3-2)読んだからってなんでもかんでも覚えていたら成績に困らないんだよなぁ。
改めてみれば、確かに見覚えのある言葉がそこには連なっていた。流し書いたと言うよりは一文字ずつ大きさを揃えるように、それでいて気づかれにくいように書かれた文字は「そこに書くべきではない」という意味での「らくがき」ではあっても、「適当に書いた」という意味での「らくがき」とはなり得ないようにも思えた。
一文字ずつ指でなぞった文字を、改めて目と、舌でなぞる。
「『
珍しく覚えられている歌だ。きちんと覚えているかと聞かれれば自信はないが、それでも万葉集に間違いない、と言える程度に把握している。大体音で覚えているというか音を楽しむ程度のゆるい読み方だからなんとも言い難いが、これは本を二冊またいでもわからず、検索サイトでようやく把握したものだから覚えている。
この歌は
「万葉集……意味わかる?」
「簡単になら。なんか、実のならない木には神様が宿るから、実のならない君にも神様宿るよね、って感じ。それと歳取って時期過ぎた状態を掛けたんだっけかな? 自分の恋が実にならないことを含めて責めるような嘆くような歌で、確か相手からの返事もあったはず」
調べ直した、と言っても、元々古典に強い方ではない。適当に読み合わせてあとはネット知識程度だし、読み終わった今はうろ覚えな自信もあるので間違っていたら悪いな、とは言っておく。
正直、相聞に入っているのに実のならない木とか風景では? と思って調べ直したので多分こんな感じだったはず、くらいの認識だ。恋愛期を過ぎた状態とか言われても、つなぎ合わせるのがうまくできずに調べて、出会った意訳にだいぶ引きずられている自信がある。というか、そういうことでもなければ流石に見ただけで細かくは思い出せない程度なのだ俺は。見たことあるような、くらいはあっても、特別記憶力が強いわけでもなし。
「……はー、月くんはほんと何でも読んでるね」
「何でも読んでるわけないだろ。古今和歌集とか読んでない、どころか和歌で読んだのは万葉集だけだ。偶然だ偶然」
感心したような日比野の言葉に肩を竦める。頭のいい人と違って、気になったら手に取るって読み方だから俺の場合雑然としているのだ。あしながおじさんを読んだときも、主人公の読書量に俺は追いついていないなと思ったし。
読んだことがない本が結構あって、それで読んだのが主人公の読んでいた本じゃなくて進化学の方行ったあたり自分の読み方の雑然さが目立つと思う。言い訳するならミッシングリンクなんて不思議な単語があるから悪い。あれはちょっと浪漫だ。
「古今和歌集読んでなくても、万葉集だけでなんか教養感じるよね……。ええと、片思いっていっても一方通行じゃないって感じかな。ある程度相手と気持ちが近いけれど、でも一歩足りないから、この恋を実らせましょうよって口説いているのかな」
「そうじゃないのか? 年老いていく前にってかんじなあたり、今やったら相手の女性に怒られそうだけど」
いまいち色恋はわからないが、年齢はデリケートな問題だと言う。恋愛の時期すぎるよとか場合によっては余計なお世話、ともなりそうだが、一応当時のお相手はそうは言わなかったのであちらの価値観だろう。昔だと寿命も短いだろうし、そう考えると老いる前ってのはもっと切迫したものかもしれない。
「返事はどんなだったの?」
「確か、片思いなのはこっちの方だよってやつだったはず。多分この歌調べた方が早いな。俺のうろ覚えだと超訳じみているかもだし」
読んだ本はあくまで歌の訳だけであまり意訳はなかったのだが、ネットで調べると結構面白い意訳をしているサイトがあった。真面目に簡易だったり、舞台の話だったり説明の仕方はそれぞれだが、個人的にその歌を読んだ心情や状況を解釈してライトな語り口で説明していたサイトが好きでわかりやすかった。日比野に見せるならあそこがいいな、と思ってしまう。
というか、自分には本だけだとやはり難しい描写が多いで、やっぱり有る程度ラフに教えてくれる方がだいぶ助かるのだ。音は楽しめても知識がたりないせいか元々の性質なのか、あまり細かい機微を自分で追える自信はない。子供向けに漫画で説明している本は抜粋だけだが、自分に馴染ませるためにも今度そういった方面を読んでみるのもありかもしれない。
まあ今読めるわけでもないし本があるわけでもないし、もっといえば話しているだけで思い出せる能力もないので携帯端末を取り出し歌を検索する。やはりいくつか個人サイトが出てきて、前調べるときに気に入ったサイトもきちんと並んでいた。
「これだな。『玉葛花のみ咲きて成らざるは
実がないのは誰の恋を言っているの、私はこんなに恋い慕っているのに。そういう訳が簡単に連なっていたので、勘違いがなかったことにそっと安堵する。
「ふぅん。……これ書いたの、ゆうれ――じゃなくてええと、怪談に出ている女子生徒なのかな。位置的に」
「どうだろうな。他の人間じゃない、と言い切るには微妙だろうとは思う。ただ、わざわざこの窓ってあたり可能性は高いんじゃないかってのが正直な気持ちだ」
言い掛けた言葉は聞かなかったことにして答える。自分も万葉集を読んだけれど、日常で自分に当てはめて詠む、みたいな形で考えたことはなかったから少し不思議な気持ちにもなった。なんというか、読んだってだけで教養を感じられても否定したくなることを棚に上げてしまうと、繊細な人となりを感じるな、と思ってしまう。
「女子生徒だと返事の方があってそうだけど、男の人の詠んだ歌の方使ってるんだね」
「これが心情に有っていたのかもな。それとも、返事の歌を相手が詠むのを望んだのか、返事の歌まで含めて自分の気持ちにしたのか、まあいろいろあるかもしれない。俺にはちょっとこのあたりは難しいな」
今時女性が男性の立場で歌を歌ったり、その逆もふつうにある。今時、というか昔から結構あるし、男が詠んだ歌を自分の心理に当てはめるのも違和感はない。相手が自分を思っているかわからないという意味で詠んだのかもしれないし、そうなると返事は既存の歌ではなく相手が別の言葉を詠むという予想もある。――おそらく、詠み手は実際ある万葉集の方の歌を返事に望んでもいただろうからこの歌なのだと思うが。
けれどまあ、それがわかっても実際どうとか言えるものではない。情報がたった一首じゃ難しいし、たとえ返事を含めて二首だとしてもたかが知れている。そもそも俺も日比野も恋愛については物語でしか縁がないのでこれはもう、選出が悪いとしか言いようがない。
「片思いの歌がある窓で忘れ物、かぁ。恋の忘れ物かな」
「そんなタイトルの歌ありそうだな、ポップ系で」
「キラ☆ってしてそうだよね」
「わかる」
なんとなく曲調さえ浮かびそうだ。少し茶化しあった後、改めて窓から外を見下ろす。
恋の忘れ物。この場所にある、ではなく、いるに意味があるのなら。
「この歌は相手に問いかけるものだったけど、問いかけるじゃなくて書いたってことは直接聞けないけど気づいて欲しかった、とかあるか……? どちらの歌が自分に合っていると言うよりはこの二首が心になにかあって、でも声をかけた方が男だから男の方の歌を使った、とか……」
「ここを見に来る人に気づいて欲しかったってこと?」
「見に来るって言うかここから見える――」
コンコンコン、と、突然扉をノックする音が聞こえてびくりと跳ね上がる。隣の日比野も同じだったようで、同時に肩が跳ねたのを察する。
そのまま互いを気にしたせいか、流れるように顔を見合わせるような形になった。からり、と扉がやや動いたような音が響く。
「こんな時間にこんな場所で、なにをしているのでしょうか」
「う、海野先生」
日比野は後ろに残したままカーテンから出て確認すれば、穏やかな声と穏やかな笑顔がそこにある。といっても平時の穏やかさよりも少し神経質さを感じるのは気のせいだろうか。
飄々とした、という言葉が海野先生には似合うのに、少しだけ、なんといえばいいのか学年主任のようなぴりりとしたものが肌を焼く。やや狐を思い出させる顔つきが余計それを深めているようにも思えた。
「おや、君でしたか。少し意外ですね。日比野君かと思いました」
「はは……」
日比野と俺だと体格は違う。けれども、カーテンで体はある程度隠れていたし、ここに俺が女子といると考えるのは意外性もあって想像しづらいかも知れない。まあ誰と思うのも難しいかも知れないが、日比野と言うのは恐らく七不思議の話をしたからだと予想できるので海野先生の言い分は妥当に思えた。
「日比野君と一緒では無いんですね。デートですか?」
「いや、そういうんじゃないです。ちょっと、その」
確かに、カーテンに隠れて二人で男女が並んでいたらそれなりにそういう予想がつくかもしれない。否定して、けれども否定したところでなにをしていたと聞かれると答えづらいことにも気がついてしまった故に言葉がやけに途切れがちになる。
いや、別に後ろめたく思わなくてもいいんだが。海野先生は七不思議の話を日比野としているわけだし。でも。
「月山君は本校の七不思議に興味があるタイプに思えませんでしたが」
やっぱりバレている。これが高橋先生だったら本気でそう思ってくれていそうだが、相手は海野先生だ。オブラートに包んだ内側、『君は幽霊が苦手でしょう』がほんの少し零れ見えるようで顔がひきつる。
気にしすぎかも知れないが、それでもわざわざ『本校の』をつけたのが多分そういうことだよな、こちらが予想できる案配。俺がわかってしまってどうしようもなさを感じることまで含めて、海野先生の手のひらの上って感じが強い。
とはいえ、多少転がされてもゲームオーバーだとかそういう事態になるわけないので、とりあえずというように苦笑のまま頷く。
「まあ、確かにそうなんですけど、気になることもあって。こう見えてフットワーク軽いんですよ俺」
「それは知っています。日比野君と君はよく似ていますし、なによりジュリエットをやってくれましたしね。お上手でした」
「ははは、有り難うございます」
薄ら笑いになっていることを自覚しながらもお礼を言う。話がずれるならそれはそれでいい――「それで、日比野君とは分かれて調査中を?」――とは言っても、そうはいかないのが現実だ。
まあ、目論見はだいたい外れるものだろう。海野先生の言葉に震えた口角を、そのまま笑顔に固めておく。
「そんなところです。アレは――ええと、幽霊は、居ませんでしたが」
「でも君達がそこにいるということは、なにかあったということでしょうか。なにか面白いものでもありましたか?」
引用元:* 講談社文庫『万葉集 全訳注釈原文付(一)』
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