第3話【第一章】
【第一章】
がさがさと、下草が揺れる音がする。
八月の山林に踏み入って、四時間余り。それなりの距離を歩いたというのに、何故か虫の音が聞こえてこない。真夜中とはいえ、全く聞こえないというのは奇妙なことではないか。
しかし、そのがさがさという音を立てている二人には、そんなことを気にかけるゆとりはなかった。
「ね、ねえ、竜弥兄ちゃん……」
「何だ、実来」
竜弥と呼ばれた少年は、すぐ後ろをついてくる少女をちらりと見遣った。それから一つため息をついて、立ち止まる。それに合わせて、妹、実来も足を止める。
竜弥が振り返ると、実来は首をすぼめるようにして、目を逸らした。肩くらいまでのツインテールが、ゆらゆらと揺れている。
「お前の兄貴は俺だけなんだ。分かるよな?」
「うん」
「よし」
実来が頷いたのを見て、竜弥は再び歩みを始めた。
しかしながら、と竜弥は考える。本当は、自分一人で山に来る予定だった。実来を連れてくるつもりはなかったのだ。
純粋に危ないと思ったし、実来はまだ十一歳なのだ。小学生の夜遊びなど、褒められたものではあるまい。
かく言う竜弥も、まだ十六歳の高校生なのだが。
しかし、夜の山道を行くという危険を冒すには、十分すぎる理由があった。
彼は(そして本当は実来も)、父親に会おうとしていたのだ。家庭を顧みない、ロクに顔を合わせることのない薄情な父親に。
※
父親からの連絡が来たのは、三日前のことである。竜弥のスマホにショートメッセージが届いた。
時刻は午前二時。ただでさえ、叩き起こされて不機嫌だった竜弥は、差出人が父親であると知って余計に顔を顰めた。
文面はこれだけ。
《しばらく新しい任務に就く。二週間から一ヶ月の間は帰れない》
黙って数回目線を行き来させた竜弥は、自分でも意外なほど乱暴な口調で呟いた。
「何だよ、二週間から一ヶ月って……。随分と大雑把な括りじゃねえか」
スマホをベッドの枕元に叩きつけるように置いて、竜弥はごろり、と身体を回転させる。ブランケットを掛け直し、ふーっと長い息をつく。それからまた回転し、仰向けになってぎゅっと目を閉じる。しかし、
「……眠れねえな」
ブランケットを吹っ飛ばし、ベッドから下りる。そのまま立ち上がって伸びをした。自然と欠伸は出てきたが、やはり眠気はやって来ない。
原因は自覚している。そして誰が見ても明らかである。やはり父親からの連絡というものが、竜弥の神経を逆撫でしたのだ。
ぎゅっと拳を握りしめ、ともすれば暴れ出しそうになる自分の気持ちを押さえ込む。
あの男は、俺や実来のことを何とも思っていないんだ。母さんのことも、竜基のことも。
「畜生が」
悪態をつくことで、辛うじて破壊衝動を押さえ込む。
両手を腰に遣った時、自室のドアが控え目にノックされるのが聞こえた。
「起きてる? 兄ちゃん」
「どうしたんだ、実来」
声をかけると、実来がそっとドアを開けて入ってきた。
「あの、お父さんの――」
「止めろ!」
竜弥が叫び、実来が黙り込む。否、息を呑む。
びくり、と肩を震わせた妹を見て、竜弥はしまったと思い、俯いてガシガシと後頭部を掻いた。
「……兄ちゃん、やっぱり許せないの? お父さんのこと」
「当たり前だろ」
吐き捨てるような、竜弥の口調。
「あの男は、父親なんかじゃない。家族を捨てたんだ。任務のために。お前はまだ小さかったから、あんまり覚えてないだろうけど」
「う、うん……」
実来は視線を落とした。踏み込むべき話題ではなかったと後悔しているのだろう。そんな彼女に向かい、竜弥は気分を切り替えるようにして顔を上げた。
「で、どうしたんだ、実来?」
もしかしたら、あの男は実来にまで連絡を寄越したのか。
そんな疑念を抱きつつ、竜弥は額の汗を袖で拭った。しかし、実来の言葉は思いがけないものだった。
「あたし、眠れなくて水を飲みに台所に行ったんだけど、こんな紙が落ちてたの」
差し出されたのは、A4サイズのプリント用紙が一枚。
「何だ、これ?」
「お父さんの書類だと思う。ほら、ここに『神山竜蔵』って書いてあるし」
眉間に皺を寄せながら、竜弥はその用紙を見つめた。そして、自分の顔色がどんどん変わっていくのを自覚した。
「どうしたの、兄ちゃん?」
「実来、お前、口は固い方だよな?」
「えっ? うん、お父さんが、家でのことはあんまり人に喋るな、って言ってるから」
「よし、じゃあ教えてやる。この紙に載ってるのは、あの男の次の仕事の概要だ」
「ガイヨウ?」
「あー……、大まかな内容ってことだ」
それを聞いて、実来は両眉を上げた。
「ま、まさかお父さんが置いてった、っていうの? そんな大事なものを?」
「いや、きっと気づかないうちに落としていったんだろう」
こんな単純なミスを犯すなんて、あの男も歳を取ったということだろうか。
そんな柄にもないことを考えていると、ふと好奇心が顔を出した。
「実来、この用紙、兄ちゃんが預かってもいいか?」
「あ、いいよ。あたしには難しいみたいだから」
「悪いな」
その後、実来は素直に部屋に戻っていった。
さて、と。胸中で呟いて、竜弥はその用紙、すなわち機密資料に目を通し始めた。
そこに書かれていたのは、この街の裏山で連続猟奇殺人事件が発生した、ということだ。
もちろん、それは警察の管轄であり、竜蔵が関わる事柄ではない。
だが、異様なのはその次だ。
入山して犯人確保にあたった警官隊や機動隊が、多大な犠牲者と行方不明者を出したということ。
そして、生存者の証言によれば、
「人間大の怪獣……?」
そんな謎の存在が、裏山にいるらしい。それも複数。
死傷者・行方不明者が出始めたのはちょうど一週間前。その翌日から、裏山周辺に住む民間人は、半ば強制的に退去させられたという。
裏山で不発弾が発見され、警視庁から爆発物処理班が応援に来た――そんな話は、竜弥も聞いている。
だがまさか、マスコミを欺いて自衛隊が動くほどの事態になっていたとは。
確かに、マスコミといっても地方局しか注目しないようなローカルニュースだったから、情報統制は簡単だったのかもしれないが。
それから三日間、竜弥は悩みに悩んだ。
自分はどうしたいのだろう? この胸中のざわめきは一体何なのだろう? 『何もせずにはいられない』という焦燥感をどうしたものか?
そして、今日の夕刻。
竜弥は決断した。父親に会いに行く、と。
父親の、扶養者に非ざる冷たい態度は、ずっと見てきた。もし父親が二、三日で帰宅するというのだったら、まだ文句をぶつけるのを待っていてもよかっただろう。
だが、竜蔵から提示された帰宅までの時間は、二週間から一ヶ月後。とても待ってはいられない。
それに、自衛隊が出動するような非常事態というものに、竜弥は少なからず興味があった。
興奮からか、自分が死地に赴くような危険性も感じられない。
単純に、『父親の仕事の邪魔をしたい』という気持ちも少なからずあったのだが。
こうして、竜弥は警備の網をかいくぐり、こっそり一人で裏山に忍び込んだ。
と、思っていたのだが。
※
「どうしてお前まで付いて来るかなあ、実来……」
「そんなじとっとした目で見ないでよ、兄ちゃん。まるであたしが邪魔者みたいじゃない」
「邪魔者だよ!」
あ、言い過ぎたか。
竜弥ははっとしたが、実来が気にかける様子はない。
「兄ちゃんとお父さんの喧嘩の仲裁してきたのは、一体どこの誰だと思ってるの? あたしみたいな監視役がいなくちゃね」
「そ、それもそうかもしれないけど……」
肩を上下させ、ため息をつく竜弥。
その時気がついた。実来がじっと一点を見つめていることに。
彼女の視線は、竜弥の右肩の上あたりに固定されている。
「おい実来、一体何が――」
「危ない、兄ちゃん!」
『え?』と間抜けな声を上げながら、振り返る竜弥。すると、まさに彼の右肩があった空間が断ち斬られるところだった。
「どうわっ⁉」
振り返り、思いっきり尻餅を着く。そこにいたのは、まさに異形の怪獣だった。
甲殻類を思わせる武骨な外骨格、蟹のそれを数十倍にしたかのような巨大な鋏、その前足の間から覗く、三つの眼球。そのいずれもが、淡い緑色を帯びている。
「実来、逃げろ!」
そう叫びながら、何とか腰を上げる竜弥。しかし、先に山道を戻ろうとした実来の方から悲鳴が上がった。
「あ、あたしたち、囲まれてる⁉」
「怪獣って、こんなにたくさんいるのかよ!」
前後の道を封じられ、竜弥と実来は互いに背中を合わせるようにしてへたり込んだ。
自分たちはここで死ぬのだろうか。怪獣に斬殺されて、激痛に苛まれながら地に伏すのだろうか。
――こんなことになるなんて……!
竜弥がぎゅっと目を閉じて唾を飲んだ、その時だった。
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