4.碧月夜空/地獄めぐりみたいな執筆遍歴
今となってはただの馬鹿な高校生の愚かな憧れだったが、心理学に興味があった。人の心の動きさえわかれば、どんな場所でもどんな相手でも優位に立てると思った。心理にこそ人間の本質があり、自分が本質を知ればこちらの本質が知られることはない、という、未熟と臆病と強がりから来る妄想。だが、臨床心理士はなりたい人間がやけに多く、その割に求人は少なく、激務かつ薄給で、しかも高い倫理観や使命感が必要とされる。世の求人の大半は、大学の文学部心理学科卒で埋まってしまい、彼らでも、普通の企業の総合職に就職することが多い。
では、心理系の専門学校の卒業生はどこへ行くのか。
スキルがあってもそれは世間で特に必要とされていないから、人が足りていないところへ充てがわれるのだ。飲食。接客。介護。心理を学んだことの言い訳はいくらでも思いつく。食事を召し上がるお客様の心理に寄り添ったサービスを。お客様心理を理解しニーズに合った提案をできるスタッフになりたい。入所者様の心に寄り添う介護がしたい。全部、心にもないことだ。採用する方だって、心理学を学んだ人間のスキルが自分の職場で活かせるとは思っていない。誰でもいいから若くて動ける人間を採用する理由を、学生の方が上手く用意してくれて、ありがたいと思っているに違いない。
夜空にそれを教えたのは、専門学校の職員の男で、佐々木という名前だった。夜空にとっては、高校時代の二、三回デートだけして別れた相手を付き合ったとカウントしないなら、初めての恋人だった。彼はよく、専門を出た女子学生の末路を語った。人影疎らな学校の談話室や、外出先で立ち寄ったカフェや、ラブホテルで。聞かされるたび、そんな彼女たちと自分は違うと思ったし、違うからこそ彼に大事にされているのだと感じた。彼の語ることは夜空の知らない未来の世界のことであり、知っていて教えてくれる彼がとても尊敬できる人だと思えたのだ。
二八歳だと聞いていたが、実際には三一歳だった。そして、既婚者だった。彼が語った女子学生たちの末路は、即ち彼がこれまでに適当におだてて乗せて抱いた女の子たちの話なのだと、程なくして気づいた。奥さんに言ってやる、と脅すと、彼は性行為中の写真を得意気に見せた。彼の股ぐらに顔を埋める自分の写真を見て、目眩と吐き気を覚えた。してあげたときは、確かに好きだったのに。
結局、奥さんには言わないと約束させられ、見ている前で写真を消させた。どこかにバックアップを取っているに違いないと疑い、それも消せと詰め寄ると、態度があるだろうと窘められた。したことの最低さは向こうの方が上なのに、立場はこちらの方が下になっていることが悔しくてたまらなかった。それでも、消してください、と頭を下げた。顔を上げると。にたにた笑った彼の顔があった。そして彼は、「もう一回ヤらせてくれたら消してあげるよ」と言った。
結局、佐々木にとって、奥さんに浮気がバレることは痛くも痒くもなかったのだ。だが夜空にとって、酷い写真がネットにばらまかれれば一生引きずる汚点になってしまう。つまり、対等ではないから、交渉にならない。きっと、奥さんのことも、専門のバカな女の子たちと同じように、怖がらせながら追い詰め、逃げ道をなくして隷属させているに違いないのだ。たとえば収入。たとえば子供。
頬を叩いてその場から逃げ出した。それを契機に、専門は中退した。卒業したところで、どうせまともな就職先もないのだ。何より、スマホの中に自分の裸の写真を隠し持ち、オナニーに使っているかもしれない男と、同じ空気を吸うと思うとぞっとした。とても耐えられそうになかった。たとえ彼が次の女の子に語る専門学校残酷物語の最新話にされたとしても、同じ空間を共有するよりマシだった。
退学すると、人間関係が消滅した。
LINEのアカウントには高校時代の人間関係が残っていた。だが、話しかけて何日でヤれるかの実験台にしてきた男子グループや、それを横で傍観しながら人をヤリマン呼ばわりしてきた女子グループと二度と関わるつもりはなかった。家に帰れば順調に大学に進学している妹がいた。どこにも居場所がなかった。
唯一の逃げ場が、小説を通じたネットの人間関係だった。だが、当時は夜空のジャンルだった少年漫画の女性向け二次創作は、原作の枯渇から蠱毒化が進行していた。原作の連載が休止されているからこそ、ファンたちは間の物語を埋めようとした。Aさんの原作解釈すごい、Bさんのキャラ理解解釈一致すぎるなどというやり取りの隣で、原作捏造だキャラ崩壊だの学級会が毎日のように開催されて炎上し、誰かがアカウントを消して転生していた。挙句の果てには、原作の今後の展開を狭めないための二次創作妄想ガイドラインなるものまで登場し、もう無理だと悟って夜空は活動を縮小した。リアルの多忙につき、という言い訳をした。
その代わりに、男性向けアイドルアニメの二次創作にのめり込んだ。
女性向け二次創作は、性癖のデパートだ妄想の玉手箱だと自称しておきながら、その実自由度が少なかった。パロをやるにもある程度の雛形があって、どんなアニメでも学パロや現パロ、年齢差パロなどは許されたが、逆に雛形のないパロは学級会で吊るし上げられた。キャラに原作と一切関わりない過去を足すなど以ての外だった。もちろん、そういうジャンルもあるにはあったが。
一歩足を踏み入れた男性向けは、その点完全に自由だった。突然殺人事件に巻き込まれてもいいし、片田舎で怪異に遭遇してもいいし、サイバーパンクな世界観の探偵になってもいいし、退魔アクションを始めてもよかった。キャラを不倫にハマる若妻にしてもいいし、恋愛依存症のサークラ女にしてもいい。むしろ自分の好きな自分だけの雛形にアニメのキャラを当てはめるような作風が多く、女性向けが長かった夜空には新鮮だった。
暇を使って文章を書き、バイト代をつぎ込んで同人誌を数冊作った。どれも百合パロだった。ツイッターに別アカを作り、他の同人作家やファンと繋がった。イベントにも参加して、何人かは親しい友人もできた。
だが、二年ほど経ったある日、匿名感想箱に変なメッセージが入るようになった。
《二次創作で自己投影してんじゃねーよ。お前のハナちゃん全部お前の自分語りだろ》
《キャラ使って自分語りを読んでもらって嬉しい?》
《読者の立場でコメントさせてもらいます。あなたのハナマキ同人誌はハナちゃんの人格を冒涜しています。たとえばアニメ六話で「ずっとみんな一緒ならいいのにね」というセリフがありますが、あなたの同人誌では「みんな一緒なんてありえない」というセリフをハナちゃんに言わせています。同人誌は原作に着想を得た自由な創作の場ですが、キャラの根幹を作るセリフをひっくり返すのはいかがなものかと思います。それが作品のテーマに沿っていて、必要不可欠であるならともかく、同人誌を拝読する限りは違うようです。あなたがハナちゃん(私はハナちゃんとは認めませんが)に言わせたセリフは、あなた自身の自己投影に過ぎないのでしょう。その証拠に、専門学校時代や高校時代の友達とは全く連絡を取っていないと飲み会で言っていた、という証言もあります。作品を、あなたの自己満足のために汚さないでください》
また、時を同じくして、ツイッターの方にもデフォルトアイコンとIDの使い捨てアカウントから似たような内容のリプライが届くようになった。中には、同人誌即売会の会場で盗撮したと思しき夜空の後ろ姿の写真もあった。こんな文言が添えられていた。
《@doew73xoms 8話のハナちゃん私服のコスプレ?自分をアニメキャラと同一視する痛い女一丁上がり~!》
意識したのは確かだった。持っている服の中からなるべくキャラの着ている私服に似たものを選び、ネットでキャラが着けているものによく似たバレッタを見つけて購入し、着けていた。だが、同一視、とは少し違う。推しイメージカラーの服を着たり、香水を着けたりするのと同じだ。その推しが女の子の姿をしていて、私服がアニメの中で描かれているから、推していることを表現するために似た服を着たのだ。
嫌がらせの主が誰なのかは、大体見当がついていた。そもそも、コメントを読んだ時点でイベント後の打ち上げに一緒に行く仲間だとわかる。証言がある、という表現でぼかしたつもりのようだが、参加者本人であることは明らかだ。『読者の立場でコメントさせてもらいます』の一文が続く文から浮いているので、後から読者ということにしようと思って付け足したのだと想像できる。つまりコメント者は同ジャンルの作者だ。そもそも、アニメ自体はメジャージャンルでも、その中の「ハナ」と「マキナ」というキャラクターの「ハナマキ」百合小説ジャンルとなるとマイナーになってくる。イベントで見る顔ぶれも大体同じだ。
心当たりもあった。メッセージが届き始める数日前にはイベントがあり、その打ち上げの二次会からの帰り道で、参加者のひとりからホテルに誘われたのだ。かなり年上の男性で、「倉田すずな」というペンネームだった。顔を見てみると確かにスーパーに並んでいる蕪に似ていた。本人の言葉を信じるなら、まだ彼が大学生で今ほど百合ジャンルが活発でなかったころから百合の二次創作を書き続けている、とのことだった。事あるごとに彼が至高だと信じている昔の百合作品の話をするので閉口していたが、彼は夜空の相槌を『わかってくれている』と受け止めたようだった。確かに、時間作って読みますねとか、読みたいと思ってるんですけど忙しくて、などという逃げ口上を使っていたが、あなたのお話はいつも面白くて私は心酔してあなたのおすすめを自分の一部のように思っています、と言ったつもりはない。
しかし、ジャンルは狭い。最大メジャージャンルのNLなら違うのかもしれないが、ジャンルというものはどこでも狭く、ハブになる数名をツイッターでフォローしてしまえばあとは二フォロー圏内でイベント参加者が全員カバーできてしまう。そんな狭い界隈では、人間関係のトラブルは致命的だ。解決するにはどちらかがいなくなるしかない。
そして夜空は、自分がいなくなることを選んだ。アカウントを消し、感想箱を消した。親しくなった「てるみん」「一ノ瀬ツカサ」というふたりの女性作家のLINEだけは残していたが、後日「てるみん」から真相が伝えられた。
いわく、感想箱に嫌がらせを送ったのは一ノ瀬ツカサ。彼女は倉田すずなに好意を持っているが、過去に拒否されたことがあるのだという。確かに、一ノ瀬は骨と皮と筋のように痩せていて、髪もぱさぱさしていて、そのくせ顔だけは脂ぎっていて、喋れば早口すぎて何を言っているかわからない。お世辞にも男性の食指をそそるとは思えない女だったし、その点では倉田に少し同情した。そして一ノ瀬は、倉田が夜空とふたりでイベント打ち上げの二次会会場から街へ消えたのを目にし、嫉妬に駆られて匿名で嫌がらせのメッセージを送ったのだという。
しかし自分語り、というのは、一ノ瀬ではなく倉田による夜空の作品への評だった。そして、彼自身は男性なので、女性が書いた女性キャラクターの描写への安全圏からの批判として、よく自分語りというフレーズを使う。
ほとほと疲れ果てた。礼を言い、もう戻る気はないとてるみんに伝えると、
《もし別ジャンルアカとかあったら教えて下さい。ハレさんの文章好きです》
と返ってきた。ハレ、というのは男性向けジャンルでの夜空のペンネームだった。碧月夜空の逆のつもりで、朝日ハレというペンネームを使っていたのだ。決して、「ハナ」というキャラ名に被せたものではなかった。
涙が出るほど嬉しかったし、百合ジャンルでやってきたことも無為ではなかったと感じられた。しかし、てるみんに別アカを教えることはなかった。
もしも、一ノ瀬とてるみんの立場が逆だったなら。
倉田に好意を持っていたのはてるみんで、嫌がらせ感想を送ったのもてるみんで、すべての罪を一ノ瀬に被せているのだとしたら。十分にありえる話なのだ。
もう書きません、本当にありがとうございました。
そう返信したスマホを放り出し、久しぶりに元の少年誌BLジャンルのツイッターアカウントを開いた。
相変わらず、どうでもいい配慮や自治の学級会が次々と流れてきた。しかし、よく見るとリツイートしているのは熱心なごく少数のアカウントだけだった。
ブロックした。かつてキャラ解釈を巡って褒め合い、二次創作の感想を送り合い、感想の長さを競い、乏しい供給からの無駄に長い妄想を垂れ流して妄想力のような曖昧模糊としたものでマウントを取り合った仲間たちのアカウントを、夜空は次々とブロックした。
学級会にあまり与しないアカウントは残した。そういったアカウントたちのうち、半数くらいはいつの間にか一般人に化けていた。日々の生活の愚痴や、商業漫画の感想をほそぼそと投稿したり。中には結婚して母親になっているアカウントもあって仰天した。残り半数は、別の新しいジャンルを見つけていた。そんな彼や彼女たちの中には、一次創作の小説を投稿している人もいた。
ずっと放置していたアカウントは、タイムラインを遡り気になったアカウントのホームを覗き見るだけでも楽しかった。そうしてウェブブラウザをスクロールしていた時、ダイレクトメッセージの通知があることに気づいた。
日付は半年前だった。送り主は「綾乃」というアカウントだった。
《@ayano_19990628 突然DMすみません。碧月先生の作品をずっと拝読していました。最近、ずっとアカウントが休止されているようですので、思い切ってDMしてみることにしました。先生は、もう書かれないのでしょうか。別PNで一次創作とかでしょうか。先生の一次読みたいです。ご結婚とかお子さんが生まれたとかでお忙しいなら忘れてください。いえそもそも返信とかいいです。とにかく、ずっと読ませていただいてて、碧月先生より共感できた寒アルはありませんでした。先生の寒アルは私のオンリーワンだったんです。それをお伝えしたくてDMしました。もしもこれをご覧になっていて、私の見つけられないどこかで活動されていたら、教えていただけると嬉しいです。私は一生碧月先生の読者です》
寒アル、とは少年誌BL時代に夜空がジャンルにしていたカプの名だった。
そして、一次創作、という発想は持ったことがなかった。目の前が突然晴れ上がったようだった。二次創作は、どうしても原作との関係から逃れられない。畢竟、原作をどう読むかはその人次第であるにも関わらず、読むという行為はあくまで個人的なものだから、解釈の差や軋轢が生まれる。そして、裾野が広いようでひとつの集落は小さいから、一度入った亀裂を逃がす先がないし、天狗になる人も出る。
一次ならすべてが自由なのだ。
そして少なくともここにひとり、原作で繋がっていなくても、読んでくれる人がいる。
それから一週間かけて、夜空は初めての一次創作小説を書いた。
ある中高一貫の男子校で、剣道部の少年Aとオカルト研究会の少年Bが、周囲とのすれ違いに悩みながらも、互いを離れたところにいる最大の理解者として心の距離を縮めていく。しかし、その仲の良さを面白がった周囲は、ゲイだと囃し立てるようになる。そして、オカルト研究会のBは本当にゲイで、Aのことが好きだった。からかいを苦にしたBは、剣道部のAにカミングアウトし、自分から遠ざけようとする。しかしAは離れないどころか、お前が苦しいなら、俺が一緒に死んでやる、と言う。そしてふたりは、校舎の屋上から身を投げる。
書き上げて、笑ってしまった。
かつてのジャンルだった寒アルは、孤高の剣士の少年と悪魔に魅入られた少年のカップリングだった。AとBはどう考えても寒アルの影響が濃く、ほとんど学パロのような内容だった。加えて、心中する。支離滅裂なエモーションによる心中ENDは夜空の得意技であり、そればかり書いていた。少年ふたりいれば手が勝手にBLにして心中させてしまうのだ。
書き上げてから、さらに一週間寝かせた。それから小説同人誌を出す時に使っていたテンプレートにテキストを流し込み、PDFにしてDMに添付した。
《@Yozora_Bluemoon 綾乃さん。DMとても嬉しいです。最近は、寒アルは全く書いていませんでした。リアルがずっと忙しくて……。でも、小説は少しずつですが、書いています。公募に出したりしていましたが、全然駄目でした。ネットには上げていません。全然ジャンルが違うので恥ずかしくて(笑) お恥ずかしながら、URLから一次BL短編がダウンロードできます。一年ほど前に書いたものです。これを最後に、BLからは引退です。私の読者でいてくれたこと、とても嬉しいです。本当にありがとうございます》
嘘だった。
少しずつだが書いているのは真実。公募には出していないし、書いていたものはBL読者からはあまり受け入れられるとは思えない、男性向けアイドルアニメの百合もの。だから、一般小説を書いて公募に出していると嘘をついた。全然ジャンルが違う、というのは、本音だった。一年ほど前、も嘘。自分の現在地を知られたくなかった。書き上げた作品を、今の自分の最新作と胸を張れるだけの自信が、夜空にはなかった。
返信はすぐに来た。
《@ayano_19990628 碧月先生! まさか返信いただけるなんて! 先生は私にとっての神です! しかも初出短編とか……死ぬ……》
《@ayano_19990628 むっちゃ最高です! やっぱり最後は心中……碧月先生すぎて涙が止まりません……》
それからもDMは数件続いた。熱の入った、長い長い感想。そこには、長さを競うような同人作家同士の謎のマウントの取り合いも、褒め合う義務に駆られたような言葉も、無駄に大げさな表現もなかった。感情を素直に表現しています、という体の定型文が重ねられた、素直さから最も遠い文章もなかった。自分だけの大好きな作品への素直な賛辞だけが溢れていた。
夜空や、ツイッターで絡んでいた他の同人作家たちが置き去りにしてしまったものを、彼女は持っていた。
綾乃さん、という彼女のアカウントも見てみた。Bio欄に「お酒の飲める17歳になりました」と書かれていた。二十歳になったばかりということだ。成人済腐、という定型文をあえて使っていなかった。その頃の自分はといえば、専門を辞めて百合同人を始めた頃だった。
彼女を失望させたくなかった。綾乃はきらきらしていた。あの頃のめり込んだアイドルアニメの美少女たちのように。
出来る限り丁寧なお礼の後に、返信を打ち込んだ。
《@Yozora_Bluemoon 実は、このアカウントを久しぶりに動かしたのは、一次で活動を再開しようと思ったからなんです。一次だからフィクシブじゃなくてナクヨムかなあ、とか、まだまだ考え中なんですけどね。もし始めたら、このアカウントで告知します。お気に召すようなものができるかはわかりませんが、読んでくれるととても嬉しいです》
《@ayano_19990628 絶対読みます!!!!!》
即答だった。そして、逃げられなくなった。
これが、碧月夜空が、今もナクヨムに小説を投稿し続けている、誰にも言えない一番大きな理由だった。
彼女は今も、一番の読者でいてくれている。BLや二次創作界隈のねっとりした人間関係に疲れた夜空は、女性向けの恋愛小説にジャンルを変えた。後宮もの。異世界召喚もの。年の差ラブコメ。幸いなことに、嫌な男性の経験だけは豊富だから、嫌らしい悪役の描写はいつも評判だった。そして、その悪役を痛快にやっつけて主人公を攫っていくヒーロー。年の差ラブコメは、年上の男性をあまりにも理想的に書きすぎたのか、男性読者から苦言のような感想を貰ったこともあった。そして綾乃は、いつでもいの一番に星3評価を入れてくれ、丁寧な感想も書いてくれた。
そして今、碧月夜空は、プロットを入力していたスマホの画面を落とし、喫茶店の椅子から立ち上がった。
「……よし」
気に入っているブランドの新作を見るだけのつもりが上下買ってしまい、少し落ち込みながらの帰り道の途中だった。
プロットは概ねまとまっていた。
ひょんなことから祖母の古物店を相続して経営することになった女子大中退の主人公が、壺に宿っていたイケメン付喪神と一緒に店を訪れる人のトラブルを解決する。いわゆるあやかしものには一定の読者がつくし、同ジャンルの書籍化作品も多い。タイトルは「桜見町あやかし探偵」と決めていた。
綾乃とのDMを読み返し、昔のことを少し思い出しながらの作業は捗った。入力している間、ナクヨムのダッシュボードを一度も更新しなかった。通知が増えていなくても気にならなかった。いい気分だった。
駅までの道すがら、横断歩道で立ち止まる間に、タイムラインを眺めてみる。フォローをすっかり入れ替えたタイムラインには、ナクヨムコンへの所信表明みたいなツイートや、早速プロットや本文の進捗を報告するツイートが並んでいる。
すると、突然斜め後ろから声をかけられた。
「お姉さん、モデルの仕事とか興味ありませんか?」
振り返ると、押しの強そうなツーブロックの、日焼けした男が立っていた。思わず舌打ちした。こういうのは、最初はモデルと言っているが、どうせアダルトビデオ出演者を派遣するプロダクションなのだ。以前、押しに負けてLINEを交換したことがあった。男がここに紹介します、という会社名を検索してみると、いきなり下着の写真を取られたとか面接のはずがAV撮影だったとか、脅迫されて契約書にサインせられたといった体験談が次々と出てきた。
にたにたと腰が低く笑う男。信号が青に変わり、できるだけ大股で歩き出した。
「……最悪」
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