34.七尾ユウ/ガイジのキモオタ
言ってしまえばよかったのだ。
口に出せないから、黒い感情になって自分の中に溜め込まれていく。人間関係のために黙っているから、一方的にストレスだけが募っていく。
言ってしまうと爽やかな気持ちだった。
碧月夜空。交流が上手いだけのサークラ女。自分の筆力を磨くことを怠って相互評価でコンテストを勝ち抜けようとする卑怯者。人間関係バフで実力以上の評価を得ようとしている彼女は、どうせ似たような人生を送ってきたのだ。男に媚びて取り入って自分に有利に取り計らってもらって、そのくせ代償を求められるとそんなつもりじゃなかった、あなたが勝手にしたことだと拒否する。中に転生者が入っていない悪役令嬢みたいに。女。女だ。女の最悪なところの煮凝りなくせして自分は理性的だと勘違いして、指摘されると感情を振り回す。怒ってるのに怒ってないですけどと言い、何もかも相手のせいにして共感できる自分を守り続ける。
儀武一寸。意識が高いだけのサブカルクソ男。評価される努力を怠って自己中心的な作品ばかり書き、評価されなければ「ネットでは評価されない作風ですからね」と無能を演じる最強主人公みたいな痛いことばかり言っている。どうせそんな人生を送ってきたのだ。お前はすごいと言ってくれる人のいる環境に引きこもって、自分自身を直視することから逃げている。自分はしたことがなくてもやればできると奢り、頑張る人々を見下す。すべては、自分の男らしさを守るためだ。そして男らしい男は三〇にもなれば結婚しているという観念に縛られて、ネットのアバターで現実と理想のズレを埋める。男の醜さの煮凝りなくせして、自分は醜さとは無縁だと主張してもっと醜い人々を下に見ることを繰り返している。
男も女も、世の中そんな人間ばかり。だからこの世界は生きるに値しないし、部屋の中で誰とも関わらないでいるのが一番正しく賢い選択だ。でも、二番目に正しく、そして一番目より気高い選択もある。
戦うのだ。
守るべき自分も大切な人もいない。人生はどうせ最悪だから、これ以上悪くなることもない。そんな自分だからこそ、戦うことができる。定型発達の健常人が作り上げた世界がどんなに最悪か、わからせるために行動する資格がある。
それに、儀武の気取り方が腹立たしかった。触んなと言われているのに。夜空が困っているのに。碧月夜空は綺麗で優しい、こんな自分とも気軽に言葉を交わしてくれる女の子なのに。
ナイフを手に踏み出せばテーブルが倒れる。碧月夜空が悲鳴を上げる。儀武一寸が振り返る。その時。
ガラス張りの扉の向こうに、人影があった。
ユウはナイフを構えたまま硬直する。驚愕と恐怖に染まっていた碧月夜空と儀武一寸が、ユウの目線の先を追う。なんとなくヨーロッパな模様が書かれた扉が開き、こつん、と足音が響く。
姉だった。微笑んでいた。
「いいんだよ」と姉が言った。「頑張って、ユウちゃん」
その言葉は、初めて姉と性交渉をした時に姉が口にしたものと同じ言葉だった。
ユウは吼えた。姉の方を見ていた儀武一寸の目線が戻ってきた。だがもう遅かった。ユウの右手は、儀武一寸の黒いコートをすり抜け、そしてグレーのセーターを着た左の下腹部へとナイフが突き刺さった。
儀武が呻いた。不思議な気分だった。触れても叩いても肌の上で止まるはずなのに、内側へと侵入している。生暖かいものがユウの右手を濡らす。流れた血液だった。
引き抜く。血の雫が床を濡らす。碧月夜空がまた悲鳴を上げ、口元を両手で覆う。壁に背中が当たり、そのまま震えて崩折れる。
儀武が脇を抑え、歯を食い縛って、姉を見た。姉もその目線を真正面から受け止めた。
「なんなんだよ。あんたら、なんなんだよ。おかしいだろ」儀武が息も絶え絶えに言った。
「おかしいのはあなたたちも同じでしょう?」と姉が応じる。
くそ、と一声上げると、儀武は姉を押し退けて部屋の外へ出る。
残された碧月夜空――床に尻餅をついたまま片手を伸ばす。壁伝いに儀武が遠ざかり、扉が閉まる。
「嫌。なんで。儀武さん。なんで置いて、私、やだ、待って」
「碧月さん」とユウは言った。なるべく顔が笑顔になるようにしたが、そもそも笑い方を顔が覚えていなかった。ぎこちなくても、そのぎこちなさを彼女が受け入れてくれることを願った。「嫌だったんですよね、あんな男。追い払いましたよ。だから、謝ってください」
「謝った。私謝りました。そうですよね、ねっ、お姉さん! 星爆も転載も別の人だったんです。私が悪かったんです。七尾さんにはさっき……」
「違うだろおー!」
夜空がまた悲鳴を上げた。
緊張と怒りと羞恥。苦しみと悲しみ。ありとあらゆるお天道様の下に並べられない感情が、ユウを叫ばせた。碧月に詫びて欲しいのは、冤罪のことではなかった。星爆の犯人扱いされたのは悲しかったし、腹も立った。でも夜空に詫びてほしいのは別のことだった。
きっとわかってくれる。そう思って見下ろす夜空は、壁際に蹲って震えている。震えながらユウを見上げ、許しを乞うている。小さい身体。細い肩。口と鼻を覆う両手が、涙で濡れている。スカートの下の床に水溜まりができている。失禁だった。
全身が痺れていた。経験したことのない興奮がユウの脳を焼いていた。
痛いくらいに勃起していた。
ユウはナイフをその場に捨てた。そして腰を落とし、夜空の肩を掴んで上から覆い被さった。
「嫌っ! やだやだやだ、やめてやめて! お姉さん! 助けてよっ! 弟でしょ、なんで見てるだけなんですか! いやいやいややめてっ! 痛い!」
体重をかけて夜空の肩を抑えつけ、片手でベルトを外す。ズボンのボタンが中々外れずにまごつく。外れても、陰茎が固く勃起しすぎて中々取り出せない。だが、その間にも碧月夜空は騒ぎ続ける。
ユウは片手を振り上げた。
「黙れ!」
夜空の頬を叩く。小気味いい音が室内に響く。
夜空が静かになる。騒ぐ代わりにしゃくりあげ、涙で顔がぐちゃぐちゃになっている。
痺れるほどの熱を帯びた陰茎を取り出し、のしかかったまま滅茶苦茶に押し当て、擦る。まだ暴れていた夜空が大人しくなる。彼女の身体から甘い匂いがする。姉とは違う匂い。息を思い切り吸い込む。
モニターからの音がやけに大きく聞こえた。アニメで聞いたことのある女性声優の声だった。広告映像のようだった。
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その時、脇腹に尋常ではない熱量と鋭い痛みを感じた。
自分の脇腹へと目を向ける。
ナイフが突き刺さっていた。つい先程儀武を刺し、足元に捨てたものだった。刺していたのは、夜空の右手だった。のしかかられたまま探り当てて刺したのだとわかった。
「ユウちゃん!?」と叫び姉が駆け寄ってくる。
夜空がユウの下から這い出し、脚をきつく閉じてまた壁際に蹲る。
「嫌、嫌、なんなのこれ、最悪最悪最悪……」譫言のように呟く夜空。
ユウは痛みで身動きできなかった。姉が跪き、仰向けにされる。真正面に姉の顔がある。
「姉ちゃん」
「辛かったよね。苦しかったよね」姉の手が脇腹に伸び、刺さっていたナイフを抜いた。「もういいんだよ。頑張らなくていいんだよ」
「姉ちゃん。俺、頑張ったよね。十分頑張ったし、もういいよね」
「私の方がもっと頑張ったけどね」
「姉ちゃん……?」
「じゃあね、勇」
姉がナイフを振り下ろす。照明の逆光に浮かび上がるその安堵に満ちた顔が、古田勇が最期に見た光景だった。
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