第46話 『富岡しのぶ』、夜逃げする。

◇◇◇


 どこか鬱陶しい声が聞こえる。

 今はゆっくり寝ていたいのに。どうしてそんなにあたしに構うの?


「――、――――?」


 やめてよ。もう構わないでって言ってるのに……


「――、とお嬢ちゃん?」

「うるさい、もう放っておいてよッッ!!」


 咄嗟に声を荒げて、腕を振るえば目を点にした知らないおばさんと視線が合った。

 『乗客』の誰もが驚いたような顔をしてあたしを見つめている。


 てっきり、あの野蛮人がまた口やかましく起こしに来たのかと思ったけど……


 そうかここは――

 ガタンガタンとオンボロのバスに揺られ、あたし――富岡しのぶは朝日さしこむ窓辺を眺め、ここが自宅でないことを改めて認識する。


「あ、その――ごめんなさいね。うなされてたものだから。こんな朝早い時間にお嬢ちゃん独りだったからおばさんお節介焼いちゃって」


「いえ、あたしの方こそ……ごめんなさい」


 無意識にこぼしていた涙を指で払えば、ひとまずお礼を言って知らないおばさんに頭を下げる。


 自分の方から見捨てたというのに、なんてざまだ。

 たった三日間、一緒にいただけなのに。気付けばあたしの方があの人を気にし始めているなんて。


 気まずい沈黙が車内に流れ、一人静かに目を伏せるあたし。

 名前も知らないおばさんは「気にしないで」と言っていたが、知らない人から見てもあたしの様子は『可哀そうに』見えたのだろう。


(よっぽど、惨めだったんだな。あたし――)


 いつの間に泣いていたのか、目が少しだけ腫れぼったい。

 

 まだうっすらと陰る紫色の夜空は、追い立てられるように朝日に照らされ。いままさに一人空気を読まずバスに乗っている邪魔者であるあたしを現しているように見えた。


 被害妄想だとわかっている。でも平日の、しかも早朝だ。


 バスに乗る人たちはサラリーマンから学生までまばらで、そんな多種多様な服装をしている人のなか、黒い喪服を着て座席に座っているのはあたししかいない。


「悪く、思わないでよね」


 ポツリと零れ出た言い訳はいったい誰に向けたものだったのだろうか。

 きっと、自分自身だったかもしれない。


 今頃、台所で爆睡しているであろう野蛮人の姿に思いを馳せ、未練を振り切るように頭を振るえば、頭痛に似た痛みが頭の中を蹂躙していく。


 結局あの後起きた大乱闘のあと、睡眠薬入りのジュースを飲ませることに成功した頃には日付が変わる変わらないかといった時間だった。


(まったく、象でも一瞬で眠らせるという謳い文句の睡眠薬を三錠も使ったはずなのに、一時間後にきっちり爆睡とかどういう免疫系統してんのよ)


 頭だけでなく、内臓まで鈍いのだろうか。


 でも苦労の甲斐あって、会話中。糸の切れた人形のようにぶっ倒れたときはさすがに驚いたけど……


「おかげでこっちは寝不足だっての、まったく。人生の最期くらい落ち着いていたかったのに」


 おかげでかかなくてもいい恥をかいてしまった。


 まぁあの野蛮人があたしの家に寄生するようになってから、平安な時など一秒もなかったのだ。今更文句を言ったって遅い。


 それに、どっちにしたって目覚めた頃には、『富岡しのぶ』という存在はこの世からいなくなるのだ。


 そう思えば、別に怒りもわいてこない。


(そう、これで後腐れなくすべてを終わらせられる)


 ここ三日間の茶番を振り返り、静かに心を落ち着ける。

 もう、あたしを助けてくれる人はいない。

 そんなものは全部、あたしの手で振り払ってきた。


 この街も今日で見納めだろう。だから――


「今日くらいは、会いに行ってもいいよね、おかあさん」


◇◇◇


 分厚い霧に覆われた森を抜ければ、そこは雲の上のような楽園だった。

 春先に咲いた満開の花たちに囲まれ、地元の街並みを見下ろす様はまるで神様にでもなった気分にさせられる。


 本当に、懐かしい景色だ。


 半日かけて都会から少し外れたバス停に乗り、小高い丘を自分の足で登り切れば、記憶のなかの景色と寸分たがわず、ポツンと佇む小さなお墓がそこにあった。


「ただいま、……おかあさん」


 満開に咲き誇る野花を踏み荒らし、胸に溢れ出た感情を堪えるようにしておかあさんの眠るお墓へと歩み寄る。


 去年の葬式から来れなかっただけに、記憶の奥から溢れ出すのは雨の日。

 病院でおかあさんがあたしに残した忌まわしい遺言が、あたしの足をその場に縫い留める。


 怖い。苦しい。辛い。でも……


「そんな苦しい想いも、今日で終わり……」


 今にも崩れ落ちそうになる身体を無理やり支え、息も絶え絶えに震える足を動かすがあまり言うことを聞いてくれない。

 もう限界が近いのだろう。あたしの身体だ。

 自分の限界はあたしが一番よく理解している。


 それでも――あたしは誰の手も借りずに一人でここに来る必要があったのだ。


 『幻想』の能力を使えば一瞬でつく距離であっても、ここに来るときは絶対に自分の足でと決めていた。


「ごめんね、おかあさん。来るのが遅くなって」


 白い大理石に刻まれた『富岡しのぶ』の文字に指を這わせ、ゆっくり膝をつく。


 物言わぬお母さんに抱きしめられたような心地になったのはきっと風の所為だろう。

 何せここは都会でも珍しい。緑に満ちた霊園なのだから。


 東京の街並みを一望できる霊園からポツリと一つ外れた山の丘。

 ここは生前おかあさんが好きだった景色を一望できる場所だとして凛子さんに無理を言って確保してもらったのだ。


「ここに来るのにずいぶん、時間が掛かっちゃった」


 一年前は、ここに来ようと思っただけで足がすくんで動かなかったのに。


 本当に自分でも呆れるほど現金で卑怯な奴だ。

 死に際になって一目おかあさんに会いたいなんて。いままで現実から目を背けていた奴が良く言える。


 それにしても――長年、放置されてきたわりには随分と綺麗なような気がする。


「凛子さんが、お参りしてくれたのかな?」


 几帳面なあの人のことだ。最後の死に場所を整えようとしたっておかしな話じゃない。


「ほんと、あたしを今から殺そうって人のすることじゃないよね」


 あの野蛮人とは大違いだ。


 学園の入学試験の手続きや病院の手配だけでなく、死後の言い訳づくりにまで手を貸してくれるなんて。


 線香をあげてを合わせれば、立ち上がって改めて。あたしが生まれ育った町を見下ろす。

 何度もピクニックで訪れた思い出の場所。

 あたしは今日、ここで――


「ねぇおかあさん。あたし、おかあさんとの約束、忘れてもいいのかな」


 いまでも脳内で再生される『いつまでも元気でいてね』という言葉。

 自分はもうすぐ死ぬっていうのに、本当になんてひどい遺言だ。


 そんなんで元気でいられるわけないじゃん。

 あたしはおかあさんさえ生きてくれればそれでよかったのに。


「なんで、なんであたしを置いていっちゃうの、おかあさんッッ!!」


 届かないとわかっていても叫ばずにいられなかった。

 もう誰に聞かれても、問題ない。


 だってここにはあたし以外誰もいないのだから。


 死ぬ寸前に残したおかあさんの言葉は今でもあたしの中にわだかまりを作り、最後の枷となってあたしを死なせてくれなかった。


 それがいまではおかあさんの『トラウマ』を言い訳に死のうとしている。


 ほんと、親不孝者って言われたって仕方がない。

 でも、それでも――あたしは。


「おかあさんがいてくれなきゃ、寂しいよ」

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