第九話

 「……結論から言わせて頂きますと、この中で起こっていることの意味も、原因も、私には分からないのです。そのことをご理解した上で話を聞いて頂ければ幸いです。




 この家にはある一組の夫婦が住んでいました。夫は大工で、妻は専業主婦。大工と言うのは中々儲けの少ない職業なのですが、儲けの少ないながらも幸せに過ごしておりました。ですが、あんなことになってしまうとは……。


 発端は、この家の妻が、中々夫が起きて来ないことを不審に思ったことでした。彼女は夫へ起床の催促をしたのですが、返事はなく、起きて来る気配もなかったそうです。仕方がないので、彼女は2階にある寝室に直接、夫を起こしに向かいました。すると、寝室からは壁に何かをぶつける様な音が聴こえてきたそうです。


 彼女は慌てて中に入りました。すると、そこには、全身に黒い文字の様な紋様が走り、白目を剥いた状態で、呻き声を出し、何度も、何度も、壁に頭を叩き付ける夫が居たのです。その恐ろしい光景に彼女はしばらく立ち尽くしましたが、すぐに我に返って夫を止めに入りました。しかし、夫が頭を壁に叩き付ける力は異常に強く、女性1人の力でどうにか出来るモノではありませんでした。


 そんな状態で困り果てていると、夫は急に動きを止めました。何が起こったのかは分かりませんでしたが、彼女は、夫は何とか助かったのかも知れない、と思ったそうです。


 ですが、それから数秒もすると、黒い文字は途轍もない速さで、動かなくなった夫の全身をすっぽりと覆ってしまいました。あまりに現実離れした現象が起きているのだと、彼女は頭で理解していても、どうしても体が動くのを止められませんでした。助けるために、長年連れ添った夫の身体に触れようとしました。しかし、全身が真っ黒に染まった夫に触れた瞬間です。彼の身体は錆び切った鉄のように崩れてしまいました。それも中途半端に夫の体を残したまま。


 それを見た彼女は、崩れそうになる精神を必死に抑え、今朝、私のもとへ助けを求めに来たのです。そして、私は彼女からこの話を聴き、この家に訪れました。どんな惨状が広がっているのだろう、と思いながらも私は中へ入ったのです。彼女に案内され、件の部屋へ向いました。


 部屋に到着して、そこにあったのは見る影もなく崩れさってしまった、大工の死体でした。いや、死体と言うには些か語弊があるかも知れません。まるで、元々そんな人物など居なかったかの様に、そこに存在したのは黒い灰だけでした。


 ここで私には一つの後悔があります。と、言うのも、もしこの光景を彼女が見てしまう前に制してさえいれば、あんなことにはならなかっただろうと言うことです。


 彼女の話では、夫は非常に中途半端ではあるが、まだ原型を留めている、と言う風に聞いていたので、きっと彼女もそう思っていたのでしょう。ですが、眼前にあるのは最早、人とは呼べない灰です。それを見てしまった彼女の精神は、完全に崩壊してしまい、膝から崩れ落ち、引き攣った顔で涙を流していました。


 私は、何とか彼女を現実に引き留めようと最善を尽くそうとしました。しかし、そんな努力も虚しく彼女が回復することはありませんでした。私はせめて彼女をこの場から移動させようと思い、彼女の手を引きました。


 その時です。私の目に、あるものが留まりました。私が目を離したのはほんの一瞬です。時間にしても3秒とないほどの。しかし、それは、いつの間にか既に彼女の身体を覆ってしまっていたのです。発狂したお陰、と言ってはなんですが、本人がまだ気付いていないのが不幸中の幸いでしょうか?恐らく彼女がそれに気付いてしまえば、夫の時とは比べ物にならないほどで絶命してしまっていたでしよう。


 そうなのです。あの黒い文字は、感染してしまうのです。私は恐ろしくなり、この家を飛び出してしまいました。なので、彼女はこの中で今も尚、発狂したまま黒い文字に侵されています。我ながら酷い行動を取ってしまったと思っています。ですが私はあの恐怖に耐えられない。もう一度ここに足を踏み入れてしまった時、私は多分そのまま倒れてしまうでしょう。


 そこで、私は国から派遣されてきたと言う貴方に頼る他なかったのです。とても自分勝手だと思うかもしれません。ですがお願いします。他に頼れる者はこの村には居ないのです。医者は峠を一つ越えなければ居ません。いえ、医者ですら原因と治療法が分かるか分からないのです。だから、どうか、どうかお願いします。せめて彼女だけでも助けてやって欲しいのです」

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