19.古田侑/赤子を抱く母親の気持ち

 何もかも間違っていることはわかっている。そして、何も間違っていないと自分に言い聞かせなければならないことは、大概間違っている。

 住まいは東京の高級住宅地。父親は医者で母親は元看護師。父親の病院勤務時代に知り合い、開業と前後してふたりは結婚。そして娘の侑が産まれた。

 親の期待を最初に感じたのは、小学校に進む時だった。母が言ったのだ。

「たくさんお勉強して、お父さんのような立派なお医者様になるのよ」

 それを聞かされた時、絶対に思う通りになるものか、という反発心が芽生えた。そしてこう答えた。

「わたしは、お姉ちゃんになるの」

 母は曖昧に笑っていた。父はこう言った。

「侑は看護婦さんだ。女の医者にはろくなのがいないからな」

 それで、医者にも看護師にもなるものかという決意を固めた。

 侑には、一歳年下の弟がいた。抜けているところが多かったが、誰よりも優しい子だった。幼稚園でも男の子たちのボール遊びに混ざらず、女の子たちとままごと遊びをしている方が楽しそうだった。その姿を見て、守ってあげなくては、と思った。優しいが周りと違う弟がこれから味わうだろう労苦の数々を、幼いながらも侑は本能的に悟っていたのだ。

 自分たちは恵まれた家の子供らしい、と気づいたのは、小学生になってからだった。

 短くなった鉛筆をいつまでも使っている子がいる。いつもしわくちゃで臭い服を着ている子がいる。入学した時から筆箱が使い古されている子がいる。いつも皺ひとつないブラウスとスカートを身に着けていて、鉛筆も海外メーカーのものを使っている自分がどうやら特別なのだ、と気づくのにそう時間はかからなかった。

 だから、友達の輪から外されないように慎重に立ち振る舞った。気の強い女子に近づき、私にとってあなたは特別だと伝える。彼女がそう言ってほしいことはわかっていたから。そして彼女が取りまとめるクラスの中で、彼女の下ではなく、隣のポジションを確保する唯一の女子になる。恵まれた家の子であるというステータスが、マイナスではなくプラスになるように使うすべを、侑はいつの間にか身につけていた。多くを教えてくれたのは、父だった。開業するにあたって、地元の権力者や、これまで地域のお医者さんだった老医師を家に招き、同じように、私にとってあなたは特別です、と伝えていた。そして父は、誰とも軋轢を生むことなく、太い顧客を受け継ぎ医院の経営を順調に進めていた。

 どうやら、弟にはそれができなかったらしいと悟ったのは、自分の立ち位置を完全に固めて後は消化試合になった、小学校高学年になってからだった。

 漫画の話についていけないとか、アニメのことがわからないとか、そういう実に下らない話だ。だが、その枕に「恵まれた家の子なのに」という言葉がついていることに、侑は気づいていた。きっと男の子たちにとって、弟が漫画の必殺技を知らないことは、恵まれた家の子をぎゃふんと言わせてやるいいチャンスだったのだ、と侑は理解した。

 そして、弟がいじめられているという事実は、クラスでの侑自身の立場をも危うくした。

 ある時、腰巾着のような立場だった女子のひとりが、弟のことに言及した。彼女が、クラスで特別な立ち位置を確保して日々の争いから逃れている自分を妬んでいることに、侑は気づいていた。だからすかさず応じた。

「は? あんなやつ、弟でもなんでもないから。家でもひと言も喋らないし」

 それで周りは、酷いねさすがだね、と侑を持て囃した。腰巾着の野望は潰えた。そして侑の中には、ついた嘘が痼のように残り続けた。

 親に言われて塾に通い、当然のように中学受験をした。立派な進学実績の名門女子校だった。表向きは、親の期待に申し分なく応えているようだった。だが侑の内心は違った。

 弟から離れたかったのだ。

 家では、傷ついた弟を可愛がる姉を演じている。でも学校では、自分の立場のために弟を悪し様に罵っている。その罪悪感から逃れるために、弟が絶対に入学できない女子校へ進学したのだ。

 そして入学してしばらく経った頃。

 最寄り駅のロータリーで、見知らぬ女の子に呼び止められた。米村、という名前には聞き覚えがあった。弟が塾で仲良くしているという女の子だった。彼女は言った。

「弟さん、学校でいじめられているんです。お姉さん、知ってますか」

 弟さん、という大人びた言葉遣いが面白かったが、もちろん、少しも笑えなかった。いじめられていることは知っていたし、何もしなかった。米村さんという子の真っ直ぐな瞳が、そんな自分を咎めているような気がした。

 詳しく知りたいから連絡先教えて、と応じ、幸い携帯電話を親に持たされていた彼女の電話番号を聞き出した。そして家に帰って、電話をしようとして、手が止まった。

 今更、何をしようとしているのか。

 守るのなら同じ学校に通っている時に守るべきだったし、弟の偏差値でも進学できるくらいの共学校を受験するべきだった。なのに今更、話を聞いて、罪滅ぼしでもするつもりなのか。いじめられて過ごした時間はもう戻らない。米村さんから話を聞いて、弟の相談に乗ったとして、それで救われるのは弟ではなく、かつて何もしなかった自分なのだ。

 そして侑は、聞いた話をすべて母に伝え、電話番号も教えた。母が電話しているのを、扉の影から盗み聞いた。

「どういうつもりですか。そんな嘘をついて、うちの子の悪い評判を流して、何が楽しいんですか。うちの子に、もう関わらないでください」

 母はそう言った。

 電話番号を渡した時点で、結末は予想できていた。母は、息子が学校でいじめられているという事実を、真正面から受け入れられない。父に相談することもしない。聞いた話を自分の中でもみ消して、なかったことにする。なぜなら、父が息子に期待しているのは医者になることだけであり、それ以外の余計なことは何一つ聞きたくない。そして母は、父の機嫌を損ねることは絶対にしない。目の前の問題から目を背けて、何もかもひとりでに上手くいくことだけを祈っている。祈ることで、自分が救われた気持ちになっている。

 同時に、侑は自分の中に、罪悪感とは全く別の暗い喜びが生まれていることに気づいた。

 弟は、姉である自分が学校内での悪評流しに加担していたことを知らない。そして、米村さんという心の拠り所を失う。両親は彼の味方ではない。彼が頼れるのは、姉である侑しかいない。

 生かすも殺すも自分次第。

 これからどんどん身体も大きくなるが、生来の内気さとこれからも続くだろういじめ体験に由来する自己肯定感の低さのために、何年経っても自分の世界を広げることができない弟のすべてをこの手に握っている。守ってあげなければ死んでしまうちっぽけな命。

 きっと赤子を胸に抱く母親はこういう気分なのだろうと思った。



 そして今、古田侑は弟のベッドの上に座り、PCに向かう弟の背中を眺めている。

「……違う」とユウは言った。「昨日までと違う。なんだよこのよそよそしいの。リプ切りたくて仕方ないみたいなの。おかしいだろ。なんなんだよ」

 今、古田侑は二九歳だった。いつまでもこのままではいられないこともわかっていた。外に出したら生きていけない、品種改良されすぎた愛玩動物のような弟を守り、大丈夫だよと言って聞かせ、立派な大人で男なのだから周りにコンプレックスを感じる必要などないと教えるために性的な行為もした。最初は手で性器を刺激し、そのうち口を使い、性交渉もさせた。

 もう限界なのは弟、ユウだけではなく、姉、侑も同じだった。あるいは、とうに限界を超えていたのかもしれなかった。いつからかと思い返せば、小学校の頃の、「弟でもなんでもないから」と口にしてしまったあの日からだった。

 ユウが怒っているのは、碧月夜空からのツイッターのリプライだった。侑が儀武一寸と会い、彼に警告を与えた翌日から、碧月夜空の態度が目に見えて変わっていた。これまでは軽い短文で応じていた何気ないリプライが、すべて長文になり、一往復で終了するようになっている。ユウの愚痴じみたツイートへの空リプ反応も消えた。

「ユウちゃん、夜空ちゃんのホーム開いてみて」

「なんで……」

「いいから」

 渋々、といった様子で、ユウはPCのウェブブラウザで碧月夜空のツイッターのホーム画面を開く。ヘッダ画像は桜のイラストだった。

 侑はベッドを降り、弟の隣に腰を下ろしてスマホのアプリで儀武のツイッターアカウントを開く。ヘッダはサイバー的な幾何学模様だった。

 両者のツイートを遡る。

「……やっぱり」と侑は言った。

 一日前の午後、休日にもかかわらず、ふたりとも不自然にツイートが途絶えている時間がある。そして、ほぼ同じ時間にツイートを再開している。


《@Yozora_Bluemoon 詳細はツイしませんが、とてもいいことがありました。 #ナクコン6 執筆がんばります!》


《@gib_son_WF 非常に実り多い時間だった。考えが異なる人の意見は参考になる。だが、作品に活かせるかどうかは、結局のところ自分次第だ。》


 そして互いのツイートにいいねしている。

 もう決まりだ。少なくとも、儀武一寸は碧月夜空に直接会っている。その時、七尾ユウを騙っていた古田侑と会ったことや話の内容を伝えている。きっと、「あの女はおかしい」「あまり関わらない方がいい」などとアドバイスしたのだ。そして碧月夜空は儀武の言葉を全面的に信じ、ツイッターの七尾ユウと距離を置くようになった。

 碧月のツイートを更に遡ると、誰かへの一方的な憧れを語るようなものが目につく。


《@Yozora_Bluemoon わからなくても、これはすごい! とわかる作品に出会ったことがあります。理解できなくても、頭や心を揺さぶられるような体験です。商業小説を読んでいても味わえないそういう感覚に出会えるのがネット小説の醍醐味だと思いますし、作者さんは本当にすごい! 書籍化作品だけがネット小説じゃない!》


《@Yozora_Bluemoon 誰かに会いたいと思う時の特別な浮遊感みたいなものを、いつか小説に書きたい》


《@Yozora_Bluemoon ネット小説は、作品ではなく作者さんから入るのもありだと私は思います。ツイッターで相互フォローして仲良くなる人って、書いてるキャッチや紹介文からは見えない、根底の感覚みたいなのが似通うんだと思います。それが普段自分が読まないジャンルの小説に触れるきっかけにもなります》


「はいはい、そういうことね」と侑は言った。

 狼狽する弟の頭を撫で、碧月夜空にLINEする。


『碧月さん。儀武一寸さんを、信じないでください。彼には、誰にも言えない秘密があります。私は、その秘密に気づいてしまいました』

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