5-3)十八歳のジュリエットを、あの日ロミオは助けたかった。

「怯えている? 俺がか?」


 不思議そうな声なのに、笑顔のまま。高橋先生らしくない気がしますよ、なんて思うけれど、俺はそれほど高橋先生を知っていない。

 それでも、ざりざりと騒ぐ。


「俺が、職員室に行くこと。嫌なんですよね」

「そうだな」


 肯定、はあっさりと返った。日比野が案じるようにこちらを見上げたのがわかる。俺は、高橋先生から視線を動かせない。

 階段を一段上がる。壁よりに動こうとするが、それ以上は動けない。下手に動いて間合いを詰められても困るからだ。


「屋上まで出てくれたら楽だったんだけどなぁ」

「……演劇部の先輩と違って、俺はタダじゃ落ちませんよ」


 ああ、笑っている。笑みが深まって、その表情に背筋が冷える。

 日比野が階段を降りきった。案じる表情に、顎を小さく動かす。大丈夫。決めていたことだ。


「どこまで読んだんだ? 本当、今更面倒なことになったもんだ。俺は悪くないのに」

「生徒に手を出して、部員を追いつめて、廃部にしても、悪くないんですか」

「悪くないさ。仕方なかったんだよ、そもそも俺は手を出したいわけじゃなかった」


 告白は、合図だ。予想しなかった形で日比野がこの場所から離れることになったけれど、おかげで無茶をしなくてよくなったとも言える。

 日比野は大丈夫。……俺は、まあ、踏ん張りどころと言う奴だ。


「あの女が勝手に俺に惚れた。俺は子供に興味なんてなくて断ったんだよ。そう、断った。けれどもあの女はしつこかった。せめて抱いてくれ、なんて言ったのはあっちだぞ? 優しさ、慈善活動だよ」


 くらくらとする言葉だ。誘ったかどうかなんて関係ないだろうに、高橋先生はあの女が悪いと繰り返す。断った相手に体だけの関係なんて、俺にはわからない。そうまでする情熱を理解できない。けれども、縋られて体を重ねることが優しさや慈善活動でないことくらいは、わかる。


「なのに俺が悪いとあいつは言うんだ。遠回しにこちらを責めるような噂話をでっちあげて、そんなでっち上げ聞かなければいいのに広がって。嫌がらせにもほどがある。こちらが放っておいてやったら、話がしたいとか言ってな。無理矢理呼び出されて、勝手に死なれたんだよ。自殺だよ。あいつは自分の死で、七不思議を完成させたんだ」

「自殺ではないでしょう」


 高橋先生が眉をひそめる。口元は笑ったままだから、軽蔑するように見える表情だった。

 それでもわかる。出会ったことのない先輩は、自殺じゃない。


「俺を呼び出したのは高橋先生ですよね? あのノートは先輩のものじゃない。あんなあからさまに前のページを破ったって、変わりませんよ。いじめられて破られたのかそれとも本人が破いた設定にしたかったのかわかりませんが、あんな前半部分だけまとめて破ったような形状、意味がないです。破るならもっと回数を分けて、細かくしないと。ノートが丈夫に残りすぎですよ」


 幸い、高橋先生は俺の話を聞いてくれるようだった。聞いてくれる、というのか、執行猶予というのかはわからない。わからないが、執行猶予をのばすだけのばすのが俺の仕事だ。

 俺は日比野と違って、女子生徒に紛れていない。あの服は、きっと七不思議を聞く生徒がいるとするだけのもので、日比野に繋がらないためのものだ。危険から日比野を守るための物だと、わかっていた。

 日比野には言わなかったが、それがない俺がすることは時間稼ぎと答え合わせでしかない。


「ノートの文字だって写したんですかね。元が台本だったのかな、下に入れてむりやりなんてするもんじゃないですよ。穴あいていたなら、せめてその穴にペンを立てとかないと次のページを見たら露骨にわかっちゃいますって」

「……おしゃべりだなぁ月山は」


 笑っているのに空虚な声が落ちる。おしゃべりですよ、俺の友達周りみてくださいよと返せば、確かになと頷かれた。

 正直、下手な悪意よりもそういう『普通』のほうが堪える。息を吐いて、でも、高橋先生から目は逸らさない。


「あの内容は『演劇部の先輩』を補強するものにはなりえないと思いますよ。七つ知って自殺なんて、さすがに無茶ですよ先生」

「確かにな」


 はは、と高橋先生が声を漏らす。空虚なまま、その目はまっすぐ俺を見ていた。


「月山は頭がいいなあ。……あいつと同じで、大馬鹿だけれど」

「演劇部の先輩が、馬鹿? そんなことはないでしょう」

「そんなことはあるさ。考えて見ろよ、あんな女のために俺に喧嘩を売って、そのままひとりでやらかしたんだぞ」


 くつくつと高橋先生がのどを鳴らす。そうして伸びてきた手をはじくが、高橋先生は特に気にした様子を見せなかった。


「直接言えばいいのにわざわざあんな遠回しで俺を追いつめて、最後も俺と話をしたいとか言って、七つ目は出来ているとか言うんだ。日記に書いた馬鹿な推論も、そんなの話してなにになるというんだ? 馬鹿でしかないだろう。なにがしたかったんだか」

「……先生と話したかったんですよ」


 馬鹿は先生ですよ、という言葉は飲み込んだ。逆上させるわけにはいかない。けれども頷くだけでもいけない。じりじりと会話をしながらも、高橋先生はずっと俺を見ている。

 俺の方が二段分上だが、だからといって高橋先生を組み敷くのは難しいだろう。さっきから、高橋先生は片手しか俺に向けていない。ずっと隠れた手が、なにを持っているか俺はわからないし――そもそも、覚悟がない。


「話なんていうとまともに聞こえるな。実際は、俺を脅したかっただけだろうが。馬鹿な女で、月山も馬鹿だよ。武道をやっていたから俺くらいひとりでどうにかなると思っているのか?」

「まさか。でもまあ、言ったようにタダじゃ落ちませんよ。高橋先生の証拠が残るくらいには暴れます。骨太ですからね、そう簡単には折れませんよ」


 ひきつりそうになる笑みを、なんとか形にする。幸い、俺の体格は高校生にしてはだいぶいい方だろう。けれども同時に、それだけでなんとかなるとは思っていない。さっきから俺のリーチでは遅く、けれども高橋先生ならすぐに詰められるだろう距離を作られている。やるにしても、タイミングは今じゃない。


「不審者がいると言っただろ?」

「……それでごまかされるほど、警察も馬鹿じゃないですよ」

「大丈夫さ、大丈夫だ」


 なにが大丈夫というのか。繰り返される言葉に言ってやりたくなるが、意味はないだろう。かちり、と、いやな音が響く。みればその手にあるのはナイフで、高橋先生は正気じゃないんだ、と内心で繰り返す。


 正気ならわかるだろう。なにもかも大丈夫じゃない。自殺に見せかけるどころか他殺を他人のせいにするなんて。しかも、学校で。

 けれども正気じゃないなら、なにが起きてもしかたないことだ。高橋先生が捕まったとしても、その時点で俺がどうなっているかといえば、まあ、最悪の結果になっている可能性が高い。

 痛いのは嫌だ。死ぬのはもっと嫌だ。浮かんでしまった日比野の顔があまりにも酷いから、余計嫌だ。日比野が間に合わなければ、それこそ日比野にとっても最悪なことだろう。


 ロミオは間に合わなかったことに、絶望した。


「それで、お喋りはもういいか? 素直に自分から落ちるか、不審者によって悲しい犠牲者になるか選ぶ覚悟できたかな」

「……ジュリエットは、ロミオと共に生きるために毒を飲みましたね」


 両手をあげて、敵意はない形をつくる。きょとりとした高橋先生は、すぐに失笑した。


「懐かしいなあ。お前ジュリエットやったんだろ。傑作だよな」

「ええ、ジュリエット。傑作ですよね。――先生、顧問だったんでしょう。先輩の台本だって読んだんだ。先輩が先生と話したかったこと、もう少し考えてくれたって良かったのに」


 ナイフが向いた分、一歩下がる。そうしてそのままわざと座ってみせると、高橋先生は不思議そうに俺を見た。

 いや、不思議そうと言うより嘲りかもしれない。そりゃそうだ。座っている人間なんて、立っている人間より襲うに容易い。


「先生。俺はね、物語から勝手に想像するのが好きなんですよ」

「なんだ突然」

「別に突然じゃないです。先輩が先生と話せなかったなら、代わりに話ぐらいはさせてほしいってだけですよ。……原作のジュリエットは毒を飲んだ。ロミオは死んだと誤解して自殺してしまった。結果絶望して、ジュリエットは自身に短剣を突き立ててしまう、悲しい悲劇。――そうならなかったのが、先輩のお話です。先輩の願いなんですよ。ジュリエットは、図書室の女子生徒だ」


 お喋りは、得意か不得意かというと日比野ほど得意ではない。けれども物語なら別だ。作者はそんなこと考えていなかった、なんて国語の話で揶揄されたりするけれど、俺は読んでしまう。考えてしまう。見てしまう。

 だって仕方ないだろう。俺にとって物語は、そういうものだ。


「……遠回しな嫌みだったと? あの女をジュリエットとして、俺をロミオとして、対決してほしかっただなんて、そんな話をあいつがしたかっただなんて」

「ロミオは救う人ですよ、先生」


 貴方がロミオな訳ないでしょう。そういう言葉までは口にしない。けれども声に漏れたのか、高橋先生はぴくりとこめかみをひきつらせた。

 刃物はそこにある。タイミングを間違えてはいけない。奪うなら、下から一瞬。それしかない。


「ジュリエットが成人したのは、原作を読んだときに感じたことと重ねたのが理由だと思います。子ども故に恋にのめり込んでしまったのではないか――そういう憂慮。せめて恋と向き合い、戦うことがあればよかったんだという願い。貴方に詰め寄ったとのことですが、それでも女子生徒ジュリエットは他に相談しなかった。救う人がもっといれば、なんて単純です」

「それならロミオは」

「ロミオは優柔不断で弱かった。それでも優しく、思慮深い人でもあった。あれは部員をみて合わせた部分が強いんでしょうが――ロミオVSジュリエットですよ。ジュリエットは、ロミオと戦った。対話した。対話してほしかったんです、先輩は。ロミオは先輩ですよ」


 勝手な想像だ。答え合わせの用紙はなく、勝手に自分の答えを正としている身勝手なもの。けれども今は、言い切るくらいが丁度いい。

 想像する。ジュリエットは成人していて、ロミオは原作と違い年下と設定されていた。高校三年生で事故に遭い死んでしまったジュリエットと出会ったとき、ロミオは一年生だった。


 図書室で見つけた本。匿名で相談したいような話。無理矢理聞き出そうとして、でも、先輩は結局ジュリエットのそばにいられなかった。

 事故の日、せめて一緒にいられたら違ったんじゃないだろうか。何で私は、そこにいなかったのか。私はなにもできなかった。だからこそ、望んだ。

 苦しんだ心と、願いと、けれども部員と築いた信頼関係。願いを形に出来るようになった台本が完成したのは、先輩が三年生になったとき。


 その時ロミオは、ようやくジュリエットに追いついた。ジュリエットが戦う話を書いた人間が、倒れたジュリエットを思い毒を飲んでしまうと言うのだろうか。そして、倒れたジュリエットにナイフを突き刺す結末を選ぶと思うのだろうか。ロミオの周りには、大切な人たちが他にもたくさんいた。ロミオは、ジュリエットになにも出来なかった。


 人に言えないものを抱えた人を助ける為に都合のいい魔法だ。日比野にそう言った先輩は、なにを思っていたのか。


「先輩がなにを話したかったか、先生は本当にわからないんですか」

「話はそれだけか」


 静かな声が返る。もう、高橋先生は笑っていなかった。失敗した、のかもしれない。ナイフはこちらを捉えたままで、奪うよりも刺さるイメージしか浮かばなかった。

 ――足音が、響く。心臓が騒ぐ。


「不審者の居場所なんて、この学校にはありませんよ先生」

「あるんじゃない。作るんだよ」

「やめろ!!」


 響いたのは、日比野の声だ。高橋先生の腕は軌道を変えない。考えるな。数を数える。いち、に、


!」


 さん。揺れたナイフ。なんで、という呟きを、動揺ごと捕まえるようにその手首を固定する。足場が悪い。階段だから当然だ。ああやだな。正直な気持ちは、数字で押さえる。あと二歩。足の長さ分、もつれるのはあちらだ。落ちるなら、せめて。


「なにをやってるんだ貴様!!」


 響いたのは怒号。認識と一緒に、体が動く。血の気が引く。待て待て待て、待ってくれ!!


「な、なにやって、おま、っていうかせんせまで」


 日比野が海野先生を、あわよくば他の大人も連れてくる。その作戦は正しく、問題なかった。けれど、けれどもだ。


「潰す覚悟はないんですけど!?」


 高橋先生を潰さないように受け身をとろうとした俺の腰を日比野が勢いよく押して、海野先生が高橋先生の腕ごと引き倒したせいで落ちることはなかったし階段の上で転ぶだけですんだのは幸運だった。けれども下手したら確実に二人を潰していたわけで、肝が冷える。日比野も海野先生も俺が乗ったら絶対折れる。怖い。怖すぎる。


「……それって潰される覚悟はあるってこと?」


 日比野の低い声にぎくりと肩を揺らす。くそ、と暴言を吐く高橋先生を押さえるのに精一杯だから答えられない。ということにしておこう。海野先生は息を切らしながらもやけに器用に高橋先生の腕を縛りあげていて、底知れなくてちょっと怖い。


「人は呼びました。本当は離れてほしいところですが、私だけでは無理でしょう。申し訳ないですがもう少し力を貸してくださいね。……高橋先生、観念してください」


 短い呼吸を繰り返しながらも、うなるように海野先生が言う。なんでだとかこんなこととかいろいろとうるさいが、それでも高橋先生はもう、大きな抵抗をしなかった。


「――君たち二人も。それなりに覚悟してくださいね」


 相変わらずの丁寧な語調のまま続いた言葉に、今ある緊張とは別の恐ろしさが浮かんだのは仕方がないことだろう。


 俺たちの奇妙な時間は、そうしておそらく、幕を閉じた。

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