23.儀武一寸/選ぶ苦しみから逃げる

 坂下佐和との関係が終わったのは、大学四年の頃だった。

 講義を取り終わり後は卒論だけになったために、佐和と過ごす時間は増えていた。だが、小説の出版後、儀武は悩んでいた。

 就職せずに作家として生きていくのは、確かに魅力的な道だった。小説は書くのも読むのも好きだったし、好きなことで認められてお金も貰えるのなら言うことはない。だが、作家の世界がそんなに甘くないこともわかっていた。新人賞を取ったとして、二冊目を出せない作家、二冊目が出せても三冊目が出ずに消えていく作家は数限りない。売れている作家だけではなく、ジャンルや章の受賞作を網羅的に読んでいけば、嫌でも気づいてしまうことだった。たとえ芥川賞を受賞しても、以降ほとんど作家活動を行わずに消えていく作家もいるのだ。

 果たして自分はそんな世界で、コンスタントに売れ続けて、生活していくことができるのか。

 小説文庫本を一冊七〇〇円とする。発行部数をX万部、印税を一〇パーセントとすると、一冊書いて手元に入る金額は七〇X万円になる。そして、小説は一〇万刷ったらベストセラーの話題作だ。つまり、ベストセラーと呼ばれる作品を書いても、額面七〇〇万円にしかならない。二年に一冊ベストセラーを書くのと、年収三五〇万円の仕事を二年続けるのとどちらが楽だろうか。そして、儀武が受賞した新人賞の初版部数は一万だった。

 仮に一万部の作品を二年で一〇冊発行できれば、ベストセラーと同等になる。しかし一年に五冊。おおよそ二ヶ月に一冊ずつ書くことになる。そして部数は、ヒットがなければ減っていく。

 そんな現実を自分で考えたし、所属していた文芸サークルの部員も口々に言ってきた。儀武が受賞したのはライトノベルの賞だったから、消えていく作家も、とにかく作品数で稼ぐ作家も多かった。そしてライトノベルは新刊偏重傾向が一般の小説より高く、計算へのプラスの方向の誤算になる重版がかかりにくい。

 しかし同時に、部員たちは、誰でも書ける簡単なライトノベルすら続けられずに挫折するのか、という目を向けてくる。徹頭徹尾他人事だった。

 儀武にとっては自分事だった。

 就職活動は続けていたが、身が入らないのか、届くのは不採用の連絡ばかりだった。残念ながらご期待に添えない結果となりました。今後のご活躍をお祈り申し上げます。そんな文言のメールを何通となく受け取った。サークルの同期では、卒業後に家業を継ぐことが決まっているひとりを除き、儀武以外全員が就職内定を手にしていた。

 自然、ストレスの向かう先は、共有する時間の長い佐和になった。

 ある時は、面接に向かうため部屋でスーツに着替えようとして、佐和がネクタイを渡して「なんか新婚さんみたい」と笑ったことに、怒った。つまらない就職をしてつまらないスーツを着るのが似合いだと思っているんだろう、と怒鳴った。違うのと泣く佐和を床に突き飛ばして向かった面接はしどろもどろの受け答えになってしまい、帰ってくると、佐和は出ていった時と同じ姿勢で床の上で肩を震わせていた。きっと彼女は、他愛もない冗談で緊張を解そうとしてくれただけだったのに。

 またある時は、作家の妻であるエッセイストの本を読んでいる佐和に怒った。しょせんお前みたいなのはまともに就職もできない、せいぜい貧乏作家でもやってろと思っているんだろう、もし売れたら自分は何もせずに作家の妻を気取れてラッキーとでも思っているんだろう、という意味のことを散々な言葉で怒鳴りつけた。本を叩き落とし、コップを投げて割り、佐和が泣きながら片付けているのをぼんやりと眺めた。佐和は、気難しい恋人を支えるヒントをその本に求めていたのかもしれないのに。

 まず就職して、それから書けばいいじゃない、と佐和は言った。世の中には兼業の作家も多いし、正論だった。だが儀武にとって、その言葉は作家としての才能や能力のなさを詰るナイフに正論の鞘を被せているだけのように思えた。会話は喧嘩になった。夜の行為を拒否しようとする佐和を組み敷いて、半ば無理矢理身体を開かせることばかりになった。

 そのうち佐和は部屋に閉じこもりがちになり、笑わなくなった。笑わなくなったことに儀武は怒った。彼女の表情のない顔に薄ら笑いを、光のない目に侮蔑の影を見たような気がしていた。恋人に当たっているという罪悪感を認めたくなくて、上手く行かないのはお前のせいだ、と佐和に怒鳴った。

 食べ物を吐くようになった。眠る時に薬を飲むようになった。そのたびに、儀武はあてつけかと怒鳴った。震える佐和はいつも青白い顔をしていて、髪は乱れていた。ある時、部屋の隅で頭を抱えて丸くなって、話を訊こうとしない佐和を引き起こそうと、手首を掴んだ。折れそうなほど細いことに驚いた。そうして立ち上がった佐和の姿をまじまじと見つめて、さらに驚いた。骨が浮き、頬が痩け、痩せ細っていた。

 そんなある日、佐和の友人だという男女に呼び出されて、ファミレスで彼らに会った。彼らは佐和と同じ研究室の学生で、彼女が研究室に姿を見せず、卒業研究も一切手つかずで、このままでは卒業できないのだと言った。そして儀武に告げた。

「佐和ちゃんと別れてくれませんか」

 佐和にとって自分の存在が負担になっていることはわかっていた。だが、なら、どうすればよかったのか。自分の才能を信じればよかったのか。それとも、甘えと切り捨てて普通の大人になればよかったのか。人生に折り合いをつけるのに、二二歳は若すぎた。

 交通費がもったいないから一緒に住もうよ、と言ってくれたのは佐和だった。佐和の部屋の方が大学に近かったので、儀武の方が転がり込むようにして同棲していた。就職したらどうしようか、ということもよく話した。勤務地が近ければ一緒に住もう、と言っていた。佐和は、研究室に配属される前から、働きたい業界の目標を持っており、この会社のこの研究所、という目星もつけていた。

 引っ越しの日、佐和が大学を中退し、金沢の実家へ帰るのだと知った。ふたりの部屋は、いつの間にか、主に山のような書籍類のために、儀武の荷物の方が多くなっていた。

「どっちでもよかったんだよ?」と佐和は腫れた目で、消え入りそうな声で言った。

 儀武が専業作家を目指すなら自分が就職して支える。兼業ならなるべく近いところで働くように頑張るし、遠距離になっても会いに行く。商業作家をすっぱり辞めて就職するなら、もちろん兼業と同じような形でもいいし、いっそすぐ結婚して、普通のお嫁さんになって、コンビニのパートで家計を支えてもいい。それでも趣味で小説は続ければいい。佐和はそう考えていた。

「もしかしたら大作家とその奥さんになるかも。もしかしたら全部青春の思い出になって、普通の家庭を作るのかも。貧乏暇なしで、普通の仕事と小説の兼業で忙しくするのを、わたしが必死で支えるのかも。のんびり自分のペースで趣味の小説を書いて、たまに公募に出してみるのもいいかも。でも、どんな人生でも、ふたりならきっと楽しいって、わたしは思ってたよ? わたしはね、あなたが決めた道を、一緒に歩きたかったの」

 だが儀武はいずれの道を選ぶことも避け、選ぶことの苦痛から逃れるために佐和に当たり散らした。

 そして苛立ち紛れに、いつも同じことを言った。

「だから、お前のせいだって言われるのが辛かった」

 自分が楽になるために何もかも目の前にいる佐和のせいにした。佐和が何を思っているかを考えることもせず、ただ、その時の自分に都合が悪いというだけで怒りの矛先を向けた。

 ごめん、ごめん、と何度も侘びた。だが時は戻らないし、ふたりの関係には、二度と修復できない亀裂が入っていた。

「書いてね、儀武先生」別れ際、敢えて避けていたことを、わざわざペンネームを使って佐和は言った。「書かない理由にわたしを使わないで」

 受賞して以来、儀武は短編の一本すら書き上げていなかった。


「……儀武さん?」と碧月夜空が言った。

 穴蔵か木造船の中のような雰囲気の、賑やかなイタリアンバル。テーブルの上にはワイングラスと、話に夢中になったまま冷めてしまったアヒージョと、ずっと残っているオリーブの盛り合わせがある。暖色の間接照明が、夜空の黒髪を艶めかせている。

「すみません、うるさいところで」

「いえ。私、こういう気取らないお店の方が好きです。かしこまったところだと、お話も弾まないですし……」

「お酒も進まない?」

「ですね」夜空は相好を崩した。「すみません。私ばかり飲んじゃって」

「お好きなんですか?」ボトルを取り、夜空の空いたグラスに注ぐ。

「あっ、すみません……。えっと、父がお酒好きで、遺伝なんですかね」

「じゃあ、お酒で失敗とか、あんまり経験ないですか?」

「そんなことないですよ。この間……」と言いかけて、夜空は親指でグラスの縁を拭う。

「この間?」

「いえ。なんでもないです。ちょっと恥ずかしすぎるので……」

「なんですかそれ。気になりますよ」

「駄目です。儀武さんには言えません!」夜空の手がテーブルの下に隠れた。「誰にでも秘密はあります。儀武さんも、あるでしょう?」

「秘密ですか……」真っ先に、ツイッターで演じていることを思い出す。

 だが、彼女の前でそれを暴露するわけにもいかない。このまま関係を続けるなら、いつかは話さなければならないが、今はその時ではない。

 返答に詰まっていると、何か察したように、夜空は俯いた。

「すみません。私が、秘密でしたね」

「それは……僕にとっては、不本意なことです」夜空は顔を上げる。目が見開かれている。儀武は続ける。「秘密ではないように、僕も、演じていることをどうするか、考えないといけません」

「それって……」

「……何か甘いものとか、召し上がりますか?」儀武はメニューを開いた。

 夜空は、それで納得したように表情を緩めた。「デザートですか?」

 ティラミス。ジェラート。自家製のケーキ。グルテンフリーのもの。日本語とイタリア語と英語の表示を目で追う。

「あ、デザートじゃなくてドルチェって書いてありますね。イタリア語か。なるほど」

「儀武さん、そういうこと結構気にされますよね」

 顔を上げると。夜空が穏やかな微笑みを向けていた。からかうような言葉と表情が違いすぎて、頭の回路が焼けるような感覚があった。そして、全く同じやり取りを、かつて佐和と交わしたことを思い出した。あの頃は、こういうお店に、背伸びして来ていた。今は、気取らない店として選んでいる。

 注文を終えると、夜空は背筋を正して、だが目線は逸して「儀武さん」言った。

「また会ってくれて、ありがとうございます。嬉しいです」

「そんな、お礼を言われるようなことじゃないですよ」

「でも……」

「気にしないでください。こちらこそ、原稿で忙しいところすみません」

「大丈夫です。あとひと息で完結まで書き上がりますし。……儀武さんは?」

 それからしばらく、コンテスト用原稿の話をする。

 儀武の作品は既に書き上がっていた。元々、手を動かし始めたら速筆の方だった。これを、三〇部分ほどに分割し、予約投稿しておく作業まで、既に完了していた。

 夜空の方はというと、桜見町のあやかしたちが主人公のところに集って、主人公がかつて壺の付喪神・ジンさんと仲良く遊んでいたことを思い出し、それを忘れられてへそを曲げていたジンさんと和解して、いざ悪霊を沈めに行く、というところまで書き上がっているとのことだった。

 デザート、ではなく、ドルチェがテーブルに並ぶ。ボトルに残っていたワインを飲みきってしまう。夜空は少し赤い顔をしている。

「ちょっとお手洗い行ってきます」ポーチを手に夜空が席を立った。

 片手を挙げて給仕を呼んで伝票をもらう。時計を気にしつつ、会計を済ませて席に戻ると、夜空がもう戻ってきていた。化粧を直した様子もなかった。やけに焦っているな、と訝しむと、彼女はスマホの画面を示して言った。

「儀武さん。あの、これ……」

 夜空のナクヨムのホーム画面だった。通知が灯っている。そして、彼女のコンテスト参加作である「桜見町あやかし探偵」の星レビュー数が、突如増加している。

 レビューしたアカウントを確認し、「なんだこれ」と儀武は呟いた。

 @Yozora_Whitemoon、@Yozora_Yellowmoon、@Yozora_Purplemoon、@Yozora_Greenmoon、@Yozora_Redmoon、@Yozora_Redsun、@Yozora_Blackcross――明らかにいわゆる複垢とわかるアカウント群。

 悪意を持った何者かが、夜空が複数アカウントからレビューを行い星を水増しする不正を行ったと他の閲覧者や運営に誤解させて、アカウントを凍結させることを目論む迷惑行為だ。

「星爆ですよこれ……」震える声で呟く夜空。

「あの女だ」と儀武は言った。

 心当たりなど、ひとりしかなかった。

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