3.炎上
12月
21.碧月夜空/好きな人のことだから
二番目でもいい。好きでいられればいい。ふたりきりの時に自分だけを見てくれるのなら、別れてから誰と何をしていても構わない。そのつもりだったのに、儀武一寸に奥さんのことをLINEしてしまった。
既読スルーにされて数日。結局、次にいつ会うかの相談もできていない。
二日酔いの頭で、床暖房とオイルヒーターで温まった居間のソファに転がって、スマホのロックを解除してはスリープさせることを繰り返している。最近買い替えた4Kテレビでは、代わり映えのしない政治討論番組が延々と流されている。母はこういう番組が好きだった。きっと、政治に関心を持つよい市民であることで、働かずに家にいることの罪悪感を埋めているのだと思う。
昨日のバイトは散々だった。厄介な客に捕まり、飲んだら次も指名してあげるよ、と言われて滅茶苦茶に飲まされた。バーのママも止めてくれないどころかむしろ煽るし、他のキャストたちは遠巻きにしていて助け舟を出してくれない。ミユちゃんだけが、具合が悪くなった夜空を介抱してくれた。
そして退勤し、店を出ると、さらに散々なことが起こった。
厄介さんが、店の従業員出入口で待ち構えていたのだ。そして、まだ辛そうだね、休んでいこうよと言ってまとわりつかれる。実際、頭痛と目眩で立っているのもやっとだったし、目を閉じたらそのまま眠ってしまいそうだった。都合がいいことに、タクシーまでやってくる。ちょうどいいところに、と男がわざとらしく言うので、配車アプリで呼んだのだとわかった。
しかし、あわやそのままホテルというところで、感づいてくれたミユに幸いにも助けられた。追い縋る厄介さんをふたりで振り払い、タクシーにふたりで乗って逃げた。
そして彼女から、キャストたちが厄介さんを新人に押しつけようとしていたこと、新人補正どころでなく夜空に客がつくので妬まれていること、ママにしてみれば売上の数字が出ればキャストのことなどどうでもいいことを教えてくれた。
さらにママはしばしば、一部の得意客に彼が気に入ったキャストの退勤時間を教え、キャストを敢えて泥酔させて退勤させることを繰り返していたのだという。酒には睡眠薬が混ぜられている。夜空はお酒には強い方なので、こうも泥酔したことに違和感は持っていた。
男は、『偶然』遭遇してしまった泥酔したキャストを介抱するという体で、ホテルへお持ち帰りする。ママは男からいくらかの紹介料を受け取る。そういう仕組みだ。お金はママからその上のオーナー、オーナーと繋がる暴力団へと流れていく。
キャストの大半が、少なくとも一度は同じように得意客の相手をさせられている。ある意味、新人への洗礼のようなものだったのだ。
そんなクソッタレな店でも、ミユちゃんは働き続けるつもりだった。彼女自身も、一度ならず何度も、厄介客に抱かれ、直接お金も受けとっていた。なぜ辞めないのと訊くと、他にまともに働けるところないし、と彼女は笑った。まともでないところへ落ちずに踏み留まろうとする彼女に、夜空はもう何も言えなかった。彼女が言うには、不特定多数の相手に抱かれるのでなければ売春ではないのだという。きっと、相手をした男からの受け売りだろう、と思った。
「辞めたいなら止めないよ」とミユちゃんは言った。「うちは恨まないから」
そして自宅へ帰ってきて目一杯寝てから、店の関係者とミユちゃんの連絡先を全部着信拒否した。ママには餞別代わりにネットで拾ったリスカ画像を飛ばしてから、LINEもブロックした。最終出勤日の給料は受け取っていなかったが、どうでもよかった。手切れ金だと考えることにした。
夜空にとっては、何くそ、と頑張るような職場でもなかった。幸い、この家にいる限り、生活には困らない。自由に使えるお金は、欲しい物を少し買えるだけあればいいのだ。
ミユちゃんの立場は悪くなるかもしれない。子供を抱えている彼女は、いよいよまともでないところへ足を踏み入れざるを得なくなるかもしれない。たとえは、不特定多数を相手するような職場へと。でも、もう関わることはない。
「また年金上がるのねえ」とテレビを眺める母が言った。「受給年齢も上げるっていうし、払い損じゃない。政治家ってそういう庶民感覚がわかってないのよねえ」
「私たちの世代はもっと損なんですけどー」
「あんた払ってないじゃない」
「払うだけ損なら払わない方が得でしょ?」
「あんたたちがそんなだから……」
応じず、起こしていた上半身をまたごろんとソファに横たえる。
どう思うか儀武に訊いてみたくなった。だが、LINEは相変わらず沈黙している。
すると、玄関から「ただいまー」と声がした。姿を見せたのは、妹の茉由花だった。今日はデニムにパーカー、上からダウンジャケット。婚約者の工藤には見せたことがないだろうラフな服装だった。
「どこ行ってたの?」
「公民館。お父さんにお弁当届けに。タワマン建築反対運動だって」と応じた茉由花は、コンビニの袋を携えている。「お姉ちゃん月見だいふく食べない?」
「あんたも朝からひっくり返ってないで、茉由花を見習いなさい。お姉ちゃんなんだから。まったく、あのタワマン本当に……」
「あー、はいはい」と母を適当にあしらって茉由花を見る。「何、アイス? この寒いのに」
「寒いと食べたくならない? でも一個でいい」
「はー、それで私に半分押しつけるわけ」
「お裾分けだってば」
「冷凍庫入れといて。気が向いたら食べる」スマホのスリープを解除する。LINEの通知はない。
すると、いつの間にか隣に立っていた茉由花が画面を覗き込んで言った。
「誰それ」
慌てて画面を隠すが、もう遅い。
ロック画面は、先日儀武と行ったカラオケ店で撮った写真だった。ハニートーストを前に肩を寄せ合って並ぶ夜空と儀武のツーショット。夜空は自分が一番可愛く見える角度で、儀武はそもそも自撮りなどしたことなさそうに狼狽えていた。
ソファの背中から身を乗り出す茉由花。
「えっ何何、それ例の彼氏?」
反応が遅れた。
確かに彼氏と言った。だがあの時はただのネットで知り合った友人だったし、そもそも思い切り喧嘩している最中だった。
どうしてか、茉由花にはこういうところがある。自分が一方的に突っかかってきて喧嘩になったのに、後でそのことを問い質すとすっかり忘れたようなふりをする。そして喧嘩の最中の話題を、いとも簡単に蒸し返す。まるで、細切れにして保存された記憶の必要な部分だけを呼び出しているかのようだ。そして呼び出されたものに喧嘩というタグづけはされていない。
「えっと、まあ、そんなところ」
「へえー! お姉ちゃんにも彼氏かあ。ついに!」
「いや何人かはいたからね。あんたに言ってないだけで」
「そりゃそうでしょ。お姉ちゃん綺麗だもん」茉由花の視線がふと動く。「黒髪。艶々で羨ましい」
「……そう?」
あまりにも珍しいことなので素っ頓狂な返事をしてしまう。
「あんたも早くいい人連れてきなさいよ」台所の母が言った。「いつまでもいられたんじゃたまったもんじゃない。ちゃんとお付き合いしてるならご挨拶しなきゃならないんだし」
「そういうんじゃないから!」と応じる。
そもそも、LINEも既読スルーされている。
それどころか、他に奥さんがいる人。
この関係は不倫だ。夜空も、儀武が家庭を捨てることを望んではいない、という体になっている。少なくとも、儀武には「二番目でいい」と伝えている。
でも、本当は、一番になりたい。
専門時代の教官におだてられていた時のことを勘定に入れなければ、誰かを好きになったのは初めてだった。好きです、と言われることは何度もあったが、それで心を動かされることは一度もなかった。そして動かされないことで生まれた心の隙間に、ちょうどパズルのピースみたいに儀武一寸という男がぴたりと嵌ってしまった。
付き合うなら歳上がいいな、とはずっと思っていた。小説を書いていても、主人公の相手役はつい歳上にしてしまっていた。「私の嫌いなおじさん」はまさに年の差の恋愛がテーマだったし、まさに現在執筆中の「桜見町あやかし探偵」にも、中村さんという歳上の、ちょっと浮世離れして小難しい話が好きな男性が登場する。彼は、経営する喫茶店のカウンターに失くなった奥さんの写真を飾っている。
もしも儀武さんもそうなったら――とふと考えてしまった。
ツイッターのタイムラインには、コンテスト参加作品の宣伝が次々と流れていく。夜空もそのうちいくつかにいいねして、これは期待! などとRTコメントして、自分の作品の定形宣伝ツイートを送信する。
テレビのチャンネルが刑事ドラマの再放送に変わった。ダイニングテーブルでは茉由花が片手にリモコン、片手にアイスで寛いでいる。
その時、スマホが震えた。慌てて確認し、肩を落とした。儀武ではなかった。
七尾ユウだった。
ブロックはしない方がいい、と儀武には言われていた。こちらはツイッターアカウントと、小説と、ナクヨムと、顔を知られている。何を考えているかわからない女だから、刺激するべきではない、というのが儀武の考えだった。
それでも、儀武の話を一度聞いてしまっては、これまでと同じように接することはできなかった。気楽なリプライも、画面の向こうにいるのがサイコな女か弟のメンヘラキモオタのどちらかだと思うと、返せなくなってしまう。
こう書かれていた。
『この間の話、考えてくれました?』
七尾ユウ、あるいは古田侑からのLINEはずっと既読無視していた。無視するのがいいだろう、と儀武にも言い含められていた。
だが、どうしても気にかかる。
古田の言うこの間の話を、トークをスクロールして表示させる。
『碧月さん。儀武一寸さんを、信じないでください。彼には、誰にも言えない秘密があります。私は、その秘密に気づいてしまいました』
『碧月さんさえよろしければ、その秘密をお教えします』
『あなたにとっても、悪い話ではありません』
『彼のことを知りたくありませんか?』
知りたい。
好きな人のことなら、なんでも知りたい。それに、悪い話ではない、という文言に惹かれてしまう。
でも、悪い話でないなら、儀武は話してくれるはず。秘密にする理由はないはず。
いつか話してくれるなら、儀武に訊く必要はない。
そして悪い話でないなら、自分が聞いてもいい。
ひとり呟く。
「好きなら、隠し事なんておかしいよね」
深呼吸して一気に入力して送信。スマホを放り出す。
『考えました。詳しく教えてもらえますか?』
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