33.碧月夜空/姫気取りのサークラ女

 綾乃=てるみん。ずっと自分に力をくれていた一番の読者は、最悪の同人体験だった別ペンネームの百合同人時代に同好の士だった人間のひとり。長くインターネットにいても、これだけ驚いたことはないかもしれない。

 話を聞くと、てるみんも元々寒アルの女だったのだという。当時は本を出さず同人誌を買い漁るだけだったが、イベントで碧月夜空の姿も目にしていた。つまり、BLのジャンルが完全に被っていて、その後ジャンル移動した男性向けアニメの百合同人の更に細分化したカプまで、見事に被っていたのだ。

 綾乃からの最初のDMは、夜空が百合にすっかりのめり込んで寒アルを書かなく寂しさから送った。ずっとファンでした云々という文面や、二〇歳の設定にしたのは、素直に私の作品を喜んでくれる若いファンとの心温まる交流、みたいなバズツイート漫画を元ネタにパクったからなのだとか。本来のてるみんはふたりの子を持つ主婦なのだという。

 そしててるみんから、星爆と転載の真相が伝えられた。

 犯人は倉田すずな。彼もナクヨムのコンテストに参加していて、相互クラスタの狡さを糾弾しようと調べていたところで碧月夜空がその一員であることに気づいた。アカウントの特定自体はもっと前で、リツイートされてきた夜空の同人あるある話や、過去に夜空がMetooハッシュタグの盛り上がりに乗じてツイートした同人イベントの帰りにホテルに誘われた話のリツイートなどで、碧月夜空=朝日ハレだと確信していた。『文章見れば一目瞭然ですからね』とはてるみんの言葉だ。

 そして倉田は夜空の妨害のためナクヨムの複垢を取得し星爆攻撃、ツイッターの鍵アカウントである「すずしろ」を使ってごく近しい仲間内にその経過を面白おかしく報告していた。彼らにしてみれば、相互クラスタは公正な競争を阻害する悪であり、その悪を攻撃することは正義だった。

 てるみんはすずしろとも相互フォローだった。イベントでよく一緒になるような界隈は皆、倉田すずなだけでなくすずしろのアカウントもフォローしていたし、むしろすずしろとの相互フォローがその百合界隈においては仲間の証のようになっていた。しかし、すずしろが星爆だけでなく悪意のある転載まで始めてからは、雰囲気が変わってきた。『長くはないと思います』とてるみんは言った。同人のコミュニティというものは、本当にそういう些細なきっかけで崩壊する。根本にあるのはだいたい男女のトラブルだ。

 夜空は、送られてきた最後のLINEを読み返した。


『騙していたのはごめんなさい。でも、碧月先生のファンなのは本当です』


 嘘への怒りはなかった。

 代わりに、無力感があった。

 みんな嘘つきだ。綾乃も、儀武も。

 信じれば裏切られる。誰もが自分を飾っている。工藤久助は愛してもいない茉由花に愛を囁いているのだろうし、茉由花も口では小説を読んでいないと言っていたが、裏ではしっかり読んだりツイッターを眺めたりして笑っているに違いない。

 そして、報いでもあった。相互クラスタに接近したから、倉田に見つかった。いもしない若いファンに褒められておだてられて調子に乗って一次を書くようになったから、決別したはずの過去が這い出してきた。もしもただの同人字書きのまま、意味不明なエモーションで顔のいい男と男が心中する話だけ書き続けていれば、倉田のような男にまとわりつかれることもなかった。

 儀武一寸と出会うこともなかった。

 池袋に着いてとりあえずファストフード店に入り、スマホを充電しながら鞄の中身を確認する。いつもの持ち物と、もうひとつ、ネットで購入した防犯スプレーがある。何があるかわからないから買っておいたものだ。儀武はともかく、七尾ユウの方には、身の危険を感じずにはいられない。持っているだけなら、誰が自意識過剰と笑うわけでもない。そして、こういう時に頼れる下心なしに接してくれる男性の知人が夜空にはいなかった。

 儀武一寸がそういう存在になってくれることを期待していた。でも、今となっては彼のことを信じられない。彼の実際とネットの乖離を知ってしまった今となっては、優しかった儀武一寸も、これまでの人生で出会ってきた男たちのように、普通の友人・知人として接していたはずがなぜか急に下心を剥き出しにしてこちらを非難してくる得体のしれない生き物と同種になってしまうような気がした。

 誰か、誰かと考え、LINEの友達登録のリストをスクロールする。

 そしてひとつの名前に目が留まった。

 工藤久助。

 あまり気は進まないが、他の選択肢はなかった。


『急にすみません。一時間後に私から連絡がなかったら、この場所に来てもらえませんか』


 そして待ち合わせ場所のカラオケ店を連絡しておく。

 ほどなくして、工藤から返信がある。


『何かトラブルですか?』

『そんなところです。安心して頼れる人って、工藤さんしか思いつかなくて』

『貸しひとつですよ。茉由花さんには黙っておきます。これでいいですか?』

『ありがとうございます。ホント、変なお願いですみません。たぶん、何もないと思うので』


 既読になる。そのまま返信が途絶える。

 迷惑に思ったに違いない。でも、それをおくびにも出さないのは、工藤の美点だった。でも、これで工藤を素敵な人と考えてはいけない。彼は、興味がないのだ。そして興味がないなりに女に不快感を抱かせない接し方を心得ているだけだ。その極地が茉由花との結婚。

 そのまましばらく待つ。待ち合わせの時間を過ぎる。

 狙い通りに儀武から連絡があった。


『僕と七尾さんはもう入ってます。三二二号室です。どれくらいでいらっしゃいますか?』


 敢えて遅れて行くのは、部屋の奥に座らないためだ。いつでも逃げられる出口近くの場所に座りたい。それに、会うのを楽しみにしていたと万が一にも思われたくない。


『今電車降りたところです! すみません、五分くらいで着きます!』


 化粧を確かめてから席を立つ。

 そして地図アプリで経路を表示させながら歩き始めた矢先、誰かと肩がぶつかった。

 顔を上げる。女性だった。三〇歳くらいだろうか。いかにも働く女という雰囲気のロングコートとパンプス。ちょっと見ただけではブランドがわからないものを身に着けているのが、かえって本人のセンスのよさを際立たせていた。ちょっと神経質そうだが、美人だった。夜空は、彼女がぶつかった拍子に落としたらしい封筒を、屈んで拾い上げた。出版社の名前と連絡先が印刷されていた。宛先には坂下佐和様、と書かれている。

 すみません、ありがとうございます、大丈夫です。二三言交わして、夜空は先を急いだ。


 案内された部屋に入ると、儀武と見知らぬ男が斜めに座っていた。奥行きのある部屋の一番奥にモニタがあり、左側と扉の横でL字を描くようにソファが並んでいた。手前の儀武が、「お久しぶりです」と言って奥へずれた。L字の長い方にいた見知らぬ小太りの男は、先日渋谷のカフェで隣のテーブルにいた男だった。七尾ユウだ。

 夜空は無事、一番入り口に近い席に腰を下ろした。

 周りの部屋から、知っている歌を歌う知らない声が響いている。だが、三二二号室に流れるのは、カラオケシステムからの無限ループのアナウンスだけ。照明も目一杯明るくされた部屋は、その明るさとは対象的に暗い雰囲気が漂っていた。部屋は空調も切られていて、七尾ユウも儀武一寸も上着を着たままだった。

 沈黙。七尾ユウは黙ってスマホを弄っている。儀武と目が合い、夜空は目を伏せる。

「それで、七尾さん」と儀武が口火を切った。「今日はお姉さんはいらっしゃらないんですか」

「はい。俺です。なんかすいません」テーブルを見たまま七尾は応じた。口の端を歪めて笑っている。

「せっかくこうして集まったんです。話すこと、さっさと話しましょうよ。僕らを呼び出したの、七尾さんでしょう」

 七尾が何か言って応じた。だが、声も小さく早口で、もごもごと発された言葉は聞き取れなかった。

 夜空の苦手なタイプだった。専門学校の時、突然告白してきた同期の男子のことを思い出した。

 それでも、言うべきことは言わなければならなかった。

「あの、七尾さん」と夜空は言った。「星爆と転載の話、犯人わかりました。疑ってすみませんでした」

 儀武が眉を上げた。「え、わかったんですか」そして頭を下げる。「僕も絶対七尾さんだって、碧月さんに言いました。彼女が疑ったとしたら、僕がそう言ったせいでもあります。申し訳なかった」

「いえ、儀武さんのせいじゃないですよ。私が一方的に疑っちゃっただけで……」

「ですが……」

 押し問答になる。

 儀武は、頑なに夜空を庇う。生真面目で誠実な男だな、と思う。でも、こういう女性に誠実なように見える男こそ、裏では女のことを心底見下してクレバーな打算で誠実さを演じがちだ。しかしそれにしては不器用だから、本当に誠実であろうとしているようにも思える。

 でもネットで既婚者を演じていた独身男。

 儀武一寸の正体がどこにあるのかわからなくなる。不器用さを信じればコンプレックスまみれの醜さを許したくなる。でもコンプレックスまみれの方に目を向けると誠実さが女慣れしていないダサさに思えてくる。女性経験をストレートに訊いてみたくなる。でもセックスは上手かった。これまでに肌を重ねた男の中で一番よかった。風俗で鍛える、みたいな話を聞いたこともある。儀武もそうならおぞましい。

 ふと、七尾ユウが、身体を揺すりながら何かぶつぶつと呟いていることに気づいた。

 同じことに気づいたのだろう。儀武が「七尾さん?」と促す。

 彼への誤解を侘びたのだから、彼を見るべきだった。そのことに怒っているのかな、と最初は想像した。

 だが、七尾ユウはにたにたと笑っていた。

 そしてとうとう、言葉が聞き取れた。

「……は?」

「そっちは、意識高い系サブカルクソ野郎」

「えーっと」儀武は素早く苦笑いを作る。「まあ、否定はしませんが……」

「女オタクの服着てオタク見下すバカ女。お前が鏡見ろよ」

「は?」夜空は腰を浮かした。「こっちが下手に出てりゃあんたなんなの? 脳天から爪先まで童貞キモオタが調子乗ってんじゃねーよ」

「ちょっと、碧月さん……」

「触んないで!」制止しようとした儀武の手を、夜空は振り払った。「儀武さんだって似たようなもんでしょ? 女に相手にされないからって結婚生活の妄想垂れ流してた人が何気取ってんの? おんなじじゃん」

「それは全くその通りですが……」

「うわっ、裏表ありすぎ」七尾ユウが、手と声を震わせながら夜空を見た。引きつった笑顔だった。手は鞄を握り締めていた。「どうせ媚び売るなら編集者に売って枕のお情けで書籍化してもらえよ」

「は? 何? 自分が星も貰えず沈んでる妬み? 一作くらい完結させてから偉そうな口聞いたら?」

 儀武も立ち上がる。「落ち着いてください。話をしに来たんでしょう」

「あーなんか言ってる。ネットだからウケないだけって言い訳してるやつがなんか言ってる。そのくせ過去の栄光と同じペンネームのやつがなんか言ってる」

「……碧月さん、一旦出ましょう。冷静にならないと……」

「だから触んなって言ってんの!」また儀武の手を振り払う。

 七尾よりも、とにかく儀武に腹が立った。七尾に背を向け、まるで庇うかのよう。自分だって飛び交う言葉が刺さりまくっているくせに冷静で安全地帯にいるように振る舞い、そして女性に優しいような仕草をしてみせる儀武の一挙手一投足に苛立った。

 儀武の向こうにたくさんの男たちが見えた気がした。優しいのは振りだけで単に若い女と寝たかっただけの男。優しく接してきたくせに急に豹変して、拒否したら目一杯の敵意を向けてきた男。自分で薬を盛ったくせに気遣うふりしてホテルに向かうタクシーを呼んだ男。視線。呼び方。臭い。手つき。バカ扱い。自慢。見返りを期待した優しさ。自己愛を女に肯定されたい男。かつて感じたすべての嫌悪が一斉に襲いかかってくる。

 だが、そこで夜空の思考は凍った。

「何持ってんの、それ」と夜空は言った。

 立ち上がった七尾ユウの右手。もう鞄を握ってはいない。貧乏ゆすりもしていない。カラオケボックスにしては明るすぎる照明を銀色が反射する。

 ナイフだった。

 テーブルを跳ね除けながら近づいてくる。七尾ユウが言う。

「触んなよ」

「儀武さんっ!」

 儀武がようやく振り返った。

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