14.儀武一寸/ラーメンは控えめに

 儀武一寸は画面の前で唸っていた。

 会社で業界誌への執筆の仕事を回され、しかし通常業務は少しも減らないどころか年末が近づきむしろ逼迫していた。元々過多気味だった業務時間は伸び、儀武含め部署の数名の月の残業時間が三六協定時間に達した。定時退社を命じられたが仕事は回っておらず、雑誌記事の執筆のような仕事は優先度が下がり、業務外に自主的にやるしかない。

 退社後、自宅への乗換駅で降りてチェーンのコーヒースタンドに入り、画面を覗き込まれないテーブル席を確保し、会社のPCを開いて書き続けること三時間。二杯目のコーヒーもとうに空になっていたが、社内のサーバに保管してあるデータをVPN経由で確認しながらの作業になるため、小説を書くようには進まない。

 意外と、長時間滞在する客というのは少ない。新聞を読んでいた老人も世間話に忙しい中年女性のグループも、会食か何かの時間合わせらしいビジネスマンも、年の差が大きすぎて関係を疑りたくなる男女連れも、三時間もすれば出ていく。

 進捗は六割といったところ。だが、趣味の方のナクヨムコンも開始が近く、平日・休日の区別なく進めていかなければ間に合わない。読者選考があるため、最終の締切に間に合えばいい通常の公募とは勝手が違うのだ。

 今日書いた部分を読み返す。小説的な表現や必要のない修辞は見当たらない。代わりに誤字を見つけたので修正しておく。

 儀武はPCを閉じて席を立った。

 背負式の鞄が重かった。会社のPCとは別に、趣味の原稿用のPCも入っているのだ。本当なら仕事用の原稿は手早く片付けて自分の作品に打ち込むつもりだったが、思ったより手こずってしまい、そうもいかない。

 まあ、その時はその時だ、と儀武は自分に言い聞かせる。

 別に、コンテストで何が何でも読者選考を通過して受賞、そして書籍化を目指しているわけではない。間に合わないなら、自分のペースで書いて更新するだけだ。コンテストはあくまで新規読者を獲得するためと割り切っている。

 だが、あわよくば、という気持ちもある。そして、あわよくば、のチャンスを掴むためにはコンテスト開始日から投稿し、ツイッターで繋がった作家クラスタによる相互評価で占められる序盤の上位陣を下駄履きなしで追い落とし、期間内にひとつでも多くの評価を獲得して読者選考のふるい落としを通過しなければならない。そのためには今、一行でも書き進めなければならない。

 ラーメン店に立ち寄って夕食にしてから、自宅方面へ向かう路線に乗る。

 列車に揺られながら、待てよ、と思い直した。

 今回は、一応碧月夜空と七尾ユウからの評価は期待できるのかもしれない。ツイッターに作品を相互に読み相互に評価するフォロー関係を持たない儀武にとってはかつてないことだった。プロットを読んでいるのだから、実際の作品がどのような仕上がりになるのかは、気になる。儀武も今回は、ふたりの作品を読もうと決めていた。いつもは、誰の作品も読まないのだ。

 スマホにLINEの着信があった。碧月夜空だった。

 彼女からは、先日のWebプロット講評会の直後に、実作原稿について下読みと評価が欲しい、できればふたりでオフで会って、という話を貰っていた。もちろん、向こうが良ければ協力するつもりだったし、夜空からなら自分の原稿にいい刺激を貰えるという打算もあった。だが、構いませんよ、と返事をするには勇気が必要だった。相手は、成人しているとはいえ、儀武よりも随分若い女性なのだ。つい先程喫茶店で見かけた怪しい男女連れを思い出した。さすがにあれほど離れてはいないものの、三〇の儀武に対して、Webカメラ越しに見た碧月夜空はまだ二〇代半ばに見えた。

 儀武一寸が結婚していると、碧月夜空は知っているはずだ。そして既婚の男性が若い女性とふたりで会うことの難しさをわからない年齢でもない。小説に真剣なあまり周りが見えなくなっているのか。逆に既婚ならば安心と考えているのか。あるいは、別の思惑があるのか。

 最近の若い女はわからない。と、呟きそうになって、自分がいつの間にか随分と歳を食っていたことに気づく。

 最寄り駅で降りて、徒歩二〇分。自宅に明かりはなかった。鍵を開け、ただいま、と声をかける。

 佐和からは遅くなるという連絡があった。それにしても、もう二二時になろうとしている。

 入浴して部屋着に着替え、執筆用のPCの電源を入れたとき、扉が開いて佐和の声がした。

「ただいまー。ごめんね遅くなっちゃって」

「お疲れ様。大変だったね」

「そう! もう炎上よ、炎上」佐和は珍しく鞄と上着を床に放り出し、倒れるようにソファに座ってため息をつく。「もう今更? 今更それ言う? って感じでさー」

「しばらく遅くなる?」

「遅くなると思う。あー肩凝った」

「僕もさっき返ってきたとこ。今週はずっとこんな感じかな。丁度いいっちゃ、丁度いいか」

「あーもう、あの品証のお姉様が今更ひっくり返したせいでもう滅茶苦茶よ滅茶苦茶。今度からお姉様じゃなくておばはんって言ってやるから。人のこと言えないけど!」

「いやー、まだ言えるでしょう」儀武は佐和の後ろに回り込み、肩に手をかけてツボを押す。

「あー、そこそこ。効くう」佐和は顎を撫でられた猫のような顔をしている。

「あんまり無理、するなよ」

「そっちこそ」と応じて佐和は眉をひそめた。「あのさあ、ラーメン食べた?」

「バレた?」

「ほどほどにしなよ? 三〇過ぎたらお腹の肉は落ちないぞ」

「いまいち実感ないんだよなあ、それ」

「わたしより長生きしてほしいの」

 そう言われては立つ瀬がない。心します、と応じると、佐和は肩揉みを逃れて立ち上がる。お風呂入ってくる、と言う彼女を見送り、儀武はテレビを点けてスマホを手に取った。

 碧月夜空から連絡が届いていた。土曜の午後で、場所は秋葉原という指定だった。彼女のバイト先があるため、印刷物を広げて話ができる場所にいくつか心当たりがあり、両者の居住地からのアクセスもいいという理由だった。彼女からは他に一章部分の原稿が届いていたが、読む時間はまだ捻出できていなかった。儀武も第一編の原稿は送っていた。こちらは既に、褒め殺すような感想が届いていた。

 風呂場から水音と鼻歌が聞こえてくる。

 グーグルで「浮気 どこから」と検索する。検索結果から、どうやらふたりで食事をするだけならば浮気とは見なさない方が多数派らしいと知り、安堵する。しかしそれで浮気と見なす人の割合は、男性より女性の方が多い。

 昔、学生の頃、まだ付き合う前の佐和と一度だけこの話をしたことがあった。確か、サークル内の誰と誰が一方の浮気が原因で別れたという話からの流れだった。

 ここまで、いやここまでかと線引きを迷う儀武に対して、佐和の考えは明確だった。「わたしが浮気だと思ったら浮気」と彼女は言った。じゃあどこまでされたら浮気と思うのかと訊くと、「それはその時による」「前提条件が曖昧なシミュレーションに意味はない」と取りつく島もなかった。そういう理性と感情の両極端が同居しているような考え方をするのが佐和だった。

 懐かしんでいる暇があったら、少しでも原稿を進めよう。

 そう思ってスマホを置こうとした時、別の通知が灯った。

 七尾ユウからのLINEだった。

 違和感があった。

 先日のWeb講評会の後、彼女にはこちらから連絡をしてLINEを交換した。いちいちツイッターを介するのも面倒だったし、講評会で話した通り、原稿への意見は夜空よりむしろ彼女から貰いたかった。

 そしてユウへは、プロットを詰める時にこちらから二回連絡して意見を貰った。向こうから届いたことは一度もなかった。異世界転生ものについて、事前講評以上に言えることは何もないと思っていたし、向こうも特に求めていないようだった。

 開いてみると、妙な文面が並んでいた。


『七尾ユウについて、大切なお話があります。できるだけ早く、お会いしてお話したいと思っています。カレンダー通りの平日仕事ですよね? どこかの夜にお会いできませんか』


 また変なことになった。それなりの分別がある年齢の大人なら、余程気心知れた間柄でもなければ、異性を夜にふたりで会おうと誘うことはまずない。それに、こちらは既婚者だと向こうは知っている。ふたりで食事に行けばそれは浮気だと思う女性も少数派だがいるし、きっと「思う」と回答しなかった人の中にも快くは思わない人もいる。儀武自身も常識的で保守的な振る舞いとして、結婚してから女性とふたりで会うことは避けていた。会社でも、最近はセクハラ対策から男女をふたりで同じ客先に出張させるようなことは避けている。

 そういった様々な配慮を蹴飛ばすほどの緊急事態なのだろうか。だが、そもそも緊急事態と七尾ユウと儀武一寸は、緊急事態を伝えるような間柄にはない。ただの、他人だ。プロット講評会をしたツイッターの相互フォロワーというだけだ。向こうの本名も身分も何も知らない。

 それに、七尾ユウについて、という他人行儀な言い方も気にかかる。七尾ユウは自分だろうに。これではまるで、マネージャーか何かのようだ。

 一応、そんなに重要で緊急を要することなのか確認する。すぐに返信が来る。とにかく早く会って話したい、と繰り返している。

 平日の夜に遅くなっても、今週ならば問題ない。佐和は忙しいし、こちらも忙しいことを彼女は知っている。そして三六協定のために月末まで残業はできないから、定時退社。夜中までどこかのカフェかコワーキングスペースで会社用の雑誌記事原稿かナクヨムコン用の原稿を書いて、外で食事をして帰宅するつもりでいた。どこか一日、七尾ユウと会う時間に割り当ててもなんとかなる。

 食事しながらにしますか、と訊くと、喫茶店でいいと返ってくる。探り探りの調整で、新宿で会うことになる。

 やけに疲れてソファで仰向けになっていると、風呂から上がった佐和が覗き込んでいた。

「駄目じゃん、原稿そっちのけでスマホ?」

「そういう気分の日もあるんだって」儀武は身を起こす。「晩ごはん食べた?」

「外で食べてきたから大丈夫。ラーメン」

「自分もラーメンかよ」

「なんか無性に食べたくなってさ。そういうのない?」

 言い返そうとして脱力する。明日は絶対にラーメンの誘惑に負けないと自分に誓った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る