18.碧月夜空/奥さんのいる人

 カラオケボックスをコワーキングスペースとして使う人も最近は多いのだという。店の方もそういう需要を承知して、仕事や会議用のスペースとして貸し出すプランも用意している。照明は明るくも暗くもできるし、テーブルも広い。飲み物はドリンクバーがあって、食事だって外で食べるものと遜色ないものを提供している。

 だが、夜空が秋葉原のカラオケボックスを選んだのはそんな理由ではない。

 隣に座れるからだ。

「やっぱり中村さんを大人の包容力がある人にしてよかったです」と夜空は言った。目の前にはタブレット端末。書き上がっている部分までを同人誌用のテンプレに流し込んだものを保存して持ち込んでいた。「タイプが違うキャラがいた方が映えますし。それに主人公が中村さんのことを知りたいと思う動機が自然になりました。ジンさんは元々壺から出てきたから気になって当たり前ですけど、中村さんはカフェの店長さんですからね」

「第一印象最悪は本命だけでいい」

「そう! それです」

「しかしこの喫茶店、よく潰れませんね……」儀武は印刷した原稿に赤ペンで修正を入れたものを取り上げる。彼が持ち込んだものだ。「あ、いえ、これは修正点ではありません。そういうテンプレって面白いよなっていう、ただそれだけの話です」

 いわゆる著者校正ですよ、と紙を持ち出した儀武は言っていた。活字をテンプレートに流し込んだものを仮で作成して、紙に出力したものに校正者がチェックを入れる。それを元に、著者が原稿を修正する。些細な表現やてにをはから、立っていたはずの人物が立ち上がっていることを指摘したりもする。夜空の原稿にもまさにそのようなシーンが見つかった。

 同人誌の時は、何度見返しても、いつも一箇所は誤字脱字やミスの類が残っていた。決まって、刷ってから気づく。即売会の会場で気づいたこともある。紙に出力して確認する、という手法を知らないわけではなかったが、妹に万が一にも見つかりたくなかったので自宅で原稿を印刷したことはなかった。そもそも、プリンタがない。

 奇妙なカタカナや記号に気づいて指差すと、儀武は「校正記号ですよ」と言った。

「トルツメ、トルアキ、改行入れ……これ、全部JISで標準化されてるんですよ」

「ジス?」

「日本工業規格ですよ。こうやって、右肩下がりのスラッシュで消して、一本線で伸ばして末尾も右肩下がりのスラッシュ、っていう書き方を、校正者全員がするんです。やり方が決まってれば、行き違いも起こりにくいでしょう?」

「へえ……そうなんですね」と応じつつ椅子に座り直す。さり気なく身を寄せながら。「これは?」

「語順入れ替えですね」

「なるほど……。やっぱり商業で本を出した時に覚えたんですか?」

「いえ、学生の時に。文芸サークルだったんですけど、なんというか、そういう型にこだわる連中が多かったというか……」儀武は苦笑いする。

 少し居心地が悪そうだった。それもそのはず、最初は人半分くらい開けて座っていたものが、もう握り拳ひとつ分まで近づいている。

 入室してまず儀武を先に座らせたのも作戦だ。後から座らせたら、絶対に距離を開けてくる。だから先に座らせて、そのすぐそばにさり気なく座る。そしてチャンスがあれば少しずつ近づく。

「誤字脱字チェックひとつ取ってもきちんと校正記号を使えという、出版社気取りというか文士気取りのところがあるサークルでした」

「あ、それなんかわかります」

 我こそは君たちと違ってちゃんとしたものを書いている、と言いたい人には、得てしてそういう傾向があるのかもしれない。夜空が思い出したのは、倉田すずな、という百合同人時代に遭遇した迷惑男だった。まさに彼は選民的、言い換えればプロの世界でしていることを意味もなく真似るのが好きで、私は紙出力して赤ペンで修正を入れて校正している、となぜか自慢気に語っていた。

「サークルのおかげで覚えさせられたんですよ。こんなの、伝わればなんでもいいと僕は思うんですけど」

「私も伝わればオッケー派です」

「ですよねえ」

「そうですそうです」

 応じるうちに、倉田の嫌な記憶が霧消していく。

 思い出す必要のない男だ。今、隣りにいる男だけ見ていればいい。

 それから儀武の原稿についての話になる。一応、夜空も事前に儀武から送られてきた原稿は確認していたが、特に直したいところは見当たらなかった。というより、先日のWebプロット講評会で夜空が言ったことがそのまま取り入れられていた。自分の言ったことが彼の作品に取り込まれている、アドバイスを彼が参考にしてくれていることがむず痒かった。恥ずかしいと同時に誇らしい。

 互いの作品への講評がひと段落したところで、夜空は言った。

「ここまでがっつりだと、七尾さんに申し訳ないですね。なんか、仲間外れにしてるみたいで」

 すると儀武は、「実は」と切り出した。

「昨日、七尾さんに会いました」

「え?」

「あの人、気をつけた方がいい」夜空の、驚きと失望と悔しさと怒りにまるで気づかない様子で、儀武は続けた。「サイコですよ。ここが」儀武は自分の頭を指差す。「かなりキてる。どこまで信じられるかわかりませんが……僕らがツイッターで見ていたり、ナクヨムに投稿している七尾ユウさんは、僕らがWeb講評会で話して、僕が昨日会った七尾ユウさんとは別人です」

「別人? ちょ、っとそれ、どういうことですか?」

「彼女は、自分は姉で、本来の七尾ユウは自分の弟だと言っていました」

「えっ……? じゃあ、私がリプとかしてた相手って」

「弟の方かもしれませんね。どういう分担なのかはわかりませんが」

「え、嘘。あの頭良さそうなお姉さんじゃなくて、弟?」夜空はスマホを取り出す。リプライ欄に@7oYou_seventhというIDが並んでいる。ツイッターアカウントを確認する。いかにもオタクといったツイートが並んでいる。顔を見たから、ちょっと変わり者の女性のツイートに見えていた。だが、儀武の話を聞いてしまっては、もう同じように見ることはできない。Web講評会以前と同じく、いじめ体験・鬱・ネット依存の三拍子を的確に踏んできたインターネットに無限にいるオタク男にしか見えない。「意味わかんない……」

「僕にもわかりません。ただ……」そこで儀武は言い淀む。

「ただ?」

「弟に狂気じみた愛情を持っている姉、ということだけは、確かです」

「え……そうだ私、LINEも交換してました。Web講評会の後に、向こうから交換しようって……」

「と、すると、LINEは姉担当なのかもしれませんね」儀武は確認していたスマホの画面を切って置いた。「まあ、このことは深く考えないことにしましょう。七尾さんのことは、なるべく刺激しないように」

 そうですね、と応じてテーブルの上に広がった原稿を見て、一緒に散らばっていたフードメニューに目が留まった。

「あの……儀武さん。気分転換にスイーツとかどうですか?」


 食パン一斤をこんがりと焼いて、生クリームや蜂蜜、チョコシロップ、アイス、果物で目一杯飾りつけたものを目の前にした儀武は、絶句していた。

「……なんと」

「もしかして初めてですか? ハニートースト」

「ええ。機会がなくて……」

 そうだろうな、と思う。この男と結婚するような女性は、きっとハニートーストなんか好まない。ならどんなものが好きなんだろう、と想像しても、今ひとつ思いつかない。目に浮かぶのは、真面目で育ちのいい女性だ。清楚で日傘と文庫本が似合うような。そんな女性がどんな甘いものを好むのか、夜空には想像できなかった。

 わからないことが悔しかった。

 夜空はスマホのインカメラを起動し、肩と肩が触れるほど儀武に身を寄せる。服越しに彼の体温が戸惑うのを感じる。ハニートーストの皿を手に乗せて、儀武に顔を寄せる。

「碧月さん、落としますよ」

「じゃ、そっち支えてください」

 こうですか、と応じつつ儀武が皿に手を添える。

 カメラに向かって上目遣い。輪郭が一番すっきりして見える角度に顎を引き、カメラの向きを調整する。

「え、撮るんですか」

「記念ですよ。いいじゃないですか。儀武さんのハニートースト初めて記念日」

 撮影ボタンをタップする。カシャ。続けて数枚、角度を少しずつ変えて撮影する。

 皿をそっと下ろすと、儀武が言った。

「あの、その写真……」

「ネットには上げませんよ。私だけの記念です」

「それなら、まあ……」儀武はばつが悪そうに苦笑いする。

 彼が何を気にかけているのかはわかる。こんな写真を奥さんに見られたら、結婚生活が破綻しかねない。それが悔しい。きっとこの場を何事もなかったことにして収める方策を必死に考えているだろうことが悔しい。だが、横顔をじっと見つめて気づいた。

 真っ赤だった。照れていた。隣の女を意識している証拠だった。それに気づいて、夜空の心臓も鳴った。頬に血が昇っていくのがわかった。途端に、ぴたりと触れている肩と腕の感覚が急に大きくなった。服越しに、彼の腕の中の血の流れや筋肉の些細な動きのひとつひとつまでもが感じられる気がした。

「き……昨日も七尾さん、今日は私」儀武の膝に手を乗せる。「奥さんいるのに、毎日若い女と会ってていいんですか?」

「すみません。ちょっと、お手洗いに……」

「駄目」

 立ち上がりかける儀武の腕を引き、寄り掛かるようにして肩に腕を回す。儀武が何か言おうとする。その唇を唇で塞いだ。

 最初は一秒にも満たない時間。それからもう一度、今度は息が苦しくなるほど長く、唇と舌を溶け合わせるようなキスをする。

 息を整えながら、自分からキスするのは生まれて初めてであることを思い出した。

「この後時間ありますか」と儀武が訊いた。「その、三時間くらい」

 そこで数字を出すのがおかしくて、くすりと笑って夜空は応じた。「大丈夫です。今日はバイトも休みにしてるので……」

「……食べますか、それ」儀武はハニートーストを指差す。

「持ち帰りできますよ」

「なるほど。考えられてますね」

 頻りに頷く儀武に胸が締めつけられる。世間知らずの、照れ隠しが下手な男がたまらなく愛おしい。

 もう一度抱きついて夜空は言った。

「私、奥さんに刺されるかも」

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