3-3)いつもゆるい先生が真剣になるとちょっと構えちゃうのは仕方ないと思う。

 海野先生が眼鏡の奥で目を細める。いや、さっきまで笑った狐顔だったから細めたと言うより開いたと言うべきなんだろうか? それでもどちらかと言えば細めるような鋭さを感じて瞬くと、いつもの飄々とした顔がそこにあるだけだった。

 気のせいだったのだろうか。教室を進む先生に合わせてカーテンを開き紐でくくると、日比野も観念したのか同じようにカーテンをくるくると巻いて束ねた。


「幽霊に関係あるかわからないんですけど、文字がありました。万葉集のひとつですね」

「月山君で丁度良かった、ってところでしょうか。玉葛――」


 冒頭だけ海野先生は読み上げ、それから続く文字は口の中で済ませたようだった。口元に手を当てて小さく動く唇がそれを語っている。少し眉間に寄った皺は、なにか考えているようにも見えた。

 海野先生の視線が、窓の外に向かう。数秒の間。一瞬ではなく、しかし十数秒というような長さではない、それでも確かになにかを見るような時間。少しささくれだった指先が、窓枠を撫でる。


「万葉集、月山君も確か読んでいましたよね。訳文は覚えているんですか?」

「偶然、ですけどね。一応覚えていた歌のものでした。恋が実らないと嘆いていて、実らせてくれないかっていうようなことを言っていたから、片思いって言うかあるていど親しい男女で歌ったのかなーとか、こう、ざっくりとした意訳とぼんやりした理解程度ですが」


 月山君も、ということは海野先生も読んだことがあるのだろうか。それにしても、移動教室にも待ち時間で読むのに持ち運んだりするとはいえ、よく覚えていたというか気づいたというかなことにこう言っては失礼かも知れないが感心した気持ちになる。

 それでいて意外というよりは流石海野先生だな、というような奇妙な納得もあるあたりも含めて、海野先生という人となりを今更実感させられる。


「片思いの幽霊、となると、日比野君が好みそうですね。それで、満足出来るような結果は得られましたか?」

「まあ、幽霊なんてそう会えるとは思ってませんし、とりあえずの覗き見根性ですが手土産くらいにはなったんじゃないかなと思います」


 そもそもその日比野はここにいるんですけどね、とは流石に言えず、肩を竦める。結構、と、海野先生は笑った。


「満足なら宜しいことです。そろそろ君たちも帰る時間でしょう、あまり遅くなってはいけませんよ」

「はい、すみません」


 海野先生の言葉に素直に謝罪して、日比野をちらりと見る。浅く頷いたのを確認してから少し早足で扉に向かえば、「君」と海野先生の声が響いた。

 窓の鍵が閉まっているか再度確認して俺たちよりも遅れていた先生が、じっとこちらを――いや、日比野を見ている。


「どうしましたか、先生」


 あからさまに日比野に視線が向けられているとはいえ、日比野は答えられない。できるだけ自然な疑問、とでもいうように尋ねると、海野先生は一度目を伏せた。否定でも同意でもないその所作はそのまま俺に視線が向かい、それからまた日比野に戻る。


「……気をつけて帰ってください。もしなにかあれば私にでも他の先生にでも、声をかけるんですよ。年寄りが歩き回るのは中々骨が折れますからね。教師として生徒に気を配るよう努めていますが、声をかけてくれればその分、足りぬも足るようになるかもしれません」


 静かで、穏やかで、優しく――しかし、どこか強い語調だった。不可思議な感覚は、海野先生が悠然とした気質でありながらもやはり教師であり大人であるという、そういう強さから来ているのかも知れない。日比野が頷くのを見て、俺も慌てて頷いた。

 海野先生がにっこりと笑う。それはいつもの馴染んだ穏やかさで、飄々としながらもこちらを見る静けさだ。


「有り難うございます先生。……ええと、すみません。鍵を閉めるので、先に出ていただいてもいいですか?」

「そうですね、お願いします。鍵は私が代わりに返しておきますよ」


 それは純然たる親切なのだろう。海野先生の言葉に、あー、と歯切れの悪い音が漏れる。日比野もやや申し訳なさそうに俺をちらりと見上げているが、ここはもう誤魔化しようがない。


「……とりあえず先に出てください」

「? はい」


 少し歩調を早めて海野先生が出てくれる。それを確認して、内側から扉を閉めた。少し驚いたような海野先生に、ちょっと、いや結構罰が悪い。

 とはいえやることを変えられるものでもなく、中から鍵を閉める。そうしてから入り口から少し離れた小窓を開けて、膝を付いて教室から出、海野先生から顔を逸らしたまま立ち上がる。とはいっても、まあ、怒られるだろうに顔を逸らしっぱなしは罰が悪かったとしても、むしろだからこそ失礼だろう。体を海野先生に向き直らせると、僅かに驚いたような瞳と目が合った。


「はあ、もしかしてそこ、鍵が壊れているんですか」

「はい」


 少し気の抜けたような、それでいて困ったような声が、ややしかめられた眉の下で瞬く瞼と一緒に落とされる。これは完全にこちらが悪いので、弁明をしようもなく俺は神妙に頷くだけだ。

 海野先生が、先ほどの気の抜けたような音よりも明確な意志でため息を吐き出した。


「いやはやどうしてと思いましたが……これは、君達には悪いですが早急に直さねばなりませんねぇ」

「すみません……」


 粛々と頭を下げる。声は出さないものも日比野も同じように頭を下げており、それを見た海野先生は苦笑を零した。


「施設の管理をするのが我々教員の立場でもありますが、君達善良な生徒の報告も頼みの綱ですよ。こういうことから、なにかの事件に繋がるとも限りませんし……先ほども言いましたが、年寄りが歩き回るのはいささか骨が折れますし、限界もありますからね」

「先生そこまで歳ってことはないでしょう」


 申し訳なさに海野先生の卑下を止めるだとかおべっかとかではなく、しかし純然たる雑談と言うには海野先生の言葉に返事をしづらい故の微妙な案配で言葉を返す。一応、嘘だとかそういうものではない。

 海野先生は確かに白髪交じりでのんびりとした様子からじーちゃん先生と言われるが、白髪交じりなだけで完全な白髪なわけでもなく、若々しさを感じることもある。祖父達よりも若いだろうか。それくらいだから、おじさんかおじいさんかというとなんとも分かれるような雰囲気だ。


 うちのじーちゃんはのんびりした人で本当「おじいちゃん」という感じだが、お爺様の方はだいぶしゃっきりしている人だからあの二人を基準にするとそれより若い海野先生を「年寄り」と揶揄するのがなんとなく馴染まない。でもまあ、そういうのは俺基準でしかなくて、海野先生の言葉を完全に否定も出来ないっちゃできないけれど。実際問題年齢って言うよりただ自分にとっての祖父母って形の認識になる気もして何とも言えないところがあるけれど。

 後ろめたさもどうしようもなさとかなんとも言えなさも含めた諸々が相まってそんなことを考えていると、海野先生はにこにこと笑いながらやや大げさに自分で自分の肩を揉んで見せた。


「歳ですよぉ、もうへとへとです。無茶させないでください。月山くんと違って鍛えていませんからね」

「俺のは惰性みたいなものですよ、昔みたいに道場通ってどうこうってのなくなったし……それに、海野先生だってそう言う割にここまで来ているじゃないですか。散歩とか日課にしなくても随分動いている方じゃないですか? 休み時間とか普段の様子見ても、海野先生も十分フットワーク軽い先生だと思いますよ」


 そこまで返して、はたりと気づく。。どこにでもいそうな海月くらげ先生、とはいえ、こんな場所にわざわざ来る理由がわからない。生徒がいるとは限らないのに。


「先生、放課後いつもここまで見て回っているんですか? 骨折りっぱなしです?」

「あ、私の行動を知りたいんですか? だめですよぉ、君達みたいになにかやらかす生徒がいた時、隠れることが容易くなっちゃうでしょう。私は謎多き男を貫きますよぉ」


 ゆるゆると笑う海野先生の語調は軽い。生徒が対策しないようにというのはわかるので突っ込んでこれ以上は聞けないが、それにしても第二音楽室までというのはやはり奇妙だ。日比野と怪談話をして思い出したから、とかだろうか。


「それより君達、これから日比野君と合流するんですか? 準備室使うのは良いですけど、私が閉める前にはちゃんと帰りましょうね。事故には気をつけること。何のために早く帰るよう取り決めがあると思っているんですか」

「安全安心の為です」

「なら、きちんとみなさんで帰りましょうね」


 はい先生、と素直に頷けば、海野先生は「よろしい」と顔をしかめてやや大仰に頷いた。

 けれどもその表情は長く続くものでなく、すぐに零れた息と一緒に微苦笑の形で和らいだ。


「本当はガチガチに決めるんじゃなくて、ゆるくやっても安全な社会が一番ですけれどね。申し訳ないですが、素直に帰ってくださるのはとても助かります。気をつけて。日比野君にもよろしくお願いしますよ」

「はい」

「……無口な彼女も。気をつけて帰るんですよ」


 海野先生が穏やかに言葉を落とす。どこかで最近見たような表情の名前が浮かぶ前に、日比野が頷いたことで霧散した。


「先生も、気をつけてくださいね」

「はぁい、有り難うございます」


 穏やかに笑う海野先生に頭を下げて、ようやく俺たちは第二音楽室から抜け出した。


 * * *


「なんっか本当月くんに過負荷かけてるねごめんね!?」


 学校から出てようやく声を出したと思ったら、急激な勢いで謝罪をされて少し仰け反る。全身の息を吐き出すような勢いで、でも声は響きすぎないような音量なあたりはちょっとした技術だろう。こう言うときでも近所迷惑を考えるあたりも含めて、凄いな日比野。流石だ。

 ……などと暢気に考えている俺とは反対に、日比野の感情は落ち着かないようだった。珍しくやや乱暴に頭を掻くのを見て、髪がぐしゃぐしゃになるぞと内心で突っ込む。流石に今声に出して指摘するほど野暮ではない。

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