32.儀武一寸/未練

 古田侑が指定してきたのは池袋のカラオケボックスだった。またか、と思わずにはいられない。碧月夜空と会ったのも、場所は違えどカラオケだ。

 だが、日付の方は幸いだった。


『ごめん。その日、先約が入ってる』


 佐和へのLINEに返信する。幸か不幸か、佐和が新人賞の授賞式のために上京するという日と、古田侑の指定した日は同日だったのだ。

 佐和とは会わない。なら、会わないとだけ返信すればいい。だが、会いたい気持ちは依然としてある。むしろ、別れてから八年、彼女ともう一度会いたいと思わない日はなかった。理由がなければ、断ることはできなかった。

 そして、実在の佐和がスマホ越しとはいえ目の前に現れてしまっては、自分の隣にいる佐和を空想することもできなかった。ツイッターは激減した。ナクヨムには予約投稿した作品が淡々と投稿されていたが、更新報告をツイッターに投げることも億劫だった。

 問題は、佐和がこのツイッターを見た、ということだった。

 かつてのサークルの仲間とは今や一切連絡を取り合っていないし、儀武一寸の過去と現在を繋げられる人は存在しない。つまり、どんなに家庭環境を騙っても、誰かに知られるリスクはない。地元の古い友人に小説を書いていることは話していないし、両親すら知らない。

 それでも、佐和は綻びだった。

 もしも佐和がサークルの仲間と今も親しく、儀武一寸のツイッターを見た彼女がその誰かに結婚のことを話したら。

 サークルの仲間が今も儀武一寸の活動を監視している可能性だってある。公開アカウントだし、かつてと今とでペンネームは同じ。ふと、気になってGoogle検索すれば容易に辿り着いてしまう。そんな彼らが、ネットによく触れていて、匿名ダイアリーの流布直後からツイートの一切を止めた儀武一寸のツイッターを確認していたら。

 卒業以来、大学時代の人間関係は断ち切ってきた。学部の友人からの飲み会の誘いも断り続けていたらそのうち誘われなくなった。彼らは今の儀武一寸の生活に何ら関係がない。だから仮に笑われていても問題もない。ああ、小説で病んで恋人とも別れてメンがヘラっちゃったのね、と遠くで思われるだけだ。

 会社の方は問題ない。ネットでの活動を知る同僚はいないし、彼らと関わる限り儀武一寸はただの木村くんでしかない。適齢期だが女っ気がなく、社内恋愛の気配もないただの男性社員でしかない。

 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。

 佐和から返信があった。

『場所は?』

『池袋だけど』

『それなら行けるかも。一時間くらいだけとかでも駄目?』

『大丈夫かもしれないけど』『そっちも受賞式があるなら忙しいんじゃないの?』

『夜からだから大丈夫。それに、無理してでも会わないと』『一生会わない気がするし。そういうの大事にしていこうって最近思うんだよね』

『なんだよそれ……』

『せっかくだしさ、考えてみてよ』

『君からしてみれば、僕は顔も見たくない男だと思ってたから』


 やや間があってから返信が届いた。


『変な期待しないでよ?』

『してないって』

『断るならもう少し上手い断り方しなよ』

『上手い断り方って』

『他の女性と二人で会ったら嫁に殺されるから駄目です、って冗談っぽく言うとか』


 そう言われたことがあるのだろうな、と思った。そして、佐和を相手に世間体を守り人間関係を壊さず上手く笑い話にして逃げることをした見えざる誰かに嫉妬した。

 息をついて返信する。


『言われたことがあるの?』

『木村くん、今って家?』

『そうだけど』


 返信の応酬が止まった。ちょうど、テレビからサブスクサービスに繋いで再生させていたドラマが次のエピソードの再生待機中だった。終了させ、腰を浮かしかけた時、スマホが鳴った。音声通話が着信していた。相手は佐和だった。

 恐る恐る通話ボタンをタップする。

「……もしもし?」

「……木村くん?」

 電話口から懐かしい声がした。

「佐和。どうしたの」

「木村くんだなあってなってる」

「何、それ」

「懐かしい。声が」

「僕も」

「なんか……時間が戻ったみたい」

「そうだね」

「戻らないのにね」電話口の彼女が嘲るように笑う。

 儀武はもう一度「そうだね」と応じる。

 数秒、沈黙が降りた。

「奥さんに代わって」と佐和は言った。「わたしたち、もうなんでもないから安心してって言うから。わたしも後から大事な予定があるし、変なことには絶対ならないって」

「それは」と応じたきり言葉に詰まった。

 佐和が何を考えているのかわからなかった。

 話せなかった時間のせいだろうか。彼女との距離感が読めない。かつて彼女をひどく傷つけたし、もう関係は終わっている。なのにこんなに会いたいと食い下がってくる理由が、わからない。

 もちろん、理性の部分を無視すれば、儀武としても願ってもない話だった。今までもこれからも佐和より好きになった女性はいないし、彼女も望んでくれるのなら、他の何を置いても会いに行きたい。

 だが、今の自分を見せたくない。孤独で、会社でも変なやつ扱いで、ネットでは幸せな人間を演じて、求められれば互いの本名も知らない相手を抱きもするような自分では、佐和に会えない。

 それにしても変わらないな、と思う。佐和には変なところで直球なところがあった。こと男女の感情にまつわることでは回りくどい駆け引きみたいなものが嫌いで、照れから回りくどい言い方をしてしまう儀武に少し苛立つように、飾らない言葉を使っていた。そして自分も照れていた。そんな、目一杯理性的であろうとして結局感情に振り回されてしまう彼女が好きだった。

「何、黙らないでよ」と電話口の佐和が言った。「別に、奥さん刺しに行こうってんじゃないんだからさ」

 いや。

 ポエムめいた自己陶酔をしている場合ではない。

 もっと卑近に考えよう。


 “とりあえず、夜空も佐和もキープしておきたい。ワンチャンありそうだし。佐和は、ずっと君のことを想っていたとかなんとか言えば、ネットの無様も笑って受け流してくれるかもしれない。夜空とは連絡が途絶えているが、七尾ユウこと古田侑の音頭に応じて池袋の集まりには来るのだという。今、きっと彼女は、儀武が独身だと知ってしまったのだ。どうせ古田のせいで。そして集まりに来るということは、内心ではどう受け止めるか悩んでいるのだ。寂しい自分をアピールして君が必要だと押せばものにできるかもしれない。”


 駄目だ。

 頭の端で考えるならともかく、そんな自分になってはいけないのだ。

「いないんだよ」と儀武は応じた。

「なんで? 買い物とか?」

「だから、いないんだよ。奥さん。僕は結婚なんかしてない」

「……えっ? ちょ、それどういう……」

「僕は独身で、別れた昔の恋人との結婚生活を妄想してインターネットで既婚者を演じているキチガイ野郎ってことだよ。笑いたきゃ、好きに笑え。その代わり、もう二度と、君には会わない」

 通話を切る。スマホを放り出し、携帯灰皿とタバコとライターを手にベランダへ出る。風が強く、中々火が点かない。三度、四度とライターを擦って、やっと火が上がり、タバコの先に燃え移る。

 たっぷり時間をかけて吸い終わり、戻る。

 スマホにはなんの通知もなかった。

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