27.碧月夜空/彼の本名

 向かい合って一〇分。互いに無言だった。

 渋谷公園通りの、狭い通路を降りた先にある喫茶店。隠れ家的、だなんて言われそうだが普通に都心部を中心に多数の店舗を持つチェーンの喫茶店だ。値段は少し高めだが、Wi-Fiがあって、いつもそこまで混んでいない。

 都内ならどこでもいいですよ、と言った夜空に古田侑が渋谷を指定した。渋谷へのアクセスがいいとすると、彼女の住まいは田園都市線か井の頭線の沿線なのだろうか、と想像する。確かめるつもりはなかった。世間話をして場を繋ぎたいとすら思えない相手だったから。

 儀武からLINEがあったが、無視した。返すのは、すべての疑念が取り払われた後にしたかった。古田が言っていることが本当だとは思わない。ここへも、つまらない言いがかりをつける古田に、ビンタのひとつもしてやろうと思ってやってきたのだ。

 だが、古田が次々に見せつけてくる違和感の数々を並べられると、晴れやかだった気持ちに次第に雲が差してくる。実際、フォロー関係は長いが、儀武一寸というアカウントに注目するようになったのはごく最近。今回のコンテストの募集が開始されてからだから、まだ三ヶ月程度でしかない。

 三ヶ月。

 誰かを好きになるには十分な時間だが、誰かを理解するには全然足りない。

 おかしな感情だとは自分でも思う。

 好きになった人が、既婚者だと思ったら独身だった。逆のパターンに泣かされる人は何人も見てきたが、さすがにこのパターンは聞いたことがない。そもそも、恋愛したがる男は、自分の独身をアピールするものだ。

 たぶん、自己愛の形の差なのだ。自分が好きすぎて、自分が好かれる存在だと証明したい人が、独身だと偽って不倫関係を結ぼうとする。そして、自分が好きすぎるのに、自分が好かれない存在だと証明され続けた人は、現実から逃げようとしていもしない恋人や奥さんの存在を匂わせようとするのだ。

 どちらも最悪。

 すると、祈るような気持ちになってしまうのだ。儀武さん、どうか奥さんがいる人であってください、と。叶ったら、自分との関係は間違いなく不倫ということになってしまうのに。

 そしてまた、おかしな感情だな、という思いへと一周回って戻ってくる。

 古田侑には訊きたいことが山ほどあった。

 ツイッターでリプライを交わしていたのは、あなたではない別の男なのか。だとすれば、その男は何者なのか。ツイッターでわかるような、四六時中ツイッターに張りついている、ろくに働きも学びもしない、徹底的に主人公に都合がいい異世界転生ファンタジーで強敵を瞬殺したり強者に尊敬されたり美少女たちに愛されまくる自分を妄想するようなキモすぎる男なのか。

 そして、星爆のこと。大量のアカウントで星を入れまくったのは、古田侑なのか。

 運営もさすがに見ればわかったのか、不正なレビューはすべて削除され、夜空のアカウントが凍結されることもなかった。5chとツイッターの炎上も収まり、5chの方はスレが切り替わって誰も話題にしなくなった。つまり、下らない企みは、夜空の勝ちで幕を下ろしたのだ。

 夜空のコーヒーはもうなくなりそうだった。古田侑の方は、まったく口をつけていなかった。店内には曲名のわからないジャズのようなものがずっと流れている。遠くの席から、あまり場にそぐわない笑い声が聞こえる。

 空いていた隣のテーブルに若い小太りな男性客が座る。

 それを合図にしたように、古田侑はテーブルの角砂糖を取って冷めたコーヒーに次々と落とした。

「先に言っておきますけど……」と古田が言った。「星爆は私じゃないですよ」

「は?」思っていたより低い声が出た。「あんた以外に誰がいるっていうの?」

「ま、それより、これ見てください」トートバッグの中から茶封筒が現れる。「儀武一寸こと、木村巧の調査報告書です。本名もペンネームみたいですよね。キムタクって。キムタクですよ」

「木村……」

「知らなかったんですか? 寝たんでしょう、彼と」

「なんで……」

「あ、やっぱりですか。だろうなーって思ったんですよ」ティースプーンでカップの端を三度叩く。「ツイッターの急接近がね。なんか、それっぽいなーって思ってたんですよね」

「……それで」

「まあ、まずは報告書を見ていきましょうか」古田はにっこりと微笑む。

 報告書はちょっとした枚数だった。概要のページには、確かにこう書かれている。

 木村巧は確かに独身であり、自宅には独居している。また、調査期間中、職場や商店・飲食店のスタッフを除く女性との接触はなかった。

 目眩を覚える。書類に貼りつけられている画像は、確かに儀武一寸の姿だった。

「一週間にわたり、儀武さん……木村さんの行動を監視してもらいました。その結果は、職場と自宅の往復。週末には車でショッピングモール内の大型スーパーへ買い出しに行っています。勤務先は日比谷線が最寄りで、秋葉原で乗り換えて、自宅の最寄りはつくばエキスプレスです。独身ならもう少し都心に近いところも借りられるでしょうに……まるで若い家族連れみたいですよね。彼のロールプレイは、もしかしたらネットだけではないのかもしれません」

「この興信所? 信用できるんですか」

「まあ、それなりだと思いますけどね。気になるならググってみてください」

 封筒に書かれていた鬼灯探偵事務所、という名前を検索してみる。上野に事務所を持つ、浮気や素行調査を専門にする事務所のようだった。調べてみると、口コミレビューのようなものも見つかった。国際認証。明朗会計。創業五〇年以上の伝統と信頼。北条氏の家紋を逆さにしたようなロゴが目に留まる。事務所の歴史をまとめたページには、創業者であり初代所長だという男の古ぼけた写真がある。金田一耕助みたいな、いかにも探偵という格好の男。まるで大正ロマンもののキャラクターみたいだった。

 少なくとも、古田がこちらを騙すために作った架空の事務所というわけではなさそうだった。

 スマホから顔を上げると、満足げな笑みで甘すぎるだろうコーヒーに口をつける古田と目が合った。

「自宅も監視してもらいました。木村さん以外の人物が出入りした形跡はありません」

「……奥さんと別居中なのかも」

「周辺の聞き込みの結果が次のページにありますよ。その家には八年前、つまり彼が就職した時から住んでいて、当時から今まで独居です。会社の同僚の方にも聞き込みを行っています。同期入社の人から、あいつは女っ気がない、独身だし結婚する気もないといった証言が得られています」

「じゃあ、離婚してるとか」

「調べてますよ。離婚歴もないみたいですね。奨学金の返済が少し残っているみたいですけど、大きな借金もありません。勤務先は私も知ってるくらいですし、まあ安泰なんじゃないですか? 悪くないですよ、結婚相手としては」

「そういうこと言ってるんじゃ……」

「あ、ですよねー」砂糖が溶け残ったコーヒーを延々と撹拌しながら古田は言った。「何があったか知りませんけど、ネットで既婚者のふりして結婚生活の妄想を無限ツイートしてるコンプレックスこじらせて精神複雑骨折してるような男、ちょっとキツすぎますよね」

「言葉が過ぎますよ」

「すみません。碧月さんの心情、全然考えてませんでした。そんな男とヤッちゃって、浮気だけどカレはワタシのこと一番に考えてくれてるの~なんて浸ってたバカ女だったなんて、信じたくないですよねえ。わかりますよ、その気持ち」

「あんた……!」

 腰を浮かしかける夜空から逃れるように、古田は椅子を思い切り引きながらテーブルから離れる。

「冗談ですって、冗談。でも、これで信じてくれますよね。儀武さんじゃなくて、私を」

「それは」と応じたきり、夜空は何も言えなくなる。

 ソファ席に座り直して、深呼吸する。

 少なくとも、この女は嘘は言っていない。でも、信じたくない。甘い時間の全部で嘘をつかれていたなんて。

 思い出す。デファクトなんとか、という言葉を急にLINEで使ってきた儀武一寸。何かと考えすぎる不器用な人なんだと、彼のことを愛らしく思った。でも違う。単に横文字を振りかざしてバカ女を教育したいと思っている鬱陶しい男だ。

 思い出す。わざわざ紙の原稿に校正記号を入れていた彼。伝わればいいのに、わざわざサークルがどうのと自分のルーツを語ったのは、知っている自分を自慢したいという気持ちをコーティングしていたにすぎないのだ。コンテストに打ち込む若い女に、新人賞を取ったことがあるという立場で上から目線になりたかったのだ。

 思い出す。プロットの講評がやけに丁寧だったのも、親切半分、本を出したことがあってものをわかっている自分のありがたい指摘を聞かせてやるという上から目線が半分だ。

 思い出す。ハニートーストに戸惑っていた彼。彼の隣りにいる女性が何を好むのか想像できなかった。当然だ。誰もいないのだから。不器用といえば聞こえはいいが、若い頃からまともな恋愛をしてこなかったから、女性と一緒にいる時間の過ごし方もろくに知らない寂しい独身男なのだ。

 思い出す。『あんまりお誘いしちゃ、奥さんに悪いですか?』とLINEした時既読無視したのは、一番になりたがる浮気相手への牽制などではない。奥さんなんかいないから返し方がわからなかったのだ。夜空が勝手に駆け引きを感じていただけなのだ。

 思い出す。秘密についての話を振った時、儀武は「秘密ではないように、僕も、演じていることをどうするか、考えないといけません」と言っていた。あれは、今の奥さんとの関係の清算を仄めかしたものでもなんでもなかった。単に、ネットで演じるのをどうやめて、夜空にどう話せばいいか考えているというだけだったのだ。

 嘘をついておきながら、バレても、受け入れられようとしている。

 そんな男に身体を許したことに怖気が立ち、夜空は身震いする。

 だが、顔を上げれば得体のしれない女の薄ら笑いがある。

「わかりますよ」と古田が言う。

「うるさい! あんたに何がわかるの!」夜空はテーブルを叩いた。「あんただって似たようなもんでしょ!? 何考えてるのか知らないけど、ネットでまでキモオタ童貞弟のお世話してるような女に言われたくないんですけど? あんた自分が安全地帯にいるとでも思ってんの? 私への星爆、あんたでしょ? 何、私あんたになんかした?」

「ですから、それは私では……」

「ダルい言い訳してんじゃねーよ! じゃ他に誰がいるわけ? 自分が顔出ししてまで弟にネカマさせてたやつが何言ってんの? てか何なのあんたの弟。せめてネットでくらい女の子とお話したーいってわけ? マジありえない。キモすぎ。5chで自演してる暇があったら風呂入って自分で喋れよ。どうせあんたの弟みたいなのがVtuberの配信に張りついてスパチャ投げてんでしょ」

「冷静になってください。碧月さん、あなたは今、彼に騙された自分への怒りを私たちに転嫁していますよ」

「怒ってないし、私は冷静だから」さすがに声を荒げすぎたことに気づき、深呼吸する。「弟くんに、言ってあげればいいんじゃないですか? 悔しかったら現実世界でチートハーレム無双でもしてみればって」

 その時、隣の席から異音が聞こえた。

 隣に座っていた小太りな男が、呼吸に合わせて唸り声を上げながら立ち上がっていた。ひと目見て、秋葉原にたまにいるタイプだな、と思った。ナイロンのなぜか金属の装飾がついている黒いコート。ポケットのたくさんついたカーゴパンツの裾からは真っ白な靴下が覗いている。明らかに履き古しの丸っこい合皮の黒い靴が、服装の中で見事に浮いている。

 男は装飾と色使いが過剰なボディバッグを引っ掴みそのまま立ち去る。

 すると、古田侑も突然立ち上がった。

「すみません、今日はこれで」

「は? なんなの? 呼び出したのそっちでしょ?」

「また近いうちに」

 一〇〇〇円札をテーブルに置き、古田侑は鞄とコートを手にし、男の後を追うように足早にその場を後にした。

 残された夜空と、テーブルの上に広げられたままの調査報告書。

 夜空ははたと気づいた。

「……今の、七尾ユウ?」

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