2.七尾ユウ/更新頻度が高いだけ

 七尾ユウが小説を書き始めたのは、大学を休学していた頃だった。

 名前を何となく知っているから受験した大学の、特に動機もない文学部。入学してみて、テレビでCMを放送しているような大学は、そうしなければ学生が来ないのだと知った。単位を取らせることが目的になったおざなりな講義。出回る過去問。組織的な代返。試験の時は、大半の学生が机の下でスマホか何かで答えを調べている。でも教官は何も言わない。

 一年目は、過去問を手に入れるための友達ネットワークに必死に食らいついた。いじめられてばかりの中学、高校時代に戻るのだけは嫌だった。勉強するという選択肢は、既に失くしていた。だが二年目は、大して親しくもなく好きなものも嫌いなものも合わない連中にすり寄って友達として認めてもらうことに、疲れた。ノリについていけないことに謝りながら誤魔化し笑いする日々が、あまりにも苦痛だった。バイト。友達。飲み会。女。男。イベント。先輩。サークル。何もかも、疲れた。何より苦しかったのは、二言目には異性との交際経験のなさを誂われたことだった。

 一念発起して授業を真面目に聞こうと思っても、教官が何を言っているのかわからなかった。過去問は手に入らず、単位を落とし続けた。その頃から、本をよく読むようになった。活字を読み、知らない世界を知れば、広がり続ける自分の世界を満喫している同期の連中に、ひとりでもついていける気がした。彼らが考えるような正常な人間関係を構築できなかったことで生まれた自分の中の欠損を、埋められると思った。

 本を読めば、そこには他人の人生がある。百聞は一見にしかずとは確かに真実だろう。だが、千聞は一見に値するかもしれない。友達を上手く作れず、人間関係を広げられず、刺激を受けて自分の世界が広がる体験をできない代わりに、架空の人間の人生の物語を読み漁って、空洞を埋めようとしたのだ。

 どんなジャンルの本でも読んだ。書店の平台に並ぶ文芸小説やミステリ、文学、エンタメ文芸、ライトノベル。新書やポピュラーサイエンス、SFの類も読んだ。ある新人賞や文芸賞の受賞作品を端から順に読むようなこともした。

 そしてある時、文庫本に挟まっていた新刊案内の中に、新人賞の募集云々という文言を見つけた。

 書くとは、他人の人生のシミュレーションだった。普通の人は、他人との関わりの中で、他人の人生を自分の中に取り込んでいく。それができないから、代わりに人生を想像した。三ヶ月かけ、長編小説を書き上げ、新人賞に応募した。生まれて始めて、自分の意志で、何かを成し遂げた気がした。

 一次選考の結果は、賞の公式サイトで知った。七尾ユウという筆名があったことに歓喜した。成し遂げた何かが、誰かに認められる喜びを知った。同じ結果が載っているだけの文芸誌を購入した。二次選考も通過した。三次選考を通過して最終選考に残ると、出版社から電話が来るのだと、ネットの掲示板で知った。つまり、二次選考を通過したら、後はWebサイトや文芸誌より電話の方が早いのだ。

 掲示板には大まかな時期も書かれていた。

 その頃、大学に通わないことで、親と衝突した。あんな学校行っても意味ない、そもそも行きたいと思ったことはないと、ユウは親に怒鳴った。すると、お前が選んだ学校だろう、と言われた。ユウにしてみれば、それは事実と違った。特にやりたいこともできることもない状態で、大学くらいは出ろと親が言うので受験したにすぎない。大学・学部・学科も、自分にできる範囲で一番親の期待に応えられるよう、名前だけは知れているところを選んだ。確かに選んだ。だが、飢えて死にそうな人の前にパンを置いて、食べるか食べないかを選べと言われたら、食べるしかない。それは選択ではなく、選択の責任を持たせることが目的化した、この世で一番ずるい強制の形なのだ。

 母は泣いた。小さい頃はお父さんと同じお医者様になると言っていたのに、と呟いた。父は、冷たい目をしていた。恥晒しめ、とだけ言った。父は医者で、母は元看護師で、姉は薬学部の学生だった。ユウだけが何者でもなかった。

 大学は退学することになった。ユウは待ち続けた。そのうち応募した新人賞の公式サイトに、最終選考作の作品名とペンネームが掲載された。電話は鳴らなかった。

 それから自室に引きこもり、小説を読んだり書いたり、PCでゲームしたり。母にお願いだから働いてと言われ、近所の書店でアルバイトを始めた。しかし母は嘆いてばかりだった。その嘆きは時にやり場のない怒りとなり、母はヒステリックに叫ぶことが多くなった。そんな時、ユウを守ってくれたのが、姉だった。精神が不安定になっている母からユウを引き離し、PCが二四時間稼働している部屋まで連れて帰り、朝まで一緒にいてくれた。

 母にとって、アルバイトは仕事ではなかった。せめて働いて、と母が言う時、それはスーツを着てネクタイを締めて、髪を整えて、よく磨いた革靴を履いて出勤する人のことを指していた。そんな母と世間のずれを、姉はよく理解していた。ユウは悪くないよ、と言われて、アルバイトを続けていこうと決意した。

 しかしその矢先に、激怒した父の一声により、辞めることになった。父の考えによれば、いい歳の息子が書店でアルバイトしているとは恥なのだという。恥を晒している自覚はないのかと怒鳴られたが、恥ずかしいのは自分ではなく、自分が感じた恥ずかしさの責任転嫁をする父への幻滅が高まるだけだった。後で姉に聞いたところによると、患者のひとりから、駅前の書店で先生の息子さんを見たよ、と言われたのだという。

 それからは、ほとんど部屋の外に出ない生活になった。

 最初は、出たら恥だと怒鳴るのだろう、という、意地のようなものだった。だが、ひとりでいるうちに、かつて自分に向けられた冷たい目線や上滑りする言葉、ありとあらゆる疎外の体験が蘇ってくるようになった。あの時、こう言っていれば、ああしていればという妄想に取り憑かれ、いつの間にか数時間経っていることが続いた。そして、父に向けていた意地は、決して逆らえない父への恐れの裏返しに過ぎず、自分がただ誰にも理解されない自分だけの去勢を張っている二五歳の引きこもりになっていることに、唐突に気づいた。

 なぜだか突然に涙が溢れ出して止まらなくなった。最初の三次選考落ちから、いくつもの新人賞に応

募したが、一次選考すら通過しなかった。

 時間が必要だった。

 いつしか、活字を読み漁ることもなくなっていた。部屋に積み上がった文庫本の山は、いつの間にか成長を止めていた。

 小説を書くスピードが明らかに落ちていた。以前は一ヶ月で書けていた四〇〇枚くらいの長編に、半年かかるようになっていた。

 自分の中のストックがなくなったのだ、と気づいた。

 読むことと、書くことで、自分以外の人の人生を想像し、人と触れ合えないことで生まれた空白を埋めようとしていた。だが、書くものは自分の中からしか生まれ得ないのだと思い知った。そして自分の中身は人より薄くて浅く、有限だった。普通の人が他人との交流で無限に増やしていくのだろうストックが、ユウの場合は減る一方で、増えることがなかった。

 それでも、選考を通過した時の、自分が一生懸命になったことが評価された喜びが忘れられなかった。自分がやりたいことを自分が選んでやって、すごいと褒めてもらえたことが、小説を除いては、生まれてから一度もなかったのだ。

 そんな時に、ネット小説の投稿サイトの存在を知った。

 PCの前に座っていれば読める小説たちを、ユウは読み漁った。作者たちのツイッターアカウントを知った。自分のアカウントを作り、公募歴などを書いた。フォローを広げた。世界が広がった。ただPCの前に座っていても、他人の人生が見えることを知った。作家たちは、ツイッターに更新を告知し、投稿サイトの感想機能をだけでなく、そこにいるひとりの読者から感想を貰っていた。

 羨ましかった。そして気づいた。

 同じことをやればいいのだ。

 最初に書いたのは、クラス丸ごと異世界に転移し、学校で苛められている男子の主人公が運良く引き当てた最強のスキルでクラスを守り、率い、尊敬される小説だった。設定はプレイしたMMORPGやファンタジーもののラノベから適当に寄せ集めた。

 PVが回った。それだけで、誰かが読んでくれているという実感になった。感想が、レビューがついた。面白い、と言ってくれる人がいた。ツイッターのアカウントが、読者や他の作者からフォローされた。自分自身も、注目されるに足る存在なのだと思えた。

 だが、連載を続けていると、次第に話ごとのPVが減ってきた。ランキングに載ったのは最初のうちだけだった。次第に、更新しても固定の数人しか反応してくれなくなった。そうしている間にも、ランキング上位の作品が次々と書籍化していく。ツイッターのタイムラインには、書籍化の告知がしばしば流れてきた。ただの作者だと思っていたアカウントが、書籍化作家のアカウントになっていった。

 もっと読まれたい。反応が欲しい。その一心で、同じ作品を別のサイトに転載した。結果は同じだった。

 ナクヨムのアカウントを作ったのは、その頃だった。他の小説投稿サイトと違って、運営に大手の出版社が入っていたから、書籍化への導線がわかりやすかった。そうやってワナビたちを釣る戦略なのだとわかっていても、誘惑には勝てなかった。

 冬に行われる一大コンテストにも、第三回からは毎回参加した。一度だけ、読者選考を通過した。初めての長編を新人賞に応募したとき以来の選考通過だった。

 才能は、ある。

 少し運がないだけ。

 だから、少しでも人の目に触れるようにしなければならない。

 そう考えて、ナクヨムに移行してからは、とにかく毎日更新し続けた。でも頭の中では、逆のことも考えている。才能があるなら、運を引き寄せ、誰かの目に触れ、そして多くの人に読まれるようになる。ツイッターには、そう信じているのか、あるいは才能のある自分を演出しているのか、人の目に触れる努力をまるでしない人もいる。ユウのスタイルは、更新だけは毎日続けて、宣伝は控えめに、というものだった。自分の才能を信じていた。だって、初めて書いた長編小説で、三次選考まで通過したのだから。誰かの目に留まらなければ、おかしいのだ。

 反応が足りなかった。頭がおかしくなりそうになり、連載作品を増やした。最初のうちだけ多くの読者を獲得し、そしてランキングの海に沈んでいった。

 いつの間にか、人生のすべてがPVになっていた。日々のPVやいいね、コメントの通知でしか満たされなかった。眠る直前までPVを確認し、書籍化オファーが来る夢を見てまたホーム画面を更新した。

 父親が取っていた日経新聞に、ウェブ小説から書籍化して大人気になり、テレビアニメ化も大好評を博している作家のインタビューが載っていた。「たとえ一〇〇〇文字でも毎日更新し続けた」と書かれていた。

 ナクヨムのダッシュボード画面には、いつの間にか未完結の作品が一〇並んでいた。そのうち八つは、最後の更新が半年以上前だった。

 そんなある日、あるはてな匿名ダイアリーを見てしまった。


《俺が本当の限界なろう小説を教えてやる》


 というタイトルだった。

 いくつものWeb小説が面白おかしく、原則として作品を小馬鹿にする形で紹介されていた。スクロールしていくと、見知ったURLがあった。

 ユウ自身が、最初に小説サイトに投稿したものだった。こう書かれていた。


《いじめ描写だけやたらリアルななろう小説の代表格です。クラス丸ごと異世界転移で、カースト最底辺の主人公『マサヒコ』がチートスキルを手に入れていじめっ子と立場が逆転するのですが、とにかく描写のリアリティが圧倒的です。きっと作者は自分がされたいじめをそのまま書いて、小学校か中学校の頃の鬱憤を晴らしているのでしょう。なろうで。そして一〇行に一回は美少女に褒められます。マサヒコ様は最高です。マサヒコ様にすり寄ったその異世界での聖女や王女みたいな美少女が、元いじめっ子を指差して「汚い、触るな」「菌が移る」「仕草がウザい」「目がキモい」「臭い」などと言います。わかりますね~、女子ってなぜかそんな感じで結託しますよね。わかります。セリフが聖女じゃなくて完全にクラスの女子なのが最高です。私も増田でこんな文を書いている以上陰キャのひとりですが、『真の陰キャ』との格の違いを見せつけられました。ちなみに今はエタっています。この記事を書くにあたり、作者の現在を調べました。今はナクヨムで元気にやっているようです。マサヒコ様の続き書いてくれ~》


 マサヒコ様、はその小説の主人公の名前だった。中学生の頃、一年だけいじめられていない時期があり、その頃ユウの代わりにクラスの陽キャたちの標的になっていたのが、マサヒコくんだった。彼の名前を借りたのだ。

 最初からだ。

 最初から、自分の中の引き出しでしか書けていなかった。他人の人生を思い描くとか、書くことで人と関われない欠損を埋めたいとか、そういう願いを小説に託していた。だが出力されたものは、所詮底の浅い自分から生まれた底の浅い小説でしかなかった。その証拠に、この顔も名前も知らないネット小説読みの誰かに、全部見透かされていた。ユウ自身よりも正確だった。

 小学校や中学校の頃の鬱憤を、なろう小説で晴らしているだけの陰キャ。自分に徹底的に優しい空想の異世界で、いじめっ子を痛めつけて喜んでいるだけの、本当の人生の敗北者。意地を張って、これで勝ったと必死で思い込んで、埋められない人生の差から目を背けているだけのFラン大学中退ヒキニート。プライドだけは高くて、いつまでも三次選考落ちの、栄光にもならない栄光に縋りついている。

 違う。大学中退でも三次選考落ちでもない。

 高卒で、二次選考止まりだ。

 行き場のない感情に苛まれ、ユウは叫んだ。部屋の壁を殴りつけた。PCの前に戻って、最新作のPVを表示し、F5キーを押し続けた。PVは伸びなかった。再読込されるたびに、同じ数字が並んでいた。

 今も、その時のことを思い出すと、全く同じやり場のない感情が蘇ってくる。

 ツイッターを開いた。自分の作品名、七尾ユウというペンネーム、作品URLで検索をかけた。もう二〇回は見たツイートしかヒットしなかった。ホームに戻ると、ナクヨムを始めたあたりから相互フォローしているアカウントのツイートがRTで回ってきた。


《@yozora_Bluemoon 頑張って書いたものなんだから、読まれたいって思うのは普通のことだと思う! だから自作宣伝とかどんどんすればいいと思うし私もするしRTもする。せっかく繋がってるんだからふぉろわさんちの子もっと見たい!》


 もう数年相互フォローだが、この人に読まれたことはない。そのくせこの人は、みんなの作品をもっと読みたい自分を演出している。碧月夜空、というペンネームの中にいる人間のことが、なんとなく想像できた。要は、自分の作品をもっと読まれたいだけだ。私はふぉろわさんちの子が見たい、と先に表明する。その裏には、だから私の作品も見てください、読んでください、いいねしなさい、星レビューをしなさい、そうして私にとってのあなたの価値を証明しなさい、という圧力がある。相互も多いし、件のツイートにも多くのリプライがつけられている。作者間の交流が上手いのだ。どうせ、交流が上手いだけ。

 それでも、『読まれたいって思うのは普通のことだと思う』という一節だけは胸に沁みた。誰の胸にも沁みるような言葉を選んでいるのだとわかっていても沁みた。

 その時、部屋の扉がノックされた。

 食事の合図だった。部屋に引きこもるようになって、母は毎日決まった時間に扉をノックして、食事を置いていくようになった。最初は父と顔を合わせないためだった。今は習慣になった。

 気配を伺い、扉を開けた。お盆に載った食事を部屋に入れようとして、横に添えられていたものに気づいた。

 何かのチラシだった。全国引きこもりなんとか交流会、と書かれていた。明るい文言が目に飛び込んできた。


《社会とのつながり!》

《ひとりで悩まないで!》

《つながり、かんがえよう》

《こころは、もっと軽くてもいい》


 チラシを握りつぶして、食事をひっくり返した。ワックスのすっかり落ちたフローリングに味噌汁が流れていった。

「何だよこれ!」

 怒鳴り、飛び散った煮物を踏まないように大股で、母がいる居間へと向かった。

 ソファに座った母はユウの足音に身体を凍らせていた。怯えている。ならもっと脅せる。声を張り上げた。

「何だよこれ! 今更外に出ろっていうのかよ! 駄目って言ったの誰だよ! 恥だから出るなって言うから出ないんだよ! なんでこんなん持ってくんだよ、矛盾してんだよ! バカなんじゃねえのか!?」

「違うのユウちゃん。母さんね、少しでもね、ユウちゃんが普通になるきっかけになればって……」

「普通ってなんだよ! こうなったの全部そっちのせいだろ! バイトしてただろ! 辞めろって言ったの誰だよ、なあ、誰だよ! なんで今更こんなもん持ってくんだよ! 言い訳か? 言い訳したいのか? なんかしてるって言い訳が欲しいのかよ!」

「子供のために、何かしたいって思ったっていいじゃない。どうして? ねえ、ユウちゃん……」

「今更まともな親ヅラしてんじゃねえよ! あんたらが駄目だからクズで恥晒しのFラン中退のヒキニートなんだよ! 何もできねえなら、そもそも産むんじゃねえよ! はい子育て失敗、残念でした! お前の人生失敗! 自己満足に巻き込みやがってよ! ふざけんなよ!」

 潰したチラシを母に投げつけて、先程より広がった味噌汁を踏まないようにつま先立ちで部屋に戻る。すると、扉を閉めた拍子に、床に放り出されていた文庫本を踏んで、転んだ。

 唸った。床を何度も拳で殴りつけた。

 それから立ち上がって、PCの前に座った。腰が痛かったが、今日の更新分はまだ三〇〇字しか書けていない。

 その時、開きっぱなしだったツイッターに、見慣れたアイコンのツイートが表示された。


《@nakuyomu_official 第6回ナクヨムWeb小説コンテスト 開催のお知らせ》

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