなにひらひらしていては戦いに支障が……」

「大丈夫! あの怪獣は、お父さんたちがやっつけてくれるから!」

「む……」


 こそこそと何をやっているのだろうか。

 訝しく思いつつ、念のため竜弥は襖を軽く拳で叩いた。


「おーい、二人共、入っていいか?」

「あっ、兄ちゃん! ちょうどよかった、入って入って!」


 先ほどまでの拒絶反応はどこへやら。まさか誘われるとは、竜弥は思っていなかった。


「じゃあ、開けるぞ」


 そっと把手に指を掛け、ゆっくりと襖を開ける。そして、そこに立っている人物を見て唖然とした。




 絶対に似合うと実来に押し付けられ、取り敢えずこの時代の服装に身を包んでみた。

 楓が今着用しているのは、いわゆる『ワンピース』である。

 色は白だが、スカートの裾の部分が僅かに紅色に染まり、穏やかな夕日を連想させた。


「そ、それで実来、私は竜弥に何と言えばいいのだ?」

「だーかーらー! 『可愛い?』とか『似合ってる?』とか訊けばいいんだって!」

「え、えーっと……」


 裸体の次は洋装をさせられるとは、あまり見られたくないものだと俯く。

 それでも、楓はスカートの両端を摘まみ、軽く膝を折ってちょこん、と頭を下げた。


「ど、どうだ、竜弥? ああいや、言わないでくれ。とても似合ってなどいないだろうから。み、実来! 早く脱がせて――」


 脱がせてくれ、と言いかけた矢先、大股で迫ってくる人の気配があった。竜弥に間違いない。あまりにも不慣れな格好をしていたため、楓の反応は大きく遅れた。


「ちょっ、待て竜弥! これは決して婚姻の儀の装束のつもりではなくて――」

「ふざけるな!」


 竜弥の怒号に、楓は自分でも信じられないほど驚いた。そして恐れをなした。

危うく悲鳴を上げるところだった。

 ゆっくりと目を開けると、そこには息を荒げながら立ち尽くす竜弥がいた。ただし、その燃えるような眼光が捉えているのは楓ではない。実来だった。


 竜弥の怒りの射線上に自分がいないことに、思わず安堵する。しかし、これは看過できる状況ではない。竜弥は、実来に対して凄まじい怒りをぶつけているのだ。 

 実来は突然の出来事に、目を真ん丸にして竜弥を見つめている。そして、突き飛ばされたわけでもないのに、たたらを踏んで二歩、三歩と後退し、居間の壁に背中を押し付けた。


「い、一体どうしたんだ、竜弥? 実来が何か――」


 仲裁に入ろうとする楓。だが、すっと目の前に翳された竜弥の掌に、言葉を失った。


「分かっててやったのか、実来」

「……」

「どうして今更、こんな服を見せるんだ! 母さんの形見だってのに!」


 事情を知らなかった楓は、思わずはっと息を飲んだ。


「実来、お前は自分が何をしたか分かってるのか? 俺は『あの日のこと』を忘れられそうだったんだ。五年かかって、やっとだ。それなのに、よりにもよって母さんが気に入ってたこのワンピースを見せびらかすなんて……。お前には心がないのか? だとしたら、お前はあの怪獣たちと同類だ!」

「待て、竜弥! 流石にそれは言い過ぎだ! 実来だって被害者の一人なんだぞ!」


 と、言葉にしたはしたものの、とても身体は動かなかった。


 竜弥を止めたいという意志はある。しかし、部外者の自分が口出しできる状況ではないことも確かだ。

 まさか自分がここまで無力だとは。楓は悔いるよりも早く、胸中に衝撃がせり上がってくるのを感じた。


 つと、実来の顔を再び正面に捉える。その目は未だ見開かれ、滂沱の如く湧き出る涙に覆われていた。先ほど安心させてやった時よりも、酷い泣きっぷりだ。

 

 しかし実来も、楓同様に声を上げることは叶わない様子だった。

 やがて、実来はそのまま脱力し、ぺたりと座り込んでしまった。


「くっ!」


 竜弥は肩で風を切るように振り返った。そのまま、足の裏を畳に打ちつけながら廊下へ出ていく。


「あ、ちょっと待ってくれ、竜弥!」


 楓はようやく声を出すことができた。その声が自覚できないほどに掠れていることに気づく。

 先ほどは実来が、自分と竜弥の仲を取り持とうとしてくれていたのに、自分には何もできないのだろうか。


 楓は竜弥の背中と、呆然自失の実来の間で視線を往復させた。そして自分の胸に手を当てる。

 自分がどうにかしなければ。しかし自分には、この時代の人間関係についての知識がない。こうなったら、駄目元でいくしかない。


 楓はようやく、自分の身体が鎖から解き放たれたような思いがした。


「実来、大丈夫か?」


 駆け寄ってしゃがみ込み、目線を合わせる。しかし、実来は荒い呼吸をする以外、何かをできるような状態ではなかった。


「今お前の兄上、いや、竜弥を説得してくるから、早まるなよ!」


 そう言って、楓は先ほど案内された竜弥の部屋へと向かった。


         ※


 扉を閉めた後になっても、誰かがついて来る気配は感じられた。この堂々とした、周囲を憚らない足音。実来ではあるまい。ということは、やって来る人間はただ一人。

 大きなため息をついた直後、勢いよく扉が開かれた。


「竜弥!」

「ノックしろって言ったろ、楓」

「あ、ああ、すまない」


 おや、と竜弥は片眉を上げた。楓がやけに殊勝である。怒鳴り込まれても仕方ないと思っていたのに。

 それでも竜弥は、扉に背を向け、勉強机の椅子に腰を下ろしていた。その背後で再び、しかし今度は静かに、扉が閉じられる。


「何の用だ、楓」


 敢えてぶっきら棒に問う。

 何か訊きたければ訊けばいい、と思った。怒鳴り返してやる。実来の代わりに謝っても、容赦はしない。


 だが、楓は沈黙を貫いた。何をしているのか、怪しく思われてくる。

 竜弥は立ち上がり、ゆっくりと振り返った。

 そこにいたのは、楓だった――まさか、土下座しているとは思わなかったが。


「楓……」


 思わず、声が漏れた。

 自分が動揺しているということを、今更ながら竜弥は悟った。

 そんな彼に更なる揺さぶりをかけたのは、楓だった。土下座を崩したわけではない。だが、微かに呼吸を乱している。


 怪獣との戦闘中なら、息が上がるのも分かる。だが、今この場所は安全で、増してや楓は過度な運動をしたわけでもない。


「まさか――」


 心のざわつきを制御し切れていないのだろうか。

 短い付き合いとはいえ、國守楓ともあろう少女、否、武人を名乗る剣術者が動揺しているとは、意外を通り越して驚異だった。


 顔を上げるように伝えるべきか、竜弥は迷った。しかしプライドの高い楓のことだ、自分の引き攣った顔など見られたくはないだろう。


「……悪い。さっきは俺が取り乱した。実来に悪気はなかったんだ。全部、俺のせいだ」

「違う」

「違わないさ」


『自業自得だよ』――そう呟いた竜弥の前で、楓はぱっと顔を上げた。突然の事態に、竜弥は目を瞠る。

 

 楓は、ぽろぽろと涙を零していた。そこに武人だ何だと騒ぎ立てていた気位の高さは見受けられない。ただただ、何かを願っている様子だった。

 このままでは話しづらいことこの上ない。


「楓、そこの座布団にでも座ってくれ」


 膝立ちの状態で移動し、座布団に腰を下ろす楓。竜弥はすっと息を吸って、言葉を頭の中で組み立てた。


「楓、お前は俺たちの命の恩人だ。俺や実来の母さんの身に何が起こったのか、知る権利がある」

「それは、私のような部外者が訊いていいことなのか」

「部外者? 冗談よせよ。今言ったじゃないか。お前は、俺たち兄妹の命の恩人なんだ」


 こうして、竜弥は語り出した。七年前のことを。


         ※


 七年前の秋頃。竜弥が九歳、実来が四歳の頃のことだ。


「あらあら、実来は熱があるわね。今日は幼稚園を休みなさい」


 そう言って、母親は実来の肩まで布団を引っ張り上げた。


「お母さん、早く!」

「はいはい、竜基はせっかちね。今行くわ」


 そんな家族の日常を、竜弥はぼんやり眺めていた。

 竜基は神山家の次男だが、実来から見ればやはり兄だった。


「竜弥、あなたの準備は?」

「できてるよ」


 ランドセルを背負い直し、竜弥は快活に答える。

 竜弥の通う小学校と、竜基や実来の通う幼稚園。この二ヶ所は、神山家からすると途中までの道のりが同じだった。


 この道のりを、母と竜基、そしていつもなら実来を含めて、皆で歩くのが日課になっていた。


 どこの街にでもあるような、平和を絵に描いたような風景。それが一変したのは、先を行く母親と竜基が横断歩道に歩み出した、次の瞬間だった。

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