28.七尾ユウ/別の自分になれれば

 星爆なんてやっていない。確かに鬱陶しいとは思っていたけど、嫌われるようなことは何もしていないはずだ。なのにどうして、碧月夜空はあんなふうに悪し様に言うのか。それがどれだけ他人を傷つけるのかわからないのか。

 いつもそうだった。七尾ユウという存在のことを少しも大事に思っていないが憎んでいるわけでもない人からの言葉が、一番心を抉る。面と向かって憎まれるのならいい。それだけ自分が相手の中に存在しているから。だが、表面しか――あるいは表面すら――知らない人からの言葉には抗しようがない。別に有名人というわけでもないのに、通りすがりから低評価を下され続けるのが人生だ。そして高評価をくれる人はいつも固定かつ圧倒的少数。

 自分が、直視するにも値しない人間以下の存在であると、客観的に判断されて排除される。小学校や中学校、高校ではそれでいじめられ、大学ではぼっちになって退学した。手を差し伸べてくれた人も、長過ぎる人生の中では時々現れたが、姉以外はみんな離れていった。

 誰かと関わろうとしても、客観的に見て人間以下の自分は合理的に無視される。それでも無理に近づこうとすれば、まるでゴキブリか何かが寄ってきたかのように拒否される。丸めた新聞紙で叩いても、彼らは罪悪感など持たない。

「俺じゃない。なんなんだよあの女。意味わかんないのはそっちだろ、くそ」

 自分ではそう呟いているつもり。だが滑舌が悪いので、意味不明な音の連なりになる。そして場所は信号待ちの人で賑わう交差点なので、隣にいた若い女が露骨に嫌な顔をしてスマホを見ながら離れていく。

 鞄を何度も背負い直す。頭の中が考えで一杯になってパンクしそうになり、身体を揺する。

 信号が青になる。できる限りの早足で渡る。人混みに紛れて駅を目指す。再び信号が赤になる。長い長い横断歩道の反対側で、姉がコートに袖を通しながら左右を見回している。

 ユウはひとり電車に乗った。

 電車の中からずっと、身体を揺する癖が止まらなかった。乗客が向けてくる奇異の目が、自分のいるべき場所をわからせられるようで心地よかった。なあ楽しいか、そうやって自分たちと自分たち以外に世界を割って楽しいのか、と胸ぐらを掴んで問い質したくなる。もちろん、そんなことをする勇気はないから、すべては妄想の中。そして妄想は口を突き、意味不明な音の呟きになった。ユウの隣には誰も座らなかった。

 だが、最寄り駅で電車を降りた瞬間、頭の中が急にクリアになるのを感じた。

 これまでのことを思い出していた。嫌なことばかりの、誰にも認められず受け入れてもらえない人生。だから姉の優しさや、過去に少しだけ認められたことに延々と縋り続けなければならない。だが、そうやって否定され続けてきて、自分でも肯定できなかった自分が、かつてないほどに強いものに思えた瞬間があった。

 商店街の金物屋に立ち寄り、刃物のコーナーを見て回る。ハサミは大きいが安全なので駄目。包丁は台所以外での保管に向かない。結局、一番よさそうだったのは、木工用だという切り出し小刀だった。もう少し刃渡りが長い方が嬉しいが、街の金物屋には置いていないようだった。

 レジへ持っていくと、店主の老人がバーコードを読ませつつ言った。

「何に使うんだい、こんなもの」

「鉛筆を削るんです」紙幣を渡す。

「なんでもいいけどよ」レジに金額を打ち込む。古風なベル音が鳴る。「お父さんに迷惑かけないようにしなよ」

 商品と釣り銭を受け取りながら、こいつを最初に刺してやろうか、と思った。

 持ち帰って、暗い部屋の中で、パッケージに収まったままのナイフを見下ろす。

 決して、本当に使う目的で買ったのではない。

 ただ、世界からずれている自分が、ナイフを見ていると本来あるべき位置にぴたりと収まるような感覚があるのだ。

 部屋の扉の向こうから、母親の声がした。

「ユウちゃん? 帰ってるの?」

 無視して、PCの電源を入れる。ナクヨムのホームを開くと、通知が並んでいる。いいねしました。レビューしました。だが、積み増された評価の数は、上位陣には届かない。異世界ファンタジー部門の読者選考通過ラインにも程遠い。一体どうすればいいのかわからない。

「お姉ちゃんは? 一緒に出かけたんでしょう?」

「どうでもいいだろ!」

 怒鳴り返すと、静かになった。

 ツイッターのタイムラインを確認し遡る。姉の手によると思しき匿名ダイアリーは順調に拡散されていて、パブリックサーチの抽出結果は更新ごとに増えていく。儀武一寸の相互フォロワーも言及しており、本人の目にも間違いなく触れている。

 だが、その肝心の儀武は、バズりが始まった時期から一切ツイートしていない。

 真実はどうあれ、どんな言い訳をしても自分が不利になるなら、あえて発信はせずに黙る。ネット慣れした仕草だった。

 問題はやはり碧月だ。もう炎上は収まったのか、他の人のコンテスト作品の感想などツイートしている。

 姉との面会に同席させてもらったのは、「自演乙」と書き込みユウを炎上させたのが彼女なのか確かめるためだ。だが、耐えられずにあの場を逃げ出してしまった。

 隣で本人が聞いているとも知らずに夜空が言い放った悪口の数々を思い出すと、学校に通っていた頃に浴びせかけられた視線が芋蔓になって蘇ってくる。

 昔から考える時間だけは長かったから、自分なりになぜ「キモい」と言われるのかを、以前に考えたことがあった。

 あれは、他人のせいにしているのだ。

 私はあなたのことを生理的に受け付けません、と言えば、偉そうに他人のことを裁定する自分が残る。さらに突き詰めて言えば、生殖行為の相手に選びたくないという本能からの発言なので、自分の性的嗜好を開け広げにすることになる。一方で日本人は横並びと他人と同じであることを好み、自分の趣味嗜好を表明することを自分勝手ではしたないと忌避する。

 だが、キモいと言ってしまえば、何もかもキモい相手のせいにすることができる。自分の受け止め方を表明せず、相手がキモいから仕方なく受け入れられないのだ、と逃げている。

 その姑息さに気づいてから、インターネットで見かける女特有の語彙も似たような解釈ができることに気づいた。いい例が、「解釈違い」だ。あれも二次創作作品のせいにしている。作品が悪いから自分は受け入れられない、と言っている。普通に嫌いと言えばいいものを、自分の感情で裁定していることを上手に隠し、巧みに自分を消す姑息な言葉遣いだ。

 そしてそもそも女は理屈でものを考えることができないから、抑圧される女性を支持することとキモい男性を排除することが感情によって両立するのだ。要は自分たちが気持ちよくなりたいだけなのに、社会正義だとか倫理的な正しさだとかで無理矢理理論武装しようとするから破綻する。

 碧月夜空は、まさに典型的な女そのものだった。ユウにとっては、敵と言ってよかった。

 正義のふりして自分の感情だけで他人を裁定し、集団の内と外を分けて自分に都合のいい世界を作ろうとする存在。まさに悪だ。

 それでも、コミュニケーションしている間は楽しかった。

 リプライを読み返す。互いに飾らず気取らない言葉のやり取りがあった。誰かとこういう風に話したかった。かくあれ、男ならこうしろ、世間の目を考えて、などと言ってこない、何も強制してこない、安心して話ができる相手が、誰でもいいしひとりでもいいから欲しかったのだ。姉以外に。

 姉が守ってくれること、弟のためにと献身的に尽くしてくれることは嬉しい。

 だが、このままでいいはずがないのだ。

 玄関から物音がした。ユウは慌てて買ったナイフを鞄の奥に隠した。

 程なくして、部屋の扉がノックされて開く。

「ユウちゃん」と姉が言った。

 背を向けたまま、敢えて返事はしない。

 姉には、訊かなければならないことがあった。

「夜空ちゃん、可愛い子だったね」

「姉ちゃんなの?」とユウは応じた。「碧月夜空の作品に星爆したの、姉ちゃんなの?」

「する気でアカウントも取ってたけど、違う」

「じゃあ、誰がやったんだよ」

「さあねえ。ネットやってればトラブることもあるんじゃないの?」

「俺は、誤解されたまま? 碧月、俺がやったと思ってんじゃん」ユウは立ち上がった。「どうせ姉ちゃんなんだろ。俺のためにってさ……」そこでふと気づき、ユウは拳を握り締めた。「そうだよ。姉ちゃんもあいつと同じなんだ。俺が誰かと仲良くしようとしたから邪魔したんだろ」

「違うってば。あいつって? 母さん?」

「他に誰がいんだよ!」

「邪魔したって何?」

「とぼけんなよ、知ってんだろ」言い捨て、背を向けてPCに向かう。

 あまりにも惨めで、米村さんのこと、とは言いたくなかった。邪魔したのは母だ。ずっと友達でいられるかもしれなかったのに。もしも米村さんとの関係を絶たれなければ、こんなところで引きこもって、外に出るだけで身体が震え、独り言を呟き続けなければ壊れてしまうような自分にはならなかったかもしれないのに。

 姉もそうなのか。わざわざ碧月夜空と儀武一寸という人間関係をお膳立てしておいて、奪うのか。なぜそんなことをするのか。母親と同じ血が流れているからなのか。人類のうち、論理的に考えられない半分だからなのか。

 広がり続ける疑念。この部屋さえも安心できる場所ではなくなっていく。身体が震える。

「ユウちゃん」

 いつものように背中に覆い被さろうとした姉の体温を、ユウは払い除けた。

「触んな!」ユウは床に放り出していた鞄に手を伸ばし、胸にきつく抱いた。「もう一度会いたい」

「夜空ちゃんと、儀武さんに?」

「そうだよ!」

「どうして?」

「姉ちゃんじゃないなら、誤解を解かなきゃだろ。星爆も、増田も」

 姉はしばらく沈黙してから、ため息をついてスマホを取り出した。

 自分の口からスムーズに言い訳が出てきたことに驚いた。

 本当の目的は別にある。

 ここにナイフがある。ナイフがあれば、別の自分になれる。母に包丁を向けた時の高揚を、思い出さずにはいられなかった。

 そして別の自分になれば、もう一度受け入れてもらえるかもしれない。

 碧月夜空だって、綺麗で優しい女の子になってくれるかもしれないのだ。

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