15.碧月夜空/妹の厄介な婚約者
身近な人に自分の書いた小説を見せたことはない。読まれた相手で顔を知っているのは、ネットで知り合った同人仲間だけだった。さすがに妹には、同人誌を作っていたことまでは知られている。だが常に最小部数を刷って在庫をなるべく抱えないようにし、出た在庫は鍵つきのケースに保管していたから、中身やペンネームは知られていないと思っている。
だからこれは、緊急事態だ。
『「私の嫌いなおじさん」読みましたよ。すごく面白かったです。JKがどうせおじさんに絆されて好きになっちゃうってのが最初から見えてて安心感ありますね~』
そうLINEしてきたのは妹の婚約者、工藤久助だった。
先日の顔合わせ会で、ペンネームでやっているツイッターのホーム画面を見られた。一瞬だったが彼はそのペンネームを覚えていて、検索でナクヨムに辿り着き、アップロードしている過去作を読んだようだった。
妹には黙っているよう釘を刺す。言いませんよと返事はあるが、工藤のような男は隠せと言われても全く悪気なくバラしかねない。それで「だって面白かったので」「すごいと思って」などと言うのだ。他人のコンプレックスや人間関係に敢えて鈍感であることをアイデンティティにしているような男は結構いる。そしてなぜかそういう男に女は好感を持つ。特に茉由花のような女は。
茉由花は、姉が小説を書いていると知ったら、絶対に笑う。顔を合わせている時には口先だけですごいねとか素敵だねとか言いながら、友達と会う時は目一杯バカにする。その言い方も仕草も何もかも手に取るように想像できてしまい、夜空はため息をつく。
創作趣味は、持っているだけで弱さになる。しない人は、する人を、安全地帯から思い切りバカにすることができる。小説を書いたり、絵や漫画を描いたりするのは無条件で痛い趣味であり、これより痛いものといえばアイドルを目指すくらいしか思いつかない。他でもない夜空自身が、表現するような自分かよ、と思っている。
自分に無根拠な自信を持っていると見なされる趣味は痛い。アイドルは顔が。小説は心が。自分は人より優れているのだ、だから表現する価値があると勘違いしている人だけが表現するのだと、普通の人は考える。
出版でもして認められれば、ある程度その価値が客観性を帯びるのかもしれないが、誰にも認められないままでは、単に殴りやすい弱点というだけだ。茉由花なら殴ってくる。殴って殴ってひび割れた傷口に塩を塗り込んでくる。
工藤からのLINEを見返すたび、ため息が出る。
なぜあの時スマホを落としたのか。よりによってツイッターを表示したままで。そんなに急いで確認するようなものでもないのに。
ツイッターに鍵はかけられなかった。コンテストが近い。少しでも多くの読者を獲得するために、「桜見町あやかし探偵」のこともハッシュタグをつけて繰り返し告知していた。リツイートもそれなりの数されていた。相互クラスタに媚びて媚びて、評価を入れてもらえそうな関係も築いていた。なにせ「篠塚クラスタ」のひとりとして5chに晒されていたのだ。
篠塚ヨヨ。相互評価クラスタのうち最大のものの中心人物として認知され、匿名掲示板では目一杯叩かれている。本人は毎回のコンテストで読者選考を通過しているが、一度も受賞に至ったことはないし書籍化のオファーを受けている様子もない。
そして、一度過去に書籍化実績として紹介したものが、ほとんど詐欺まがいの商売をしている自費出版専門出版社からの刊行であったことから、匿名のネットでは篠塚ヨヨを叩く流れが完成していた。人の承認欲求につけ込む自費出版商売に作品を持ち込んだとは、そうまでして自分の素晴らしさを証明したい痛い人であり、自己愛と客観視との折り合いがつかない破綻した人格の証明と取られても仕方ない。すると、匿名文化ではいくら叩いてもいい人の枠に入れられる。
そんな人間に媚びたくなどないが、すでにクラスタが出来上がっていて、多数の評価を獲得する一番の近道になってしまっているのだから仕方ない。
自分の名前も5chに晒されるのは大きなリスクだが、他にも晒されている人は多い。こいつは最近篠塚と距離を取ってる、といったことまで書かれている。よく見ている。
そんな愚痴を儀武相手にLINEで投げると、『何事もデファクトスタンダードというものはあります』と返ってきた。
『Kindleって決して素晴らしいものではないですけど、電子書籍の標準になってしまっていますよね。あれは当時、国内のサービスが消費者のニーズに正しく向き合わなかったからです。だから皆次善の策としてKindleに流れて、売上の7割がアメリカの企業であるAmazonに流れていく。日本人が日本人のために日本語で書いているにもかかわらず』
LINEでこんな長文を送ってくる人は初めて見た。しかも最後まで読んでもデファクトなんとかはどういう意味なのかわからない。頑張って理屈をこね回している歳上の彼が、なんだか可愛らしく思えてくる。
『儀武さんは電書派ですか?』と訊いてみる。
『電書派になってしまいましたね。ブラッドベリの魂を継ごうと思ったこともあったのですが……』
どういうことかと尋ねてみると、昔、電子書籍を毛嫌いしていたSF作家がいたのだという。彼は生前、著作の電子書籍化のオファーを持ってきた編集者にこう応じた。
『いいか、よく聞け、地獄へ落ちろ。と言ったそうです。紙の本が燃やされて、娯楽が電子的なものばかりになって、人々が愚民になっていく未来を描く小説が彼の代表作なのです。確かに、編集者はセンスがなかったですね』
しかし、そのSF作家のエピソードが、相互クラスタとどんな関係があるのだろう。それとも関係ない話で気を紛らわせようとしてくれているのだろうか。
『儀武さんって優しいですね』
『脈絡がわからないのですが……』
わからないのはこっちの方だが、楽しい。困惑する儀武からの返信を眺め、ベッドに身を投げだした夜空は呟く。
「早く会いたいな」
ツイッターを遡ってみる。自作小説の宣伝や他人の小説の義務RTで埋まっている人を除いたリストを更新し続けていると、昨夜、儀武一寸がラーメンの写真を上げていた。男の人はこういうの好きなのかな、と思ってホームを開く。最近、奥さんが作ってくれたという夕食の写真がない。もしかしたら、あまり上手くいっていないのかもしれない。
彼の食事の写真はいつも綺麗だった。大皿に適当に盛ったものではなく、一人前ずつ取り分けた料理が多い。でも写真の隅には、別の人のグラスやランチョンマットが写り込んでいる。
その時、玄関の方から慌ただしい物音がした。そして騒々しい足音が一直線に夜空の方へと向かってきた。
ノックもなしに扉が開いた。茉由花だった。甘い香水の匂いがした。
「どうしたの。血相変えて……」
「お姉ちゃん、この間久助さんと何か話した?」入口で仁王立ちしたまま茉由花は言った。
「話したよ。妹をよろしくお願いしますって」
「そのLINE、誰としてるの」
「誰でもいいでしょ。意味わかんないんだけど」
「久助さん、お姉ちゃんとしょっちゅうLINEしてるよね。何話してるのって訊いたらさ、別に変な意味じゃなくて普通に気になっただけなのに、そしたら、秘密って言って教えてくれないの。ねえお姉ちゃん、どういうこと?」
「はあ? 知らないし。何言ってんの?」
「なんで久助さんがお姉ちゃんと話したことを私に教えてくれないの!?」
口角泡飛ばす茉由花。工藤は今の所、夜空の小説趣味を黙っていてくれているらしい。
しかし彼のその律儀さが、妙な誤解に繋がっているようだった。
「……何、あんたまさか、工藤さんが私と浮気してるとか疑ってんの?」
「疑ってない! 確認してるだけ!」
「いやめっちゃ疑ってるし。大体、まだ会って二週間とかだよ。どうにかなるわけないじゃん」
「は? じゃあお姉ちゃん今誰とLINEしてんの? 答えてよ」
「いや、私にもプライバシーとかあるし」
「今そういう話してないよね!? どうして逸らすの?」
「逸してないけど」
「逸してる! はぐらかしてる!」
「いやだから……」
「ふーん」茉由花は一度息を整える。それで落ち着くかと思ったが、全く矛を収める様子はない。「やましいことでもあるの?」
「ないけど」
「じゃあスマホ貸して」黙っていると茉由花は声を荒げる。「貸して!」
狼狽する茉由花を見たのは久しぶりだった。いつも、自分が上に立っている優越感で話しかけてきた茉由花が色を変える姿は滑稽だった。
だから、悪戯心が芽生えた。
「別に誰でもないよ」と夜空は応じた。「彼氏。歳上の」
「……それ、どういうこと」
「言葉通りだけど」
「久助さんお姉ちゃんより歳上だよね」
「工藤さんとは言ってないってば」
「言ってるようなもんじゃん!」
「別に私に恋人がいたっていいでしょ。あんたに関係ないよね」
「は!? 意味わかんないし!」
そこで、明らかに様子がおかしいことに気づいた母が居間からやってくる。宥められても、茉由花はまだ何か叫んでいる。
馬鹿だなあ、と思う。人を好きになると周りが見えなくなる。冷静になればわかる当たり前のことがわからなくなって、おかしいことを普通だと思うようになる。その人のことなら全部肯定したくなって、でも自分の方を見てくれないことがあると、その人を肯定したいあまりに、周りのせいだと思いこむ。何もかも自分がおかしくなっているせいなのに。
それで気づいた。
「茉由花、あんた工藤さんのこと、本当に好きなんだね」
「当たり前でしょ!? 私結婚するんだよ!? 私が、結婚するの!」
茉由花の叫びが耳を通り抜けていく。
ああはなりたくないなあ、と思う。スマホに目を落とす。『何か食べたいものとかありますか』と儀武からLINEの着信がある。
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