29.儀武一寸/可能性は三通り?

 行きがけにコンビニでスープはるさめとおにぎりを買い、昼休みになると会社の給湯室でお湯を入れて食べるのが儀武の習慣だった。だが、その日からはもうひとつの習慣が加わった。

「あれ、お前タバコやめたんじゃなかったのか」と同期の菱岡が言った。

 場所は会社最寄りのコンビニ前にある喫煙所。最近は近隣の会社が尽く社内禁煙になり、昼休みの時間帯はスーツ姿の人々で喫煙所が人だらけになる。その片隅で、コンビニで買ったタバコを吹かしていると、やってきた菱岡に話しかけられたのだ。

「ちょっとストレスが多くてさ」

「で、いきなりターコイズかよ」

「くらくらする」

「そりゃそうだ。何年吸ってないんだ?」

「一〇年」

「彼女に言われてやめたって言ってたよな。学生時代に付き合ってた」

「話したっけ」

「新入社員歓迎会で聞いた」

 些細なことでもしっかり覚えているのが菱岡という男の美点であり、苦手なところでもあった。どんな相手にもたくさんの関心を持ち、小さなことでも覚えていて、会話の引き出しを巧みに作る。つくづく、この男は天性の営業職だと思う。関心を持たれて嬉しくない人間などいないのだ。儀武一寸のような偏屈な人間を除けば。

「新歓って、何年前だよ」と儀武は半ば呆れて応じた。

「俺ら入社何年目だ」

「ええと……八年だ」

「歳を取るわけだよなあ」菱岡の電子タバコから癖のある臭いの煙が上がる。

「お前、まだ嫁さんには禁煙してることになってんの?」

「そのためのこれだよ」社員証でも見せるように片手の電子タバコを示す。「お前も、どうせ再開するならこっちにすればよかったのに」

「バレないものか?」

「たぶん、バレてる」

「バレてんのかよ」

「弱みを握らせてやってるんだよ。隠せてると思ってるのか、っていう俺への優越感を持たせてやってんの。嫁に」

「難しいんだな……」

「お前も早いとこ世帯を持てよ。うちの会社、そういうところ露骨だぞ。管理職に独身はいない。歳が行ってても役職なしなのは全員独身だ」

「うるせ」十分火が回ったタバコの煙を吐き出す。葉が詰まっていて、吹かすのに慣れがいるこの銘柄が好きだった。

 菱岡は目線を目の前の道路へと逸らす。

「そういえば、ストレスが多いってのは……ついに結婚でもすんのか?」

「なぜそうなる」

「しないのか?」

「しないよ。相手がいないし、する気もない」

「そうか……」菱岡は吸い殻を灰皿に放り込み、二本目を差してから続けた。「いや、この前な、不動産投資? だったっけな。まあとにかくよくわからん勧誘電話が掛かってきてさ。それ自体は、俺は営業で名刺もばら撒いてるから珍しくもないんだけど、俺のデスク直通じゃなくて代表の番号に掛かってきたんだよ」

「それで、電話がお前のところに回ってきた?」

「そうそう。菱岡さんはいらっしゃいますかって。おかしな話だろ。不動産営業にしては下手すぎる」

「名簿で買った番号に総当りでかけたりするもんな、ああいうの」

「そうそう。それで名前忘れたふりしてこっちのメンバーの名前を聞き出したり」タバコでひと息入れて菱岡は続ける。「で、その不動産営業、ばーっと話した後に、『親しい同期の方に独身の男性の方はいらっしゃいませんか』って訊いてきたんだよ。なんか、最近は独身の時こそ不動産投資だとかなんとか言ってたんだけど……」

「どう答えたんだ?」

「そりゃ正直に、ひとりいますって。……で、後からふと思ったんだけどさ」菱岡は電子タバコ片手に腕組みする。「あれ、お前の身辺調査だったんじゃないのかなって」

「はあ?」

「不動産営業にしては下手すぎる。でも、俺がお前と親しい同期社員と知ってて、俺への営業と独身こそ不動産投資って話の間に、さり気なく、俺の同期に独身の男性はいるかと訊いてくる。探偵か何かの、お前への身辺調査だと考えると筋が通るんだよ」

「いや、考えすぎだろ……」

「願望が入ってたかもしれない。でも、結婚を考えてる相手が本当に独身か、他に交際している異性はいないかとか、結構普通に調べるだろ」

「お前は調べたのか?」

「そりゃな。男がいたよ」

「マジかよ。それ知ってて結婚したのか?」

「落ち着きたかったしな。さすがに他人の子供育てたくないから、プロポーズ前後の一年セックスレスしてたけど」爽やかな笑顔で下世話なことを言って、また機械に埋まったタバコに口をつける。「そっかー、違うのか。俺はてっきり、お前の見合い相手か何かが真剣交際前に探偵を雇ったのかと」

 違うって、と応じながらも肝を冷やした。

 どちらだ?

 新宿の喫茶店で、秘密を知っていると仄めかしてきた古田侑か。

 それとも、今の関係に舞い上がっているようだった碧月夜空か。

 前者が濃厚だ。流れてきた匿名ダイアリーにも、探偵に調査を依頼した云々という記述があった。他人に抱く興味の深浅の調整機構が壊れているのか、あるいは弟に関係する彼女の中では筋が通っている支離滅裂な動機があって、ネットで知り合っただけの人間のバックグラウンドを知るために少なくない額を支払ったのだ。

 だが、後者かもしれない。現に、碧月夜空からのLINEは途絶えている。調べて、ネットでの人格がすべて嘘だと知ったから、連絡を絶ったのかもしれない。

「元カノって、今も連絡取ってんの?」と菱岡は言った。

 勘のいい男だな、と思う。ストレスの原因を、きっと持っている情報から消去法で言い当てたのだ。

「この前、連絡があった。久しぶりに東京出るから、会おうって」

「三通りだな」煙を吐いて菱岡は言った。「脈アリか、結婚報告か、宗教か」

「会いたくないな。どれでも」

「いやいや。結婚前に、本当に好きな人と一発キメて、精子もらって旦那には黙って好きな人の子供を産んで育てるって女、結構いるらしいぜ」

「それバイアスあるだろ……」

「試練だな、木村くん」儀武の肩を叩く。「どれだったのか、会ったら教えろよ」

「絶対教えねえ」

「じゃ、俺先に戻るわ」と言って、菱岡は電子タバコを上着の懐に収めて喫煙所を後にする。

 残された儀武はスマホを取り出した。

 答えは三択のどれでもない。

 新人賞を獲ったという佐和は、『報告したい相手って、木村くんしか思いつかなかった』と続けた。

 佐和は受賞のことを両親にだけ話した。すると買い物に出たショッピングモールで、品出しをしていた母の友人に「実はすごかったのねえ」と話しかけられた。昔の同級生から急に連絡があったと思ったら、金の無心だった。そして嫁にも行かず縁談も断り、仕事も長続きせず、東京から帰ってきたと思ったら小説など書いて周りを見下す、気位だけ高い出戻りの娘と陰口を言われるようになった。どうせ私のことも書いてるのよ、などと親戚が言い交わしているのも聞いてしまった。

 そして、ならまたこっちに出てくれば、と儀武が応じると、彼女はこう返した。


『東京で暮らすのはもっと無理』


 佐和が拒絶しているのは東京ではなく木村巧という人間との記憶であり、その男の存在が今も、彼女の逃げ道を潰し続けている。いるだけで逃げ道を潰す男に、彼女を守ることも救うこともできない。しかし彼女が愚痴を吐き出す相手も他にいない。もう一度彼女を手元に置きたい、今度こそ逃したくないという邪な思いが湧き上がる。

 しかし、それだけは、絶対に許されない。細すぎる手首の感触は、今も昨日のことのように思い出される。

 佐和とは、会うべきではない。

 そして夜空との関係をちゃんとすることだ。まずは本名を教え合う。何者であるかをちゃんと伝える。ネットで作り上げたおかしな人格も切り捨てる。もしも佐和に、君と一緒にいる生活をずっと想像していた、と言ったらどう思うだろう。愚痴を吐き出すにも値しない相手とみなして、もう二度と、連絡してくることもないだろう。夜空にはどう思われるだろうか。そして七尾ユウの脅しのようなものも、跳ね除けるのだ。

 昼休みは残り五分になっていた。儀武は吸い殻を灰皿に放り込んだ。そして途絶えていた佐和とのLINEにどう返信するか考え始めたとき、別の通知が灯った。

 七尾ユウだった。夜空と三人のグループに投稿されていた。


『一度全員でお会いしませんか。みなさん、誤解があるようですので……会って解く場を設けたいのです。いかがでしょうか』

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