35.儀武一寸/サブカルクソ野郎
一歩でも、一センチでも遠ざかる。
あの姉弟に関わってはいけなかった。夜空とも関わるべきではなかった。ずっとひとりで、誰にも知られずに自分の孤独と戦っていればよかった。
肩で息をして、刺された腹部を抑えながら階段を降りて、カウンターを抜ける。スタッフたちが、三二二号室の異変を察知したのか慌ただしくしている。目の前を通り過ぎる男がその三二二号室から出てきたとは気づかないようだった。
表通りに出ると、冷えた空気が肌を刺した。深呼吸すると、肺の中まで冷たさが染み渡った。
少し歩き、街灯に背を預けてタバコを取り出す。ライターを取り出し、何度も擦って火を着けた。直後にライターを取り落した。
転がっていく先を目で追う。
いるはずのない人がいた。
「……木村くん?」
「佐和……?」
坂下佐和だった。最後に会った時より、髪を短くしていた。片耳を出した髪型も、見たことのない佐和だった。杢グレーのコートも、白いニットも、ボトムスもパンプスも、全部知らないものだった。それでも、着ているのは佐和だった。
姿勢を無理矢理正す。コートの上から傷口を抑える。血が目立たない黒でよかったと思う。
佐和は、右手で髪を抑えながら、左手でライターを拾い上げた。その薬指には指輪があった。
「よかった。絶対会えないと思ってたから。……タバコ、再開したの?」
「最近ね」
「駄目だよ、こんなところで吸っちゃ」
「わかってるよ」煙を吐き出す。「おめでとう。すごい賞だね。僕なんかより、何倍も。よく受賞作が芥川賞候補になるやつだよ」
「知ってる」
「そりゃそうか。そうだよな」
「ねえ、木村くん」佐和はライターの蓋を開いては閉じ、開いては閉じ、そして火を着けた。「今、どんな気分?」
「え?」
「わたし、書くよ。誰がなんと言おうと。書きたいことも書けることもたくさんあるの。わたしにしか書けないことも。田舎はうんざりだけど、田舎の体験があるから書けることもある。だから書く。あっちじゃまともな仕事もないし、そもそもわたしは大学中退の高卒だし、自由に生きるためにはこういう裏技しかないの。だから全力で書く」
「そっか。頑張れよ。雑誌に載ったら買うよ。本も……」
「ねえ、木村くん」佐和はライターを閉じた。「自分が傷つけた女が、自分じゃ手が届かなかった作家になるの、どんな気分? わたしはね、すごくいい気分だよ。わたし、たぶん今まで、こうしてあなたを見下す瞬間のために生きてきたから。これからも、わたしが書く文字の全部はあなたへの復讐だから」
「佐和……」失血のせいだろうか。目眩がした。腹部の痛みがどんどん大きくなる。痛みが拍動する。
「ねえ木村くん。今どんな気分? これだけは、面と向かって、あなたの口から聞きたかったの」
「読みたくない」と儀武は応じた。応じながらも、姿勢は崩れた。「君のなんか、読みたくない。俺以外の人間が書いた小説なんか、一行も読みたくない」
「ふぅん」佐和はライターを手渡してくる。「じゃ、元気でね。木村くん」
ああ、と応じて手を伸ばす。佐和が怪訝な顔になる。手は血に汚れている。そして、受け取ることができずに、儀武はその場に倒れた。コートが肌蹴て、血の染み込んだニットが露わになる。流れる血が、舗装の継ぎ目に流れていく。カラオケ店から点々と続く血痕の終着点。誰かが悲鳴を上げる。スマホのカメラが向いている。
佐和が肩を揺さぶる。木村くん、木村くんと叫んでいる。彼女に名を呼ばれながらの最期なら、悪くないと思う。
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