第29話 嵐の前触れ
◇◇
クロードが新しいベッドの感触を堪能している頃。
グリフィン帝国の執務室に、皇太子のフェリックスが浮かない顔で入った。
何かあるな、と察した皇帝ハイドリヒは、人払いをし、向かい合って座る。
「どこを探してもクロードが見つからなくてね。でも敵は待ってくれない。ついに南部の砦を攻略しはじめてますよ」
やはりそのことか……。
ハイドリヒは深いため息をついた。
「父さん。このままだとヤツらは北に軍勢を進めてくる。早くどうにかしないと」
珍しく焦った調子でまくしたてる息子を前に、ハイドリヒの顔に落胆の色が一層濃くなっていく。
(器の小さい男だ……)
60を超え、近頃は自分亡き後の国の行く末を案じるようになってきた。
そのためか、息子の狼狽は可愛さよりも、むしろ憎々しさすら覚える。
「北に向かいたくば、向かわせればよい」
「つまり父さんは
「北に向かわせ、その背後を叩けばよい――そう言っているのだ」
「どうやって?」
ハイドリヒの中で何かが音を立ててキレた。
気が短くなったのも年のせいか……。
――バンッ!!
テーブルを勢いよく叩くと、ひたいに青筋を立てて怒鳴った。
「アッサムと手を結べ!! すべて貴様だけでやるのだ!! いいな!!」
フェリックスが目を丸くしてハイドリヒを凝視する。
しばらくハイドリヒの荒れた鼻息の音だけが二人の間を漂った。
ようやく息を整えたハイドリヒだったが、原因不明の罪悪感に胸がしめつけられ、まともに息子の顔が見れそうにない。
そして思い直した。
子は親の鏡という。
子が愚かなのは、自分が愚かゆえだ――。
自分の分身に向かって怒鳴り声をあげるとは、なんと恥ずかしいことか。
「分かったなら早くここから出て行け」
ハイドリヒは吐き捨てるように言い残し、自室に引きこもったのだった。
◇◇
同じ頃。
アッサム王国の王宮では昼間だというのに、音楽や大道芸の催しが中庭で開かれていた。
無論、その中心にいるのは王妃ローズ。
仲の良い友人らを周囲に置き、上機嫌でワインをあおっている。
そんな彼女に髪をオールバックにした色白の青年が耳打ちした。
「マクシミリアンの説得は失敗だった、とのことです」
ローズはうんともすんとも言わず、笑顔のまま、大道芸人たちをはやしたてている。
「さらにシャルロット様はリゼットをそばに置くつもりはなく、その代わりに例の執事を騎士に格上げしたとか……」
ローズの顔に一瞬だけ途方もない怒りが走り、青年の背筋が思わず伸びる。
だがそれつかの間、彼女は元通りの穏やかな笑顔に変わった。
「ちょっと失礼」と、周囲に声をかけてからその場を離れたローズの後ろを、青年が足音すら立てずについていく。
そうして
「あの子ったら……。いったい誰からの入れ知恵かしら?」
「シャルロット様自身がお決めになったことかと」
「ふーん。そう……。まんまと私を出し抜いたわけね。こういう場合、『よくできました』とほめてあげるべきかしら?」
青年は何も答えずに、ただローズの背中を見つめる。
疑問形だが答えを求めているわけではないのは、よく分かっている。
むしろ生半可に媚でも売ろうものなら、明日の我が身は難攻不落の監獄塔の中だ。
はぁ、と小さな吐息を漏らしたローズは、くるりと振り返ると、青年のあごに細い指を滑らせた。
「ふふふ。私ね。会ってみたいわ。新しく娘の騎士になった男に」
青年が一歩後ろに下がって頭を下げる。
会ってみたいとは、何がなんでも娘から引き離せ、という意味なのは百も承知だ。
「かしこまりました。召喚状を送っておきます」
「そうして頂戴」
「しかしそれでも召喚に応じない時は……」
口角を上げたローズは、青年に顔をぐいっと近づけた。
「私に言わせる気?」
きゅっと口を結んだ青年に対し、ローズは「はぁ」と息を吹きかけた後、優雅な足取りで中庭へ戻っていった。
◇◇
王宮の外。人々が
石畳の大広場に立てられた巨大な掲示板には、様々なお知らせが張られている。
『シャルロット王女の侍女を募集中!』
黒髪の上からフードを目深にかぶったやせ形の美女は、上質な羊皮紙を見て、にやりと口角を上げた。
「これだわ」
本音を言えば、王族の娘の世話などまっぴらごめんだ。
だがこれこそ運命だと、歓喜したには訳がある。
「クロードに会える……」
頬を桃色に染め、うっとりとした表情を浮かべる。
そう……彼女の目的はクロード・レッドフォックス。
服の隙間から這い出てきた一匹のホタルが、彼女の感情をあらわすように、空高く舞い上がった――。
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