第17話

「実来、私にお前を斬るつもりはない。安心してくれ」


 何を今更、と思ったものの、実来は言葉にできなかった。

 皮肉を言うつもりはなかったし、そもそも今の心境では、まともに了解の意を示すことすら困難だ。


 ゆっくりと視線を下げ、畳の上に漂わせる実来。ここまで涙を堪えてきたが、流石に重力には勝てず、ぽろぽろと膝の上に落涙する。


 しかし、次の瞬間に楓が取った行動は、実来には想像もつかないことだった。

 膝を擦り寄せ、自分の肩に実来の頭部を抱き込んだのだ。


「えっ、楓ちゃん?

「あんな脅しをしてしまって、本当にすまなかった」

「か、楓……ちゃん……」


 掠れた自分の声に対し、楓の声はよく分からなかった。

 何を言っているのかは分かる。だが、どうしてこんなに震えているのか。どうしてこんなに優し気なのか。先ほどまでの覇気はどこへ行ったのか。実来には不思議だった。


 何かを不思議だと感じる余裕は、実来にはあっても楓にはなかった。楓の心は、今の状態でいっぱいいっぱいなのだ。楓は声を詰まらせ、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「私は國守葵の長女で、多くの弟妹の面倒を見てきた。だが、魔晴剣術を継ぐ者としての自覚から、いつしか彼らを突き放すような態度を取るようになってしまったんだ」

「そ、そう、なんだ……」


 微かに楓の肩が上下する。


「しかし、竜弥の言動を見て、思い出さずにはいられなかった。幼い弟妹たちの世話をして、よく一緒に遊んでやった頃のことを。いつか私が彼らを守るのだと、意気込んでいたことを」


 ごくり、と楓が唾を飲むのに合わせ、実来は上半身を楓に引き付けられるのを感じた。


「お前の言う通りだ、実来。私がもっと、この時代に合わせた言動を取るべきだった。この時代の家族の在り方というものを知ろうと、努力するべきだった。にも拘らず、お前を斬り捨てるなどどいう暴言を吐いて、お前を困らせて、挙句竜弥の気分を害してしまって……。この無礼、どうやって詫びればいいだろうか」


 楓の声は、覇気が失われたのみならず、途方に暮れているようにさえ感じられた。

 だが、楓が一つ勘違いしていることに、実来は気づいていた。すっと息を吸い、呼吸を整え、こう語る。


「兄ちゃんがあんなことをしたのは、気分を悪くされたからじゃないよ」

「違う、のか?」

「兄ちゃんにとって、家族はあたしだけだから。どうしても守りたかったんだよ、あたしのことを。自分の力でね。だからあんなに怒ったんだ」

「だ、だが!」


 楓はぐいっと実来の身体を引き離し、真正面から瞳を覗き込んだ。


「それでも、何とか詫びなければ。私とて、弟妹を喪う無念さは分かっているつもりだ。しかし冗談とはいえ、あんな脅し文句を実来に叩きつけてしまった」

「うん……」

「私にだって、守りたかった弟がいたんだ。それなのに、弟を助けられなかったという自分の気持ちに振り回されて、竜弥が実来をどれほど大切に思っているのか、推し測ってやれなかった。私の未熟さ、不徳の致すところだ」


 そこまで言うと、楓は膝を摺らしながら正座のまま後退。再び三つ指を着いて、深々と実来に頭を下げた。


「本当に、申し訳なかった」




 楓はこの時、実来に足蹴りされても仕方ないと思っていた。実来にとってみれば、楓は自分を殺そうとした張本人なのである。どんな罰も受けるつもりだった。

 しかし、楓に向けられたのは暴力ではなく、言葉だった。


「そう、だね」


 呟くように、実来が言う。


「楓ちゃんばっかりに、『今の日本の風習に合わせろ』って言うのは、不公平だよね。あたし、もっと楓ちゃんのことが知りたい。そして、兄ちゃんとも仲直りしてほしい。だから、ちょっとでもいいから、一緒にいてくれる?」


 目を見開いたのは、二人同時のことだった。

 実来には、どうして楓にこんなことを言ったのかが分からなかった。

 楓には、何故自分が必要とされているのかが謎だった。


 それでも、『殺す』『殺される』という遣り取りを経て、二人の心が通じ合ったのは事実だ。随分と荒療治ではあったが。


 時代を超えて仲を深めるには、これでよかったのかもしれない。少なくとも、実来にはそう実感させられる。

 一方の楓は、未だ戸惑うばかりだった。自分が実来を脅かしてしまった、という罪悪感は拭いきれないままだし、実来の怯え切った表情は、瞼の裏から離れない。


 ぎこちない沈黙が続いていたが、ゆっくりと言葉が浮かび上がってきた。実来の口元からだ。


「車の中でお父さんから聞いたんだけど……。兄ちゃんも戦える、って本当?」

「あ、ああ」

「だったら、二人で戦えた方がいいよね? 怪獣、いっぱいいるから」

「そうだな」

「っていうことは――うん、そういうことだね」


 実来の掴みどころない言葉に、首を傾げる楓。だが、今は実来に合わせてやることにした。


「恐らくお前の考えていることは正しいと思うぞ、実来」

「ありがとう、楓ちゃん」


 実来は初めて、楓の前で笑顔を見せた。


         ※


「さて、卵と野菜だったら食ってるよな、昔の日本人も」


 台所で冷蔵庫を漁りながら、竜弥は呟いた。


「あ、なんだ。ホッケなんかあるじゃん。あとは味噌汁の具材を、っと」


 考えてみれば、自分と実来は昨夜から何も口にしていない。しかも、生きるか死ぬかの緊張状態を強いられてきた。心理的疲労も半端なものではないだろう。

 自分では平気なつもりでいたが、実際のところ全身が重いし、軽い目眩もする。

 まあ、三人分の料理を作るだけの余力はあるだろうが。


「さて、と」


 エプロンをかけて、冷蔵庫から取り出した食材と炊飯器を見つめる。

 しかし、料理に取り掛かろうとして、竜弥は手を止めた。


「何やってんだろう、あの二人」


 家の中を楓に案内した時、楓は迷いなく実来の部屋に向かっていった。それから十分ほどが経過したが、誰かが出てきた気配はない。

 盗み聞きするのも憚られたので、放っておいたけれど。


 考えてみれば不思議なことだ。

 ハンヴィーで移動中、楓が実来を脅したことを聞いて、自分はあれほど激怒したのだ。

 にも関わらず、その二人が時間と部屋を共有することに抵抗がない。

 これは、楓に対する信頼の気持ちからだろうか。彼女の真摯な態度を見て、『もう楓が実来を傷つけることはあるまい』と信じ始めたのだろうか。


「この気持ちは何だろう、ってか」


 実来の部屋の扉が開いたのは、味噌汁に入れる葱を切り始めた時だった。

 耳聡く扉の開閉音を聞きつけた竜弥は、コンロの火を弱めて振り返った。


「実来! 大丈夫……か?」


 呆気に取られた。実来が清々しい笑顔を見せていたからだ。

 

「どうしたの、兄ちゃん! あ、いい匂い! さあ、楓ちゃんも座って! もうすぐ朝……じゃないや、昼? まあ、ご飯にするから!」

「ああ、すまない」

「いいっていいって! 楓ちゃんは、今はうちのお客様だからね!」


 どこか所在なさげに頬を掻く楓。


「手伝うよ、兄ちゃん!」

「お、おう。じゃあ、ご飯よそって運んでくれ」

「はーい!」


 どうやら、実来と楓は無事に交流を正常化したらしい。

 ただ一つ、竜弥は気づいていなかった。部屋から出てくる前に、実来がちゃんと涙の跡を拭ってきていたことに。もちろんそれは、竜弥を心配させまいとしてのことだ。


 それから間もなく。神山家の居間の円卓には、見事な和風料理の皿が所狭しと並べられていた。


「おお、これはいかにも美味だな」


 そう楓が呟いた直後、きゅるきゅるという音がついてきた。実来も楓も、揃って自分の腹を押さえている。やはり皆空腹だったのだな、と竜弥は実感した。


「そんじゃ揃って、いただきます」

「いただきまーす!」

「いただきます」


 さっとご飯茶碗に手を伸ばす実来に、恭しく頭を下げる楓。

 竜弥は二人が料理に手を着けるのを待って、自分も味噌汁を口にした。

 しかし。


「む……」

「どうした、楓? 口に合わなかったか?」

「い、いや、何でもないっ」

「でもお前、何でもないって顔じゃないぞ?」


 竜弥の指摘はもっともだった。楓はゆっくりと箸を置き、じっと料理を見つめている。

 その時、やや俯きながら、楓が上目遣いで竜弥と視線を合わせた。


 楓が急に見せた、女性らしい、というか可愛らしい所作。それを見て、竜弥は不覚にも赤面した。慌てて口内の味噌汁を喉に流し込み、尋ねる。


「どっ、どうしたんだ、突然?」

「そ、その……」


 もじもじと視線を行き来させる楓。彼女もまた、頬を朱に染めていた。


「に、日本男児ともあろう者が、手作りで料理を振る舞ったのを見たのは初めてで……。しかも、見た目も味も大変美味だったから……」

「そう? 何か変かな?」


 純粋に疑問符を浮かべる実来。そちらに顔を向けながら、楓は続ける。


「男性の作る料理と言うのは、戦場に持参する味気ないものしか食べたことがなくてな。それなのに、竜弥の料理が美味だったから、ちょっと、お、驚いただけだ!」

「そ、そう、なのか。ありがとう」

「礼には及ばん! こんな美味な料理を出す竜弥が悪いのだ!」


『悪い』と言われてしまった。けれども、竜弥はそれほど気分を害されはしなかった。ただ、自分の料理を客人に振る舞うのは久々だったので、戸惑ってしまっただけのことだ。


「いいから! ゆっくりでいいから、ちゃんと食っとけよ」


 そう言って、竜弥は視線を逸らした。

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