第18話


         ※


 食事の後になって、ようやく風呂が沸いた。

 一番風呂を許された竜弥は、しかし満足感より不思議な違和感に囚われていた。


 竜弥は楓や実来に、先に入るようにと促したのだが、実来が猛反発をしたのだ。

 曰く、『準備があるから先に入れ』と。


「一体何の準備だよ……」


 そう呟きながら、竜弥は湯舟に肩まで浸かり、顔を拭う。


 実来の策略はさておき。

 竜弥には、より深刻に考えるべき事項があった。今後の楓の立ち回りについてだ。


 神山は、楓を民間人と見做し、戦闘から遠ざけようとしている。昨日東間が言っていたように、自衛隊にはまだまだ打つ手がある。

 それは、駐屯地で見かけたヘリや戦車を見れば明らかだ。きっと今にもニュース速報で、怪獣殲滅に伴う武力行使が国会承認された、というテロップが流れているかもしれない。


 では、楓はどうするのだろう? 過去に戻るということは考えていないようだし、現代に留まって生活するのだろうか。

 そうしたら、戸籍や国籍といったものを与えられるまで、しばらくどこかに隔離されてしまうかもしれない。


「そりゃああんまりだよな、俺たちを山林から救い出してくれた立役者だってのに」


 再びばしゃり、と顔に水飛沫を叩きつける。


 そうして考え込んでいる間、かなりの時間が経過していることに、竜弥は気づいていなかった。

 いや、せめて外部の情報を得るだけの感覚的余裕があればよかったのだ。

 しかし、そんなものはない。楓の今後を思うと、自分の頭の中で考えを巡らせるだけで必死になってしまう。それが致命的な事態を招くことになるとも気づかずに。




「さあ、楓ちゃん、お風呂だよ!」


 実来に背中を押されるようにして、楓は脱衣所に足を踏み入れた。

 しかし、実来は同伴しない。竜弥に対して言ったことと同様、『準備があるから先に入れ』の一点張りである。


 一体、何を考えているのだろうかと、楓は首を捻る。

 まあ確かに、自分の道着も泥や怪獣の返り血で汚れ切っている。普段なら、洗濯板で汚れを落とすことを想像するところだ。

 が、この時代には『センタクキ』と言って、勝手に衣服を洗ってくれる便利な機械があるらしい。『カンソウキ』というものと一緒に使えば、二十分ほどでまた着ることができるという。


「ここは、実来の言葉に甘えるとするか」


 楓はすっかり気を抜いて、刀を脱衣所の低いラックの上に起き、すぐに一糸纏わぬ姿になった。

 半透明になったドアに手をかけ、ゆっくりとスライドさせる。そして、


「あ」

「あ」


 浴槽の中にいた人物と目が合った。言うまでもなく竜弥と、である。

 二人にとって幸いだったのは、竜弥が視線を動かさなかったことだろう。いや、動かせるほど冷静でなかった、と言った方が正しい。

 いずれにせよ、楓の裸体の全景が、竜弥に目撃されることは避けられた。それでも、二人の思考と動作、その両方が停止してしまったのは問題だ。


 外部からは、蝉の音が喧しいくらいに響いてくる。だが、むしろそれは、この沈黙を一層引き立てる役割を担っていた。


 数秒後、あるいは数十秒後。

 先に動いたのは楓だった。半歩下がり、ドアを閉め、ゆっくりと刀を取る。そして、その場で思いっきり袈裟懸けに振り下ろした。


 斬! という擬音を体現するかの如く、脱衣所と浴室の仕切りとなるドアが斜めに斬られ、すぐさま細かい破片となって散らばった。


 この殺気は竜弥のみならず、誰しもが察知できたものだろう。それだけ楓の怒りたるや、凄まじいものがある。


 楓がドアを閉め、素直に引き下がってくれればよかったのだ。ドアが遮蔽板としての役割を果たし、楓は服を着ることができたはずなのだから。

 が、現実は違う。

 残念ながら、楓は自分の裸体を隠すのに最も適したドアを、あろうことか斬撃で木端微塵にしてしまった。


「ぶはっ!」


 竜弥は無傷。咄嗟に頭から湯に没していた。しかし、幸運はそう何度も続くものではない。


「なっ、何すんだよ楓! お前のせい……で……」


 竜弥の顔が、未だかつてない朱色に染め上げられた。

 彼の視線の先には、やはり楓が全裸で立っていた。せめて後ろを向けばいいものを、呆然としたまま身体の前面を竜弥に晒している。


「こんのぉ、不埒者ぉおおおおおおお!」


 自らも真っ赤になりながら、楓は刀を振るおうとした。

 だが事実、その必要はなかった。竜弥は浴槽の中で鼻から大量出血し、向こう側にぶっ倒れたのだ。

 ゴンッ! という音がする。どうやら、竜弥の後頭部がバスタブに直撃したらしい。


「ちょっと兄ちゃん! 楓ちゃん! 何やって――」


 駆けつけてきた実来は、その場で棒立ちになった。

 そして、大いなる勘違いとトラウマを植え付けられた。


 浴槽から竜弥を助け出そうとする楓。二人共全裸。

 腐った魚のような目で佇む実来を前に、楓はぶんぶんと片手を振った。


「ちっ、違う! 私はこの男を助けようとしていてだな――」

「……」

「この馬鹿、気を失って溺れかけているんだが――」

「……」

「そんな目で私を見ないでくれ! 疚しいことは何もない!」 

「……ごゆっくり」


 それだけ言って、実来はくるりと振り返り、後ろ手で廊下の扉を閉じながらすたすたと歩み去った。


         ※


 実来はどこか達観した思いで、今風呂場で起きている事件について考えていた。

 いや、光景そのものは思い出すまい。しかし、竜弥と楓が二人で一緒に湯舟に浸かり、ばしゃばしゃと戯れていたという『事実』は明確に脳裏に刻まれている。


 あれが青春というものなのだろうか? だとしたら、それはあまりに卑し過ぎる。昨晩出会ったばかりの二人なのに。


 自分まで赤面しそうになって、実来はふるふるとかぶりを振った。そんな大人(?)の事情はどうでもいい。今は、自分が執り行おうとしている『ある計画』を上手く成功させなければ。


 軽く埃を被った箪笥から、夏用の衣類を取り出す。女性のものだ。自分のおさがりでは、楓の背丈に合わないだろう。だが、この服ならば。


「よし!」


 コーディネートもばっちりだ。

 ――楓ちゃん、喜んでくれるといいんだけど。

 そう思いつつ、こればっかりは時代ごとの流行り廃りがあるものだから、今悩んでも仕方ないだろう。


 ちょうどその時、廊下と脱衣所を結ぶドアが開かれる音がした。ひどく咳き込みながら、誰かが歩いてくる。この足音は、竜弥のものだろう。

 その足音は、ちょうど実来が今いる『とある部屋』の前で止まった。


「実来? 何してるんだ、こんな部屋で?」

「あ、まだ見ちゃ駄目! 後でお披露目するから!」

「ああそうかい」


 意外なほど素っ気ない兄の態度に、実来は少しばかり抵抗感を覚えた。


「兄ちゃんも、きっとびっくりするよ~?」

「びっくりも何も、こちとら溺れかけたんだ。まさか自宅の浴槽で溺死ってのはねえよなあ……」

「楓ちゃんは?」

「もうじき来るだろ。時間をずらすのに、俺が先に上がっただけだから」

「じゃあ、兄ちゃんは居間に行ってて」

「ここにいちゃ駄目なのか?」

「駄目! 駄目ったら駄目! お披露目までは駄目!」

「さっきからお披露目、お披露目って……。何を言ってんだ、お前?」


 ――しつこいなあ、もう!

 実来は無視を決め込むことにした。すると竜弥も、粘るだけ無駄だと察したのか、すぐにその場を後にした。


 ひとまとまりになった衣類を、実来は楓の下に運んでいく。

 脱衣所の扉をノックし、そっと開けてみる。


「楓ちゃん?」


 すると、実来の目に飛び込んできたのは楓の後ろ姿だった。浴槽に浸かり、ぴくりともしない。


「どうしたの、楓ちゃん?」

「……」


 今度は楓がだんまりを決め込む番だった。


「あっ、あたしなら大丈夫だよ? その、楓ちゃんが竜弥兄ちゃんのお嫁さんになってくれても」

「ぶふっ!」


 楓は振り返らなかったが、動揺しているのは肩の揺れだけでも察せられた。


 実来の知識では、異性同士で入浴を共にするのは夫婦くらいのものだという認識しかない。

 先ほどは冷ややかな対応をしてしまったし、反省の意も込めてその件に触れてみたのだが、どうやら楓には心の準備ができていないようだ。


「楓ちゃん、着替え置いておくね。今の時代に、道着で街を出歩くのは不自然に見えちゃうから」

「……かたじけない」


 ぶくぶくと呟く楓。そっと着替えを置く実来。

 そんな自分の行為が『出過ぎたこと』であると気づくには、まだ実来は幼すぎたのかもしれない。


「お母さんも幸せだよね、久し振りに自分の服を着てもらえるんだもの!」


 その小さな語りかけが、他人の耳に入ることはなかった。

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