2.導火
11月
12.碧月夜空/妹の恋人
今日だから、と妹からLINEが飛んでくるまで、何もかも忘れていた。
夜空は無事、儀武一寸と個人的に連絡先を交換することができた。儀武は、夜空の提案にひとつもノーと応じなかった。LINE。今度また原稿を見ること。場所はざっくり都内で、ある程度進んだら原稿の相談がてらふたりで会うこと。
社交辞令かな、とも思う。あくまで原稿がある程度進んだら、という約束だ。こんなことなら一週間や二週間と指定すればよかったが、もう遅い。もしかしたら、一章を書き上げたら二章ができたらと、二章ができたら全部書き上がったらと、全部書き上がったら、もう前半はナクヨムにアップしているじゃないですか、と言われて断られるのかもしれない。むしろ、ある程度、と曖昧な未来にしているのは、彼はそういう戦略を使うつもりであり、夜空が悟って引き下がり、人間関係に波風立てずに終わることを狙っているのかもしれない。
考え始めると止まらない。簡潔なLINEの文面の、裏の裏まで勝手に読み取ろうとしてしまう。そのせいでバイト先では接客中に上の空になり、店長に叱られてしまった。新人だからと客も大目に見てくれたのが幸いしたが、いつまでも通用するわけではない。ガールズバーのキャストは、始めてみると、想像していたより嫌な仕事だった。ミユちゃん以外の同僚は指名争いのせいでピリピリしているし、男たちはSNSのバズネタ目当てかそもそもガールズバーに初めて来たような根暗か、あるいはキャストと繋がる目的であることを隠さない男ばかり。メイド服風の衣装が可愛いことだけが救いだった。
妹の恋人には、あまり知られたくない仕事。
土曜日の夕方だった。
目一杯清楚でシンプルな、白いタートルネックのニットと、明るめブラウンのロングスカートを選ぶ。可愛さよりも落ち着きや生真面目さをアピールするような服は、あまり好きではなかった。何より、妹は姉がこういう服装をすることを期待していることが嫌だった。
彼氏ができれば毎度毎度見せつけにくる妹。
いつも、ドラマの脇役くらいは張れそうな、ささやかな華を持ち合わせている素敵な男性を連れてくる妹。
ろくでもない男と人生の様々な局面で正面衝突してばかりの自分。
ほくそ笑んで次の男に乗り換える妹。
できるだけ顔を合わせたくなかったが、家にいてと言われた手前バイトを入れるわけにもいかない。部屋にこもって、ナクヨムのホーム画面を更新したりツイッターを眺めたり、好きなブランドのコーデを調べたりして時間を潰す。
呼び鈴が鳴る。廊下からスリッパの慌ただしい足音がする。ただいま。お邪魔します。いらっしゃい。寒かっただろう。
嵐が部屋の前を通り過ぎる。呼ばれるまでは大人しくしていようと思ったその矢先、いきなり扉が開いて母が入ってくる。
「何してるの。早く来なさい」
「別にいいでしょ。茉由花の彼氏なんて、どうせすぐ別れて違う男連れてくるんだし」
すると、色使いが明るすぎる化粧をした母が、眉間に皺を寄せた。「本気で言ってるの?」
「何? 僻むのやめなさいって言うの? 別に、うざいだけで僻んでるわけじゃ……」
「結婚の挨拶なのよ」
「……は?」
「娘さんをくださいって、挨拶にいらしたの。今時珍しい律儀で真面目な男性よ。それなのに……」
「えっ……は? ちょっと待って。結婚? 何それ」
「茉由花から聞いてないの?」
「聞いてないけど……」
母は肩を落とした。「お姉ちゃんには伝えとくって、茉由花言ってたのに……」
「だから聞いてないって」
「お姉ちゃんを驚かせたかったのよ。それか、あなたが寂しがると思ったのか」
「は? 何それ。意味分かんない。どんだけ茉由花に甘いの? キモすぎ」
「親に向かって、なんて口の利き方するの!」
「言わなきゃいけないことは相手が誰でも言うから」
「とにかく、ちゃんとして。もうあなたも二五でしょう。本当なら、あなたが先のはずなのよ。わかってるの?」
「はあ? 本当ならって何? さすが働いたこともない専業主婦だわ。世界狭すぎ」
「いい加減になさい!」
さらに夜空が言い返そうとした時、キッチンの方から父の声がした。「おおい母さん、お茶っ葉ってどこだ」と平和な言葉。「今行きます」と声を張り上げて、母は夜空の手を引いた。
「離してっ! 行くから。行けばいいんでしょ」
「お茶だけお出ししたら、タクシー呼んで『浜むら』行くから。支度してね」
何それ、と絶句する間に母はキッチンへ向かう。
浜むら、とは家から歩いて二〇分ほどのところにある割烹料亭で、主に接待や会食の客を相手にしている。夜空の家族も贔屓にしており、実家の祖父母が遊びに来たときや家族の祝い事がある時に利用していた。直近では、茉由花の大学卒業祝い。最近の夜空にとっては、妹との違いを思い知らされる処刑台に等しく、この世で最も行きたくない場所のひとつだった。
最悪。
呟いて居間へ向かう。
「あ、お姉ちゃん!」振り返った茉由花の満面の笑顔。
隣に座っていた男が立ち上がって、夜空へ一礼した。
「工藤久助です。今後ともよろしくお願いします、お姉さん。茉由花さんから、よくお話は伺ってます」
「どんな話ですか? 口うるさいとか、鬱陶しいとか?」
工藤は肩を竦める。「美人だから会わせたくないと」
「そうですか」歯が浮きそうな会話。笑顔を保つので精一杯だった。工藤に座るように勧めて続ける。「茉由花とはどこで?」
代わって茉由花が答える。「私の会社の先輩」
「普通……」
今度はキッチンから母が応じる。「普通が一番よ。何事も普通が一番」
「母さんの言う通りだ」所在なさげに冷蔵庫を開け閉めしていた父がテーブルに着いた。「それで、久助くん」
「はい」工藤が背筋を正す。
父はしばし腕組みで沈黙し、それから言った。「君に娘はやれん……なんつって。これ言ってみたかったんだ」
「ちょっとお父さん、まだお茶も出してないのに」と母。
「えっと、それはつまり……」工藤は笑っていいのか戸惑っている。
「娘をよろしくお願いします」父は深々と頭を下げた。
母がこのためにデパートで買ってきた菓子を乗せて茶を並べていく。夜空は、目の前で湯気を立てる茶を見下ろし、笑うことしかできなかった。文字通りの茶番だ。
顔を上げると茉由花と目が合う。一瞬で、無言のうちに言葉が交わされる。
妹の目線が「今どんな気分?」と訊く。
夜空は「最悪」と答える。
それからのおよそ二時間はさらに最悪だった。
茉由花と工藤、両親と夜空でタクシーに分乗すれば、父からお前も早く男のひとりも連れてこいと詰られる。母は普通の人でいいのよと繰り返している。父は商社の部長であり、社内競争を勝ち抜いて出世コースに乗ったエリートだ。母は短大を出て就職することなく専業主婦になった。両親にとっての普通は現代では浮世離れと言うのだ。だが、そう教えても暖簾に腕押しになるのは目に見えていたので、何も言わなかった。
工藤は、茉由花の会社の営業職だった。デザイナーである茉由花と組んで仕事をすることも多かったのだという。二七歳で、夜空より歳上だった。茉由花とは三歳差になる。「最近は晩婚化と聞くが」と父が言うと、「僕は家庭を持ちたい気持ちが強かったんです」と工藤は応じる。襟足を短く刈り込みワックスで固めた毛束感のある髪型。シンプルだがいいものとひと目でわかるジャケットとスラックス。コーチのトートバッグを持ち、革靴はポールスミス。腕時計はアップルウォッチだった。あまりにもよくできた最近の清潔感のあるビジネスパーソンぶりに目眩がした。娘を持つ親が聞きたい言葉も卒なく言ってみせる。どこにでもいそうでなかなかいない男を、よく見つけて捕まえてくる。茉由花の嗅覚に拍手を送りたくなる。もちろん皮肉で。
割烹の料理は味がしない。自慢だという富山だか金沢だかの日本酒ばかり飲む。
工藤は、母とは住む家や実家のこと、子供にさせたい習い事の話をしている。
「何か音楽とか、いいと思うんですよね」
「素敵ねえ。そういえば知り合いの奥さんがね、お孫さんがピアノを習われてるんだけど、発表会に着ていく洋服にお金がかかるって言っててね」
「ああいうのはレンタルではないのですか?」
「違うわよ。ばあばの服。毎回同じというわけにもいかないでしょう?」
「なるほど。思い至りませんでした」
「この子はお姉ちゃんのお洋服ばかり欲しがってたのよ。新しいの買ってあげるって言っても聞かないの」
「もう、お母さんそれ何年前の話? お姉ちゃんもなんとか言ってよ」
適当に応じて、日本酒を飲む。仕事で安酒を嫌というほど味わったせいか、お酒の質の良さだけはわかった。
そして工藤は、父とは、卒業した大学のことや仕事の苦労話、それに車の話をしている。
「表に停められてた車、最近のモデルですよね」
「ディーラーの営業がうるさくてね。試乗に来い、お見積りですとやかましいから、契約してしまってね」
「私がディーラーでも同じようにすると思います。大事にすべきお客様ですから」
「どうせ売上ノルマが欲しいだけさ」
「いえ、彼らは人を見ていますよ。僕の学生時代の友人が最近BMWを買ったんですが、最初に試乗に行ったときはカタログもくれなかったと怒っていました」
「大学はどこを?」
「早稲田の政経です」
「私は商学部だった」
「先輩ですか。嬉しいです。これも縁ですね」
「ちょっとお父さん、応援歌とかやめてよ? この人、酔っ払うとすぐに歌うのよ」
そして宴もたけなわといった頃。
夜空はトイレに立った。わざとらしく少しよろめきながら。
個室でツイッターのダイレクトメッセージとナクヨムのダッシュボードを確認する。こんな時に限って、珍しく過去作品にレビューがついている。誰かと思えば、儀武だった。ツイッターには七尾ユウから気楽なリプライが飛んできている。一〇秒で返信する。
長めの時間をかけて、用を足して出てくると、案の定廊下に工藤の姿があった。
「お酒、結構召し上がられてたので、心配になりました。お節介でしたか」
「そうやって、茉由花もたらしこんだんですか?」
「敵わないな、お姉さんには」
「ちゃんとお話しておきたかったんです」夜空は書かれたレビューに目を通しながら言った。「あの子、あなたのことを特に愛してないと思いますよ」
「……どういうことです?」
「あの子は私が嫌いなんです。姉より早く素敵な男性と結婚したっていう実績が欲しいだけなんですよ。ぽーん、トロフィー獲得、それだけ。だから、素敵な男性なら誰でもいいんです。見栄と対面が保てれば。トロフィーワイフって言葉ご存知ですか? その逆ですよ、茉由花にとってのあなたは」夜空は、工藤が身に着けているものに順々に目を向ける。
「そうかもしれませんね。ですが仮にそうだとしても、茉由花さんを愛する気持ちは変わりません」
「勿体ない。好きになるだけ損ですよ。工藤さん、あの子と何回寝ました? 適当な理由つけて拒否された回数と、どっちが多いですか?」
「飲みすぎですよ、お姉さん」
「じゃあこれは、お酒の席の失言ですね」夜空はスマホの画面に目を落とす。「じゃあ、これも失言ってことで」
「これも?」
「私なら拒否しませんよ、久助さん」
工藤と夜空の目線が重なった。和楽器の店内BGMがやけに大きく聞こえた。
工藤が詰め寄ってくる。一歩。二歩。夜空の背中が壁に当たる。
夜空の手首を工藤が掴み、スマホを取り落とす。そして工藤の顔が夜空の耳元まで近づき、言った。
「知ってますよ」
「え……?」
「大半の運命に恵まれない人間にとって、愛は打算の追認であり、結婚は人生の損切りです。僕も、茉由花さんも。それともあなたは、恋愛小説のような運命を信じているんですか?」
「まさか。信じてませんよ」
「なら、僕があなたを拒否します」
工藤の身体が離れ、夜空が取り落したスマホを拾い上げる。
画面が消えていなかった。ツイッターのホーム画面が表示されていた。
慌てて奪うように受け取る。
「……見ました?」
「何も見ませんでした。……先に戻ってください。家族水入らずで、僕の批評に忙しいでしょうから」
トイレへ行こうとする工藤。一礼して踵を返す。その時、工藤が「お姉さん」と夜空を呼び止めた。
「二回です」
「何が?」
「これまでのセックスの回数ですよ。僕と、あなたの妹の」
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