第39話 うかがい知れぬ二人の思惑
◇◇
『焼き崩れる教会から、騎士クロードが王女シャルロット様を救出!』
グリフィン帝国の宮殿の一室。皇子フェリックスの前に、みすぼらしい格好のやせこけた男がひざまずいて、アッサム新聞の朝刊を差し出した。
「あっしも見たんです。流れ星のように光りながら夜空を飛んでましてね。豪勢な馬車の前で降り立ったやいなや、小綺麗な格好したお嬢さんと王宮の中へ消えていったんです。彼女こそ王女シャルロットに違いありませんです。へいっ」
彼はフェリックスがクロードを探すように命じた配下の、さらに下の下……世界中に散らばる下人の一人。お腹を空かせて王都を徘徊していたところで、偶然にもクロードとシャルロットが空から地上に降り立つのを目撃したのである。
「バニッシュ。この男の目はまことか?」
フェリックスは隣に立つ初老の男に声をかけた。彼はバニッシュという名の魔術師で、人の心を読むのを得意としている。そのため、相手が嘘を言えば即座に見破ることができるのだ。
「はい。嘘を言っているわけではないかと」
「そうか……。おい、おまえ。よくやった。褒美をやろう」
「へいっ!」
痩せた男が姿勢をただしてフェリックスを見上げる。その目は純粋な欲望で輝いていた。多額の報酬はすぐ目の前。今夜は……いや、もしかしたら一生、美味しい料理と温かい布団にありつけるかもしれない。ありふれた庶民的な幸福を夢見ている、そんな目だ。
フェリックスはニコリと微笑んだ。
「奥に食事とワインを用意してある。好きなだけ飲み食いしていくがよい。帰り際に金を受け取るのを忘れるなよ」
「へいっ! ありがとうございます!!」
男は奥の部屋へ飛ぶようにして消えていった。
すぐにカチャカチャと皿とフォークが奏でる高い音がする。
今、彼は幸せの絶頂にいることだろう。
「哀れだな……」
フェリックスのその一言でバニッシュは全てを察した。
食事とワインの中には遅効性の毒が仕込まれており、数分後、瘦せこけた男は死の眠りにつくということを。
「そうですな……」
バニッシュはため息をついて、男がどうして殺されねばならないのかを逡巡した。
ああいう自分の欲望に真っ正直な人間ほど口が軽い。フェリックスがクロードを血眼になって探していたということが世間に広く知られるのは、色々と不都合が生じる恐れがある――。きっとそんなところだろう。
もし男が多少なりとも分別のつく人間で、目の前のご馳走に手をつけずに去っていったなら、今夜は安全なところで旨い酒にありつけただろうに。
神妙な面持ちでいるバニッシュのかたわらで、フェリックスはニヤニヤしながら立ち上がった。
「さてと。アッサム王国との同盟交渉がまとまりそうなんだ」
「そうですか。それはよかったですな」
「アッサム王国なんてチョロいもんさ。南の砦を一つ差し出したら、喜んで同盟に食いついてきたんだからね」
バニッシュは耳を疑った。
フェリックスの言う砦は要衝の一つで、そこを占拠されたら南部地方の支配自体が危うくなるからだ。
「お父上はそのことをなんと?」
「父さん? 何も報告してないよ。おまえに任せるってすごい剣幕で怒鳴られたからね」
「さようでしたか……」
「あはは! おまえは心配性だなぁ。俺だって分かっているさ。あの砦の重要性をね。だから南部の野郎どもを一掃したら、同盟なんて破棄してすぐに砦を奪い返すつもりだよ」
それは危うい賭けだ……バニッシュはそう言いかけたが辞めた。
相手は何を言っても自分の意見を曲げようとしない人間だからである。
「これまでの交渉は高官に任せていたが、最後は皇族である俺が交渉のテーブルにつかねばならない。まあ、書状に署名をするだけだからね。気軽なものさ」
バニッシュには彼の本心が手に取るようにして分かっていた。彼の本当の目的は外交ではなく、クロード・レッドフォックスとコンタクトを取ること。その先で何を企んでいるのかまではうかがい知れないが、一つだけ言えるのは、『敵国に囚われているかつての部下を救出する』という分かりやすい正義感など毛頭ないということだ。
つまりフェリックスの頭の中には、自分自身の利益のことしかないのは、十中八九間違いない。
そういった意味では、隣の部屋で悶絶して倒れた男と何ら変わらないではないか……。
一方は理由も告げられず殺され、一方は己の欲望のためにこれからも多くの人間を不幸に陥れようとしている――。世の中はかくも理不尽であってよいのかと、バニッシュは心の中で嘆いていた。
「ではいってくる。同盟が締結されたあかつきには、すぐに反乱の鎮圧に取り掛かる。軍勢を整えておけ。逆らったヤツらには容赦しない。はは。俺をはめたあの娘は奴隷にでもしてやろう」
近頃は油断するとすぐ冷える。
カラスの黒い羽根をあしらった外套を羽織ったフェリックスは、ゆったりとした足取りで部屋を後にしたのだった。
◇◇
「ソフィア慈愛教会を焼き払うとはな。さすがにやりすぎだ」
アッサム王国の国王、エルドランは、豊かなひげを蓄えた顔をしかめながら、妻ローズに苦言をていした。
宮殿の中庭に面したテラスで朝食をとった後のことだ。
ティーカップを口につけたローズは、すまし顔で返した。
「仕方ありませんわ。あの建物は前々から『倒壊の恐れあり』と著名な建築家からも文書で訴えをもらっていたのですよ。ね? そうよね。マテウス」
髪をオールバックにした青年……マテウスは無表情のまま「はい」と答え、一通の書状をエルドランの前に差し出す。
だがエルドランは一瞥すらくれずに、ローズにそれを突き返した。
「ふんっ! どうせその建築家とやらをそそのかせて書かせたのだろう。知っているぞ。この者がおまえの主催するパーティーに何度も足を運んでいるのを」
「ほほ。陛下らしくありませんわ。嫉妬だなんて」
「嫉妬などではない!」
顔を赤くして反論したエルドランを前にしても、ローズは平然とお茶をすすっている。
「だったら私を責める気かしら?」
「おまえを責める気はない。だが焼け落ちる寸前の教会からシャルロットと、クロードとかいう騎士が、空を飛んで脱出した様子を大勢が目撃したのだぞ。王都は今、その話題で持ち切りというではないか」
「あら? 一度も王宮を出たことのないあの子の顔を庶民が知っているとは思えないけど」
「シャルロットがクビにして王宮を出た元侍女や執事が何人いると思う? 彼らのうちの何人かの目に留まり、新聞屋に情報を売ったのだ。彼らは憶測を真実のように書き立てるのが仕事だからな。それ以上は言わずとも分かるであろう」
「つまり私がシャルロットを亡き者にしようとしたのではないか、というゴシップが流れているとでも言いたいのかしら?」
ローズは小首を傾げた。
エルドランが苦虫をつぶしたような表情で顔をそむける。
「いずれにしても王都でシャルロットを狙うことは、
「あなたに言われなくても、そうするわ。仕方ないから」
「それから……」
「それから?」
「……もう辞めにしたらどうか」
「辞めに? なにを」
目を丸くしたローズの顔に冷たいものが浮かぶ。彼女は見抜いていたのだ。
夫が亡きもう一人の妻、ソフィアを今でも深く愛しており、その子供であるシャルロットを大事に思っていることを。
「いずれにしてもシャルロットはもうすぐ悪魔に変わる。だったらその時がくるまで大人しく見守って――」
エルドランの言葉を遮るように、ローズは激しくテーブルを両手で叩きつけた。
雷が落ちたかのような音が響くと同時に、テーブルに置かれた2つのティーカップから紅茶がこぼれる。
だがローズは気に留めることなく、立ち上がり、冷たい視線をエルドランに浴びせた。
「あの子にはあなたの血ではなく、悪魔の血が流れているのを忘れたとでも言うの?」
「そんなことはないが……」
家族として過ごしてきた記憶はそう簡単には消せないのだ――と、エルドランは言いかけたところで思いとどまった。それを口にすればローズが逆上するのは目に見えているからだ。
「私はあなたとジョーを守るために、心を悪魔にしてあの子を楽にしてあげようとしているのよ。何もしようとしないあなたが口を挟む筋合いはないですわ」
ローズがテラスから応接間の方へ歩き出す。
その背中を色のない目で見つめていたエルドランは、乾いた声をかけた。
「3日後、グリフィン帝国から皇太子のフェリックスが訪れてくる。晩餐会にはおまえとジョーも顔を出しなさい」
ローズはぴたりと足を止め、しばらく動かなかった。
そしてエルドランが不審そうに眉をひそめたところで、弾むよう声をあげたのだった。
「ええ、もちろんですわ。大切なお客様ですもの。あ、でも、フェリックス殿下はシャルロットのこともご存じよね?」
「何が言いたい?」
「ほほ。だったらシャルロットも呼ばないと。殿下に変な勘繰りを入れられたら、わが国の不利になりかねませんわ」
「なに?」
エルドランが驚く声をあげたが、ローズは振り返ろうとはしなかった。
だがその背中を見ているだけでエルドランは肝が冷える思いにかられた。
「それから例の騎士……クロードも招待しましょう。彼、グリフィン帝国の出身のようですからね。フェリックス殿下にお会いできれば、きっと喜んでいただけますわ」
明らかに何かを企んでいるのは明白だ。胸の内に悪い予感が走る。
しかしエルドランに彼女の申し出を断る理由はなかった。
ローズはエルドランの返事を待たずに、軽い足取りで立ち去っていったのだった。
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