31.七尾ユウ/理屈の通った正論

「ふたりともOKだって」と姉が言った。

 三人で会いましょう、という誘いに、碧月夜空も儀武一寸も乗ってきた。特に儀武一寸の方は理由をつけて逃げるだろうと思っていたから、意外だった。

 夜の自室は静かだった。PCの向こうではコンテストの悲喜こもごもが繰り広げられ宣伝ツイートや読者への感謝のツイートが回り続けているが、全部画面の向こうだと思うと全く現実感がなかった。

 ユウの小説は、碧月夜空と渋谷のカフェで会った時から更新が止まっていた。書き溜めてストックしていた分はとうに更新してしまい、テキストファイルのサイズは大きくなることをやめた。短い文字数でも更新頻度が高いことだけが強みだったのに、それをなくしてしまってはもう戦えない。ついてきてくれる読者によってPVが周り、いいねがつき、星が増え、人目に触れ、新規読者を獲得するというサイクルが、更新を止めた瞬間に回らなくなる。更新されない作品を新規に読もうとする読者はいない。更新され続ける作品が他に無数にあるからだ。異世界転生チートハーレムものなら特に。

 頭の中では、隣の席の碧月夜空が言い放ったことが何度も何度も反響していた。そして、あの時立ち去らずにああ言っていれば、こう言っていれば、というルート分岐が延々と繰り広げられている。だが、現実のユウは立ち去った。何も言えずに逃げ出した。現実への自己弁護ならいつも頭の中で組み立てていたのに、いざ突きつけられると、鉄壁の防御を誇ったはずの城壁は砂のように崩れてしまった。

 言われたことを思い出す。もう一度自己弁護を組み立て直し、ルート分岐によっては壁は崩れていないのだと自分に言い聞かせる。そして、心に突き刺さった矢の痛みをなかったことにする。だが少し経つとまた思い出す。その繰り返しを日夜ずっと続けている。小説など書けるはずがなかった。

 今の自分がそのまま認められる証拠が欲しくて、ナクヨムのダッシュボード画面を更新する。過去作のPVが増えているのを見て、その作品のタイトルやURLでツイッター検索やGoogle検索をかける。そして、どこにも言葉の反応がないことを確認する。そうして、今の自分が認められていない証拠だけが無限に積み上がっていく。

 もう駄目だと思ったら、姉がいないことを確認して、ナイフを握る。自分はこの現実と戦えるのだと言い聞かせる。するとほんの僅かだが、息の詰まりが楽になる気がする。

 言葉や目線、意識の暴力への復讐として、ナイフの暴力を振るう自分を想像する。すると、すべてが正しいところに収まるように思える。結局のところ、概念としての男性になりたいのだ。普通の人が普通に男性になるところ、欠陥男性にしかなれないから、暴力によって補おうとする。

 コロンバイン高校銃乱射事件を題材にした映画を観たことがある。あれも、犯行動機の根幹にあるのはジョックたちからのいじめと、彼らが作り上げる正しい男性像に沿えない自分たちへのコンプレックスと描写されていた。彼らは銃によって本当の、なりたい自分になろうとした。誰からも虐げられず、自分らしく生きるために、多くの人を射殺した。殺された人に罪はなかったのだろうか。

 だが、殺せば、罪人になる。この世で一番正しくない存在になる。

 銃を持つだけで満足すればよかったのだ。強い自分をイメージすることで、内面を変えることができればよかったのだ。

 もしかしたら、暴力ではなく、強い空想でどうにかしようとしたのが、儀武一寸なのかもしれない。いい歳して独身の、欠陥男性としての自分と折り合うために。

「会えそう?」と姉が訊く。

「大丈夫」とユウは応じた。

 儀武一寸が同じ欠陥男性なら怖くはない。むしろ、仲間だ。きっと同じように、彼女がいたこともない寂しい男なのだ。妻に優しかったり周りの反応に振り回されずに小説を書き続けるような、意識の高い男を演じているだけなのだ。年齢からすれば、自分の未来かもしれないのだ。

 そして碧月夜空は。

 怖い。

 学校を卒業して以来避け続けてきた悪意を徹底的に研ぎ澄ませてぶつけてきた夜空が怖い。触れれば悪意しか返ってこない世界から自分を守るためにずっとこの部屋にいた。勇気を振り絞って外へ出たら、純度の高い悪意をぶつけてくる女がいた。彼女と和解したり友達になったりする未来は、男性器を握りしめない限りもう思い描けない。

 それでも戦えると思ったから、姉に彼らと会いたいと頼んだ。

 ここが人生の分水嶺なのかもしれない。

 引きこもり続けるだけのクズであり続けるか、せめて外に出るだけでは動悸がしないような、あるいは普通の人のように働いたり、恋愛をしたり、親を見返すことができる人間になれるのか。

「偉いね、ユウちゃん」と姉は微笑む。「ひとりで行ける? 一緒に行く?」

「ひとりで行く」そうでなければナイフを持っていけないからだ。でも。「近くにはいてほしい。呼んだらすぐ来てくれるくらい近くに」

「わかった」

「それと、周りの人の目がない場所がいい」

「難しいなあ。人目を避けられるけど、いざとなったらすぐ外から入っていける場所。出入りがある程度自由な、個室……」

 姉が考え込む。

 その時、珍しい足音が部屋の前に近づいてきて、止まった。

 ノックもなしに扉が開いた。

 父だった。仕事帰りらしくスーツ姿で、白衣を小脇に抱えていた。

いさむ、ちょっといいか。侑も、ちょうどいいから一緒に来なさい」

「……なんの用だよ」とユウは応じた。

 古田勇。それが七尾ユウの本名だ。

 だが、勇、と呼ぶ人は父しかいない。母も姉も、音読みにしたユウちゃんと呼ぶ。そして呼ばれる時、自分のことなのか姉のことなのかよくわからなかった。姉と自分の境界線が呼ばれるたびに曖昧になった。そして、父が医院を継ぐことを期待するのと同じくらい、母は女の子のような優しい子になってほしいと期待しているのだとわかった。

「いいから来なさい。お前の、今後についての話だ」有無を言わさぬ調子で言い捨て、父は踵を返す。

 姉と顔を見合わせ、しぶしぶ腰を上げた。

 母はともかく、父がこうして話に来るのが一体何年ぶりか、すぐには思い出せなかった。たぶん、大学の中退を決めた時以来だった。

 居間では母も待っていた。視線が定まらず落ち着かない様子だった。

 ダイニングテーブルの、母の対面に座った。隣には姉が座った。

 スーツのままの父は腕組みを解くと、印刷物をテーブルの中央に置いた。

 ウェブページを印刷したものだった。レイアウトが崩れ端が切れている。そして、馬場メンタルクリニック、と書かれている。

「父さんの、学生時代の友人が経営しているクリニックだ」と父は言った。「ここに通いなさい。秘密の厳守は約束してくれた」

 ユウが黙っていると、姉が応じた。「……どういうこと? 今更?」

「このままでは何も好転しないだろう。まずは、治療を受けろ。正体のわからんNPOだの支援団体だのよりは、余程信用できる。勇、お前は病気だ。対人恐怖、醜形恐怖、自己臭恐怖、視線恐怖、家庭内暴力、抑うつ状態。本来、強迫神経症は治療が極めて難しい。しかし、ひきこもりの随伴症状ならば、適切な治療によって改善する可能性が高い。医学を頼れ」

「そういうこと訊いてるんじゃないの。なんで今なの」姉は静かだが断固として言った。「これまでずっと放っておいて、お前が悪いってユウちゃんのことを追い詰めて、それで今更治療? 父さんと母さんがまともに親の役割を果たす方が先でしょ?」

「その通りだ」父は目を伏せた。この男でもそんな顔をするのか、と思った。「馬場にも同じことを言われた。治療には、本人への精神医学的アプローチ以上に、本人と両親の関係にある問題を解決することが必要不可欠だそうだ。両親が治療を拒否しないこと。本人の現状を正しく受容すること。父さんも母さんも、どこかに期待があった。きっと自分の力で立ち直って、立派に社会の一員になってくれると……」

「それ、期待じゃなくて、甘えでしょ。何もしなくても勝手に何もかもいい方向に転がるに違いないっていう、何の意味もないお祈りでしょ。だから今更って言ってるの」

「侑の言う通りだ。もっと早くこうすべきだった。勇に必要なのは安全なコミュニケーション環境と社会参加の成功体験だ。馬場のところは治療だけでなく、ひきこもりケアのソーシャルワーク活動も行っている。私と母さんも、他の当事者の親と話した。まずは当事者同士のコミュニケーションから始めれば、いきなりアルバイトで健常者の群れに放り込まれるより安心できるだろう。診断次第では精神障害者保健福祉手帳を取得した上で、その後の就労に繋げていけばいい」

 父の言葉が頭の中を上滑りしていた。

 たぶん、理屈が通ることを言っているのだ。

 だが、理屈が通った正論なら、これまでに数限りなく聞かされてきた。

 中学受験の模擬試験の成績が悪かった時。受験に失敗した時。なぜできないのか、やればできることをやらないのはただの甘えだと詰られた。父も祖父も通ったという名門中高一貫校に自分も通いたいと思ったことは一度もなかったのに。

 大学受験でもそうだ。医学部を受験するにはあまりにも学力が足りなかったし理系科目が苦手だった。それを告げると、苦手なことから逃げているようでは社会では通用しない、と正論をぶつけられた。中退する時も同じだった。アルバイトを辞める時も、世間様に顔向けできないとか、恥と思わないのかと散々言われた。全部、理屈の通った正論だった。

 医者に行けというのは、これまでの正論と何が違うのだろう。

「言う通りにしなさい、というわけじゃないのよ」と今度は母が言った。「ただ、そういうのもあるのよ、と考えてほしいの」

 父が後を継ぐ。「後の祭りだと思いながらも、お前は心の中では、できるのならやり直したい、と思っているだろう。最近、時々外出もしているそうじゃないか。それはひきこもりの随伴症状の典型だ。お前は必ず治る」

「典型ってさ」姉は冷たい顔をしていた。「結局、父さんも母さんも一般論に逃げてるよね。目の前にいるユウちゃんを見ないで、外にあるテンプレートを使ってユウちゃんを理解した気になってるよね。ユウちゃんは頑張ってるよ。自分なりに、世間とか世の中とか、ちょっと大袈裟かもしれないけど、世界と戦おうとしてるんだよ。ふたりともそれは理解してるの?」

「母さんたちはユウちゃんのことを思って……」

「俺は!」ユウは声を張り上げた。「俺は、嫌だ。俺は、精神障害者じゃない」

「だが、自分が普通ではないという病識は持っているんだろう?」父はやはり淡々と言った。「すべては診断次第だ。私は精神科の専門ではないから、無責任な診断などできないが、受診がすべての入口だ。親の言いなりになりたくないとか、自分は精神病じゃないと意固地になるのは時間の無駄だ。お前がお前自身の現状を客観的に見つめて受け入れるためにも……」

 その時、渋谷のカフェで見た隣のテーブルに座る碧月夜空の横顔と、姉を相手に投げかけられた言葉を思い出した。

「客観的に見つめられてきたよ。何度も。いつも。客観的に見てキモくてありえないガイジなんだよ!  あんたらだってそう思ってんだろ!? だから自分を変えようってしてんのに、マジなんなんだよ……」

「今すぐにとは言わないわ」と母が言った。「母さんたちが予約しておくから、考えておいてね」

「誰が行くかよ!」

 言い捨てて、席を蹴って部屋に戻る。

 扉を閉じ、鞄の中からナイフを取り出し、鞘を外す。カーテンが開いたままの窓から差し込む月光に、親指ほどの長さの銀の刃がきらりと輝いた。

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