13.七尾ユウ/ナイフの光
最初に男子の輪が苦手だと思ったのは、幼稚園の時だった。周りの園児たちはみな、サッカーのワールドカップで活躍する選手たちに夢中だった。園の広場でも、よくボール遊びをしていた。ユウはサッカーが好きではなかったし、ボール遊びも苦手だった。だがそれでも、周りの園児たちが好きなものを好きではない自分がおかしい気がして、日本のスター選手のポジションを覚え強豪国の選手の名を覚えた。だがある日、ユウが次の対戦国の有名選手の名前を言おうとすると、周りの園児は怪訝な顔をした。その試合は前日に終わっており、結果を知らなかったのはユウだけだった。
それからサッカーに興味を持つことをやめた。園舎の中で保育士の先生や女の子たちに混じって、ままごとや積み木遊びばかりするようになった。おもちゃの野菜を切って、はいどうぞと差し出すと、みんながありがとうと言ってくれるのが嬉しかった。
小学校に上がっても同じだった。男子たちの、流行の遊びにみんなでハマることで仲間意識を作るような空気にどうしても馴染めなかった。一度、皆と同じおもちゃを買って欲しいと親に頼んだことがあったが、くだらないと一蹴された。そのうち周りが少年漫画を読むようになり、主人公の必殺技を真似るようになった。だがユウは、週刊の漫画雑誌が毎週コンビニに並んでいることを知らなかった。書店のコミックスコーナーに立ち入ったこともなかった。聞きかじりで技だけを真似すると、知ったかぶりと笑われた。そして当然、いじめられるようになった。技を教えてやると言われて、傘や木の枝で叩かれた。主人公の特殊能力と同じ技が使えるというクラスの身体が大きい男子に思い切り腹を殴られることもあった。太っていたからか、その漫画に出てくる太った悪役キャラクターの名前で呼ばれた。親たちや先生たちは、それを仲が良い証だと勘違いした。
そんな窮状に救いの手を差し伸べてくれたのが、委員長肌の身長が高い女子とそのグループだった。確か、米村さんといった。今どき三つ編みの髪をした米村さんは、男子たちを追い払い、帰り道を一緒に歩いてくれた。それが単なる正義感だとしても、彼女の優しさが嬉しかった。
高学年になると、中学受験のための塾に通わされることになった。生きていても何も楽しいことはなかったが、米村さんが同じ塾に通っていた。特進クラスである彼女と少しでも近い場所にいたくて、必死に勉強した。住んでいるのが高級住宅地であるためか、同じ学校のいじめグループたちも同じ塾の通常クラスに通っていた。授業が同じ時間に終わると、そのいじめグループの男子たちはユウを捕まえようとした。だがここでも、米村さんが守ってくれた。
帰り道はいつも米村さんと一緒だった。彼女はいつも、ユウのために少し遠回りしてくれた。別れる交差点にはコンビニがあり、ユウはそこで人生で始めて週刊漫画雑誌を立ち読みし、肉まんを買い食いした。冷たい指に沁みる肉まんの温度を今でもよく覚えている。
米村さんは第一志望の受験に失敗し、第三志望だという中高一貫の女子校に進学した。ユウも親の決めた第一志望である、伝統ある中高一貫の進学校に落ちた。第二志望も第三志望にも落ち、滑り止めだが最近進学実績が伸び始めているという新鋭の共学校に進学した
米村さんと最後に話したのは、卒業式だった。メールアドレスを訊こうとした。だが、彼女にははぐらかされた。持ってないとか教えちゃ駄目ってママに言われてる、と彼女は応じた。
嫌がられているのだと思った。ユウにとっての米村さんは特別なひとりだったが、米村さんにとってのユウはそうではなかった。無理矢理自分を納得させた。
そして中学に進学し、ここでも馴染めなかった。入りたい部活動はなかったし、周りが夢中になっているテレビゲームは本体を買ってもらえなかった。本を読むことだけは許されていたので、学校の図書室に並んでいる昔の文学を読んだ。そしてある日、昼休みに机で弁当を食べていると、上から黒板消しの粉を振りかけられた。少し前からよく半笑いで話しかけてきた男子グループのひとりだった。
言葉にならない叫びを上げて、ユウは座っていた椅子を掴んで振り上げた。教室は騒然としたが、それだけだった。ユウは椅子を下ろして、弁当の中身をゴミ箱に捨てた。粉を振りかけてきた男子はというと、廊下の方に逃げていって同じグループの友達と「怖っ」「マジギレウケる」などと言い交わしていた。
それからも事ある毎に机を蹴られる、肩をぶつけられる等のいじめがあった。最初の数回、ユウは教室へ目線を送った。助けてほしかった。誰かが、毅然としてこのおかしさを糾弾して、本来あるべき教室に戻してくれるのではないかと期待した。だが、全員黙っているか、半笑いで目をそらすだけだった。ある時、目が合った女子のひとりが口元を覆いながら隣りにいた友達と声を上げた。「こっち見てる」「メッチャ見てた」「うわキモっ」などという話し声が聞こえた。米村さんはいなかった。
結局、大学に馴染めなかったのも、子供の頃から積み重ねられてきた失敗体験の賜物なのだと思う。ずっと人間関係を作ることに失敗し続けてきた人間が、いきなり様々な人と接して自分の世界観を広げるための場に放り込まれて、上手くいくはずがない。そして中学生より上になってしまえば男子と女子は別の生き物であり、男子たちの共通言語を話せないユウのような人間を助けてくれる人はいなくなる。
そんなユウにとって、七尾ユウを女性だと思っている女性ほど、理想的なコミュニケーションの相手はいなかった。
打てば返ってくる。
《@7oYou_seventh 進捗どうですか~? こちらはやっと一話が終わったところです》
《@Yozora_Bluemoon 5万字です! でもまだプロットの3分の1くらいで……ナクコンスタートまでに10万字は貯めたい!》
《@7oYou_seventh 無理はしないでくださいね。徹夜とかして書いたものって、その時は素晴らしいものに見えてもあとで読み返すとメタメタになってること多いらしいです》
《@Yozora_Bluemoon それわかります! 昔同人やってた時に、本当に限界で3日で入稿したことありましたけど、手癖の塊の黒歴史になりましたもん。イベント終わったら燃やしましたw》
《@7oYou_seventh 同人やられてたんですね。ググれば出てくるかも……?》
《@Yozora_Bluemoon やめてー! ジャンルは絶対秘密です!》
とうの昔にググって、碧月夜空という同じペンネームで少年漫画のBL同人小説がかなりの数書かれていることは確認している。
そろそろリプライを切って原稿に戻ろう、と思った時だった。
居間の方から姉の怒鳴り声が聞こえた。
「お父さんもお母さんも、ユウちゃんのこと何もわかってない!」
「ならあのままいつまでも引きこもりでいいのか!? 餅は餅屋。私でも母さんでも、お前でも無理なら、プロの人に頼む。他に手段があるなら言ってみなさい」
「ごめんね侑、もうこんなパンフレット持ってこないから、こんな話もしないから、ね?」
「母さんがそうやって甘やかすから……侑、お前もだ。大体、なぜユウちゃんだなんて」
「ユウちゃんはユウちゃんでしょ!?」
居丈高な父と、叫ぶ姉と、ふたりに縋りつくようにして泣く母。この家ではありふれた光景。だからいつもなら、部屋に閉じこもって、嵐が過ぎるのを待つ。天災と同じなのだ。避けられないし、無理に出ていかないでじっと安全な場所で待つしかない。
だがユウは、恐る恐る部屋の扉を開け、スマホを片手に足音を殺して廊下へ出た。
これまでに浴びせられたすべての目線、すべての暴力、すべての悪意が、ユウにとっての世界だった。世界は常に嵐であり、生き延びるためには部屋にいるしかなかった。にもかかわらず一歩を踏み出せたのは、話せている、という実感があったからだった。
碧月夜空と、リプライがどんどん繋がる。儀武一寸から、DMだって届く。大半は姉が上手く処理してくれていたが、今のように、ユウ自身が入力することもある。
曲がり角まで来て、スマホを確認する。儀武一寸がツイートしている。
《@gib_son_WF こんな時に限って仕事が多忙で原稿の時間がなかなか取れない。帰れば食事が出てくる有り難みを実感する。。。》
励ましのリプライにこう応じている。
《@gib_son_WF ナクコンの原稿に、本名での執筆が重なってしまいました。小説の頭では書けないので、切り替えが大変です。週末は喫茶店に立てこもる変な人になりますね》
いつもの、さりげないつもりでアピールしているのが丸見えの、家庭のツイート。今回は、別件でも文章でお金を貰っているすごい自分もわざわざアピールしている。いつもなら、ブロックしたくなるのを堪えるので必死になる文章。
だが今は平気だった。ああ、そうやって自己肯定感を満たさないと生きていけない悲しい人なんだね、という一歩上からの目線で見ることができる。だって女とリプライしているから!
女性らしいアカウントばかりにリプライを飛ばすアカウントを数限りなく見たし、なぜ彼らがそうするのかよくわからなかった。今ならわかる。孤独な人間は、異性にリプライをして、何か返ってくると、それだけで自分の存在が認められたような気分になるのだ。そしていつしかしそれが反転して、自分は認められるべきなのに返事が来ない、と粘着する迷惑アカウントになっていく。
極まってくると、迷惑だとか鬱陶しいだとか反応されたり、アカウントが消えたりしたことにさえ、満足感を覚える。なぜならそれは彼ら自身の行動の結果であり、自分の行動が他人に影響したことを意味するからだ。彼らは自己肯定感を高めることができるのだ。そういった傾向はコミュニケーション経験値が足りない人間に多い。つまりオタクだ。オタクは声優が好きだから、どんな形でも彼女たちに楔を一本打ち込みたくて、女性声優のツイッターに粘着する。
そして儀武は、自分は十分に自己肯定感がある、とアピールすることで、インターネットに生息する承認欲求の魑魅魍魎たちにマウントを取っているにすぎない。ユウも、少し前まではその物の怪の一匹だった。今は儀武のことが、怪物を指差して笑っているけど自分の足元が崩れていることに気づかない、哀れな村人に見える。
だから部屋から出て、居間で交わされる会話を柱の陰から盗み聞くこともできる。
「これ、たぶんお金だけ持ってく詐欺業者だよ」姉が、ダイニングテーブルに置かれたパンフレットのようなものを叩く。「引き出し屋っていうの。親から高い金を受け取って、本人の同意もなくほとんど拉致するみたいに連れ出して、鍵付きの刑務所みたいな部屋に閉じ込める。それで毎日毎日お前は駄目だと言い聞かせて洗脳して、役所に生活保護を申請させて全部持ってくの。障害者手帳を作らせて障害年金も騙し取る。連れ出された引きこもりの人は、自由もなくろくに食事を与えられず、自立訓練を受けてるってことにされる。どうせ母さんが貰ってきたんでしょ?」
「そうだけど……お父さんの病院の知り合いの方の紹介だって言うから、安心して……相談会にも参加したけど、みんな優しそうな方だったのよ」
「診断書を書く医者とも結託してるのかもね」
父がパンフレットを取り上げる。「侑! お前はもういい。この団体のことは、私がちゃんと調べておく」
「その前にユウちゃんをああした自分たちに向き合ったらどうなの!? どうせその相談会って、親同士が話し合うやつでもないし、ソーシャルワーカーもいないんでしょ。ユウちゃんのことをちゃんと考えてないからそういう人たちに騙されそうになるの! 父さんも母さんも、ユウちゃんより自分が大事なんでしょ!? 息子のために何かして親の役目を果たしてるっていう安心が欲しいだけでしょ!?」
「侑!」
父の平手が姉の頬を打った。
そして目の前の両親から顔を背けた姉と、ユウの目が合った。
「ユウちゃん……」
「姉ちゃん」ユウは居間へと立ち入る。「なんで姉ちゃんのこと叩くんだよ」
父が応じる。「お前には関係ない。部屋にいろ」
「俺の話だろ。俺の話してるよな。俺の話だよな!」
「自分で自分の面倒も見られないくせに偉そうなことを言うな!」
脳の血管が狭まるような感触が走った。
父の言葉は、確かに正鵠を射ていた。そしてユウは、自分の面倒を自分で見られないという事実を、親の責任だと考えることで自分自身と向き合うことを避けていた。その逃避の論理の崩壊は、激しい怒りとなってユウを突き動かした。
お前のせいだろ。お前のせいだろ。俺のせいじゃない。なぜ俺のせいだと言うんだ。お前が俺を閉じ込めたのに。外に出るなと言ったのはお前なのに。このままではいけないと一番理解しているのは俺なのに。
ユウは台所へ大股で入り、まだ洗われずに流しに置かれていた包丁を手に取った。
姉だけが味方だった。姉に手を上げるなら、父は敵だった。刃物の煌めきが、お前は正しいと言っていた。胃の奥から熱いものがこみ上げた。
母が悲鳴を上げた。何をしてる、と父が怒鳴った。
一歩踏み出すと、両親が一歩下がる。それが面白くて、もう一歩、二歩と踏み出す。
だがその時、姉がユウの前に立ちはだかった。
「やめて、ユウちゃん。ユウちゃんのせいじゃないって、お姉ちゃんはわかってるからね」
「どいてよ姉ちゃん」
「ごめんね。そんなことしたくないよね。ごめんね」
姉は一歩一歩近づいてくる。
手が震える。腹の熱が急に冷えていく。
「大丈夫だよ。ユウちゃんは大丈夫だから。そんなことしなくてもいいんだよ」
「姉ちゃん、俺」
「大丈夫だから」
姉の手が包丁を握ったユウの手を包んだ。
もう一度姉が言った。
「大丈夫だから」
ユウは包丁を取り落した。金属音が静まり返った居間に響いた。ああ、と母が声を上げた。父は何も言わなかった。
全身が暖かさに包まれる。姉に抱きしめられていた。
「大丈夫だからね。ユウちゃんはお姉ちゃんが守るからね」
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