17.儀武一寸/メンヘラ女に噛まれた夜

 とっぷりと日の暮れた夜。新宿駅の中央東口を出て、ごみごみした街角のビルの二階にある純喫茶に入る。赤いビロードの座席はあちらこちらに染みとタバコの焼け跡。だが、手触りはいい。初老のウエイターにブレンドコーヒーを注文して暫し待つ。周りの客の話し声が聞こえてくる。充電器を備えつけのコンセントに繋いでスマホをいじりながらバイトの愚痴を交わす若い女の子たち。男たちの自慢話の応酬。脚本のようなものを挟んで眉根を寄せる若者たち。Macを開いて何かの記事を編集している男。窓の向こうの金曜夜の繁華街には無数の人が行き交う。ここへ来ると、いつも同じ景色が広がっていて安心する。

 儀武も、私物のノートPCを開く。儀武をここへ呼び出した七尾ユウは理解に苦しむことを言っていたが、コンテスト開始日にアップロードするという彼女の原稿は読んでいた。物語の進行がプロット通りなら、まだ第二章が始まったところ。正直、これでは日程的に厳しいのではないか、と思う。気になったところはメモしていたが、全部伝えて、直させていては間に合わない。

 だが、普段あまり触れない異世界転生ものを読む体験は新鮮だった。わかったこともあった。要は、様式美なのだ。Web小説のるつぼの中でこね回され続けアレンジされ続けたテンプレをどう使い、どう乗せ、どう独自性を出すかを競う、伝統芸能のような面白さがあるのだ。感覚としては時代劇に似ているし、ジャンル全体を大きな知識体系とみなしてネタの被りを前提とするやり方は、SFやミステリのようないわゆるジャンル小説と変わらない。

 しかし奇妙なのは、そういう新しい世代による新しい世代のためのジャンル体系に沿った作品を、儀武とさして年齢も変わらないだろう女性が書いているということだった。

 LINEで席と自分の服装と背格好、広げているPCを伝えておく。一応顔は見ていたが、Webカメラ越しなので今ひとつ自信がなかった。しかし向こうからは、『お顔見ればわかるので大丈夫です!』と返ってくる。

 ウエイターがコーヒーを持ってくる。メイド服にしては地味すぎる制服のウエイトレスは入れ替わっていたが、ウエイターの男だけは、儀武が学生の頃から同じ人物だった。ひょっとしたら店主なのかもしれないが、いつも腰が低いのでそんな雰囲気がない。

 学生時代に佐和と立ち寄ることもあった店だった。映画を観て、伊勢丹を覗いてやっぱり高いねと意気消沈し、ルミネを巡ってこれなら買えるかもと騒ぐ。結局最終的には、路面店のファストファッションに落ち着く。彼女は色柄やデザインより、素材ばかり気にしていた。そして就職先も、繊維に強い化学メーカーの研究開発部門だった。

 映画の時間を決める時に流れる空気のことを思い出した。ふたりとも、映画館を出ると夕食には少し早いくらいか、夕食を済ませてもまだ別れるのが惜しいくらいの時間になる上映回にしたがった。あくまで遠回しに、あえて数時間のばつが悪い時間ができるように立ち回っていた。交際相手とのこなれた時間の使い方をふたりとも知らなかったし、しかし一瞬たりとも別れたくないくらい好きだった。

 映画を観て、間が悪い時間になると、彼女は努めてはしゃいでいた。セレクトショップに並ぶ服の素材を見て、ああでもないこうでもないと言っていたのも、決まってそういう時間だった。羊はウールを刈られないと死んじゃうんだよ。ナイロンを発明した人って自殺しちゃったんだよ。そんなことばかり、彼女は言っていた。そのせいだろうか、「言葉を紡ぐ」という表現が、今になっても儀武は苦手だった。紡ぐための糸の裏に、暗い死の影を感じていた。

「こんにちは」と頭上から声が降ってきた。「儀武さん、ですよね」

「七尾さんですか」

「ええ。ご無沙汰してます。ここ、いいですか?」

 どうぞ、と席を勧める。七尾ユウは鞄と、家電量販店の買い物袋を置いて、ベージュのチェスターコートを脱ぐ。たぶん、ウール9のカシミヤ1。裏地はポリエステル。浅いVネックの白いニットに、プリーツの入ったベロア調のロングスカートを合わせている。セミロングくらいの髪は後ろでひとつに纏めていて、カラーは褪せ気味で、後れ毛があちこちから飛び出している。あまり美容院に通えていないようだった。仕事着にしてはカジュアルで、知人に会うにしては堅め。スーツは全く着ないがデニムでは許されないような職場で、かなり忙しく働いているような雰囲気だった。

 妙だな、と思う。なら、あの朝から晩まで続くツイートはなんなのか。

「オアシスのロゴステッカーが貼ってある黒いレッツノート」テーブルの上のPCを掌で示し、七尾は言った。「いい目印ですね。ゴリゴリのビジネスノートにバンドのステッカー貼る人、そういませんよ」

「どちらも好きなんです。機能とオアシスが」

「FMVの方が収まりいいのに」

「オアシスのスペルが違いますよ……。よくご存知ですね。二〇年くらい前ですよ」

「父があれで年賀状を刷ってたんです。家族総出でした」

「そういえばもう今年も、あと一ヶ月ちょっとですね」

「早いものですねえ」

 七尾は片手を挙げ、通りかかったウエイトレスを呼び止め、コーヒーを注文する。

 そして儀武の方へと向き直った。

 儀武はPCを閉じた。

「それで、七尾さん。大事なお話というのは……」

「儀武さんは、今日はお仕事帰りですか?」

「ええ、そうですが……」露骨に逸らされた。目の前の女の中身がまた読めなくなる。「残業時間が三六協定を超えまして、強制定時退社で持ち帰り仕事です。最低の働き方改革ですよ」

「そうでしたか。お忙しいところお呼び立てしてすみません」

「七尾さんは、お仕事は」

「薬剤師をしてます。病院と抱き合わせみたいな調剤薬局だから、食いっぱぐれないのはいいことですね」

「お忙しそうですね……」

「薬剤師は増えましたが、雇うお金が増えるわけではありませんから。結局少ない人数で回しますね……」

「今日は? 仕事上がりですか?」

「早引けしてきました。できる限り早い方がよかったので」

 なるほど、と相槌を打ったところでウエイトレスがコーヒーを持ってきた。

 ごゆっくりどうぞ、と素っ気なく言って立ち去っていくウエイトレスを見送り、目の前の七尾ユウに目を戻す。そろそろ、本題の時間だろうか。それとも、まだ世間話をした方がいいのだろうか。

 彼女がコーヒーに口をつけ、カップをソーサーに戻したところで言った。

「何か、買われたんですか?」

「これですか?」七尾は家電量販店の袋を指差す。「キーボードです。壊れてしまいまして」

「それは大変だ。大事な執筆道具です」

「ええ。だから、すぐ戻らないと」七尾は椅子に座り直した。「もう限界かな、と思いまして」

「キーボードですか? 確かに、使っているとああいうのは、すぐ効きが悪くなったり脚が折れたり……」

「七尾ユウがです」と、七尾ユウが言う。「ショック療法のつもりだったんです。七尾ユウは社会との接点に乏しい子です。怖がりで傷つきやすく、普通の人が折り合いをつけていく人の悪意を上手に躱す術を知らず、何もかもまともに受け止めてしまう。対人経験値を積んでごまかすこともできたかもしれませんが、幼い頃から不運と不幸が重なってしまった。ですが今はツイッターがあります。ツイッターが、七尾ユウにとって唯一の社会との接点です。ですから私は、七尾ユウにとっての悪意が強い順に、碧月夜空さんと儀武一寸さん、あなたを選びました。あなた方とコミュニケーションできたという成功体験が、彼の人生を一歩前に進める力になると思ったのです」

「……仰る意味がわかりませんが」

「儀武さん。人が刃物を握った時の顔を見たことがありますか?」

 この女は一体何を言っているのか。

 七尾ユウは自分だろうに、まるで他人のことのように話す。別に人となりを深く知っているわけでもない相手に、自分の内心の分析を突然滔々と語り出す。およそまともな人間が話すことではない。そして、七尾ユウのツイッターや作風と一致しない講評会での印象と、ここに表れた女への違和感。歯車が噛み合いそうで噛み合わないもどかしさが儀武の頭を巡っていた。

「料理している時とか、鏡で見ましたね」

「なるほど。妻が料理している姿を見る時、ではないのですね」七尾はコーヒーに砂糖を次々と加え、延々と混ぜ始めた。「鬼の顔です。刃物に宿った魔物が人に乗り移ったようでした。そして七尾ユウは、もうその魔物に頼らなければ正気ではいられないほどに追い詰められている。カンフル剤が効果を発揮するにはある程度の体力が必要で、場合によってはカンフル剤は命を奪います。ま、これは薬学的には全く意味不明な比喩なのですが……今の七尾ユウはその状態なのです。ですから儀武さん、私の質問に答えていただけますか?」

「ですから、僕には仰る意味が……」

「みかんジャムは美味しかったですか?」

「は……?」

「ほら、少し前にツイッターに写真上げてたじゃないですか。私だったら、もしパートナーにあんなふうに家庭を実況中継するみたいに写真をネットに上げられたら、嫌だと思いますしやめさせますけどね。マグカップは? 話だけで写真上がってなかったですよね。いつもなら絶対上げるなって思ったんですけど、さすがに本当にペアのを買ったりはしなかったんですか? Web講評会の時、あれだけ長時間話してたら後ろに奥さん通りかかるかなーと思ったんですけど、通らなかったですよね。居間みたいな背景でしたけど」

「何を仰りたいんです?」

「自分が望んで手に入れられないものを見せつけてくる人って、見てると苦痛なんですよね。で、苦痛を与えている方はすごく楽しいんです。見せつけてない、普通にしてるだけ、勝手にお前が嫉妬してるだけ、って言えるから。その気持ちよさがクセになって、覚醒剤みたいにやめられなくなって、嘘を積み重ねて引っ込みもつかなくなったってことですか?」

 まくしたて、大量に砂糖の入ったコーヒーを飲む。

 にたにたと気味の悪い笑顔が、カップを下ろした七尾ユウの顔に張りついている。

 怖気が走った。この女は、何か妙な妄想に取り憑かれている。インターネットを見すぎて強化された妄想は、どんな理屈を繰り出してくるかわからない。繰り出されるのは言葉だけではなく、刃物かもしれない。薬剤師、と言っていた。ともすれば、薬を盛られるかもしれない。

」七尾は金属のティースプーンでカップを忙しなく叩いている。

「……こちらからも、質問いいですか」

「どうぞ」叩く音が止んだ。

「あなたは、七尾ユウですか」

「それは七尾ユウの定義次第です。ナクヨムに作品を投稿し、ツイッターをやっている七尾ユウということであれば、私ではありません。私の弟です。ですが、七尾ユウは私です。私の、分身でもあります」

「……共同ペンネームということですか?」

「いいえ。私は小説を書きません」と、七尾ユウだったはずの女が断言する。

「弟のために替え玉になったと? なぜそんな……」

「私は彼のためならなんでもします」

「意味不明だ」鼻で笑って儀武は応じる。「じゃあ弟に迫られたら抱かれるんですか?」

 言ってしまってから失敗に気づく。つい口から出てしまったが、これではセクハラだ。

 だが、七尾は平然と応じる。

「ええ。男性にとって、性的経験の有無は自己肯定感に大きく影響しますから。彼のために、時々してあげていますよ」

「……冗談ですよね?」

「私が冗談を言っているように見えますか?」憐れむような、状況が違えば慈愛に満ちているように見えたかもしれない笑みを浮かべ、七尾は応じた。

 冗談なら、冗談でいい。しかしそうでないのなら、インターネットの海からとんでもないものを釣り上げてしまったことになる。

「……狂ってる」

「あなたと同じくらいね、儀武さん」急に無表情になる七尾。「毎日毎日職場へ行って、人生の大半を職場で過ごしている普通の人って、そもそも全員狂ってると思いませんかね」

「そんな話をしているのでは……」

 七尾は鞄の中から名刺入れを取り出し、一枚テーブルの上に置いて儀武の方へと押し出した。「ほら、これ、私のです」

 薬局の名前とロゴ。住所。電話番号。そして薬剤師という肩書の隣に、『古田侑/YU FURUTA』という名前が書かれている。

 七尾ユウは彼女の弟のペンネーム。だがユウという名前は姉である、古田侑から取られている。

「ええと、なんの話でしたっけ」名刺を収めて七尾――古田侑は続ける。「ああそうだ。みかんジャム。美味しかったですか?」

「あなたに答える義理はない」

 儀武はPCをバックパックに詰め、コートを手に立ち上がった。

「会計は済ませておきます。今日のお話は、聞かなかったことにしておきます」

「それはこっちのセリフですよ、儀武先生」

 中身のないカップの縁に人差し指を這わせ、古田侑は言った。

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