第2話 お風呂と追憶
お風呂は魔法でできている。
汚れた肌を清め、傷んだ筋線維を癒し、凍えた頭を蕩けさせる。
特段魔力が込められているわけではないが、それを魔法と呼んでも過言ではないだろう。
――というのが、ぼくの持論だ。
「感謝します、お風呂を発明した人よ」
分厚いエプロンドレスを脱いでバスタオルを巻き、結露して曇ったガラス戸の前にマオは立つ。――ていると、すっぽんぽんのマーガレット嬢に「おっ先に~」と出し抜かれる。ガラガラと勢いよくガラス戸が開けられ、鹿のように軽やかにマーガレットが一番乗り。
「はしゃいでると滑って転んで死にますよ」
毒づくマオの心中にうらめしさは小さじ一杯分もない。そもそも、かの浴場はアンペイア家のご令嬢すなわちマーガレット専用なのだ。湯気で霞んだ先には水瓶を担いだ石像が佇み、足もとの湖めいた浴槽へと絶え間なく温泉水を注いでいる。贅沢が過ぎる。
当然ながら、ふつうメイドは主と入浴を共にはしない。たとえ付き人であっても、主が入浴している間バスタオルを持って立っているのがいいとこだ。
しかし、そこは自由奔放なマーガレット嬢、いっしょに入ってくれなきゃヤダ! の一言で常識をクシャポイした。
「なにしてるの~? マオもはやくおいでよお」
前も隠さず手を振る姿は、深い霧の森へといざなうイタズラ妖精のよう。
ただし、その胸は豊満であった。
「お風呂を発明した人の次に偉大だと、マーガレット様のわがまm……もとい、胸のデカ……もとい、懐の深さに感謝していたところです」
おかげで、他のメイドたちと、芋の洗い場と化した地獄で湯浴みせずに済む。
幸せを滲ませてマオは桃源郷へと踏み入る。お屋敷の脱衣所にも攻め込んだ冬将軍も浴場までは及ばず、ふうわりあたたかさに包まれる。ざぶんと飛沫を上げてヒップドロップで着水した主に続き、マオも片脚ずつ、ゆっくり浴槽に浸していく。気持ち良過ぎて身震いする。
「マオって猫耳なのにお風呂好きよね~」
「ジャンピング入浴するマーガレット様ほどではないですよ」
「またまたあ、しあわせ~~って顔に出てるよ♡」
「っ……獣人を猫といっしょにされては困ります。発汗だってするのです」
照れ隠しに早口になる。マーガレットはというと、うっとり微笑んでいて。
「濡れてるマオを見てると、思い出すのよねえ……出会った日のこと」
「その回想を聞くのは一〇〇回目くらいですよ」
「まあまあ、聞きなさい」
したり顔でマーガレットが揚々と語り始める。
あーあー、にびっ……鈍色の空の下ぁ、雨降りしきる首都のまちをぅ、屋根づたいに跳ぶ小さな影っ。にゃんこかおサルかデーモンか、いいや身なりはメイドさん。地上から追うは非情な役人、警ら隊だ。
トマレ! と伸びる袖付きの腕(かいな)、その掌から放たれる魔法の矢が天を衝き、空飛ぶメイドはひらりひらりと躱す、躱すぅ~~!
「ぜんぶ見てきたように言いますね」
「脚色は語りの華でしょーが」
こほんと咳払いしてマーガレットが声を詰まらせながら再開する。
まほっ……魔法の矢は躱せども、驟雨は躱せず、びしょ濡れメイド。やがて足を滑らせて、すってんころりん屋根から転げ落ち。路地で鉢合わせたのは美少女、あたし!
「盛りますね」
「事実でしょ」
目と目が逢った瞬間に、バチッと運命感じちゃった! 遮るように追手の警ら隊の前に立ち、美少女は言った――。
ざぱんと湯船から立ち上がり、感慨深げに、マーガレットはあの日の台詞を口にする。
「この子は、うちのっ、メイドです!」
豊満な胸を張り、艶やかな金髪を垂らしてヒロイックに宣言。
マオは湯船へ顔を半分沈ませて、ぶくぶく泡(あぶく)を噴きながら反駁する。
「もうその話やめましょうよ……」
「いーえ、むしろ末代まで語り継ぎます。本を出版するのもいいわね」
「やめろ」
「ちからずくで止めてみなさい」
「言いましたね。手加減しませんよ」
マオは両腕を広げ、めいっぱいの力で湯を掻く。超絶なパワーにより水流が発生し、マーガレットのバランスを崩す。うわあっ、と浴槽に沈んだマーガレットは、なぜか復帰して来ず。マオが心配し始めたところで、時間差で水中から跳び上がり、大きなアーチを描く飛沫でマオに攻撃っ、頭からびしょ濡れにする。
「……やりましたね……」
「まだまだあ~っ!」
マーガレットが魔法の詠唱をする。浴槽のお湯が竜巻のように渦巻いて立ち上がり、ドラゴンの姿を成す。水魔法のうちでも高等な部類にカテゴリーされるやつだ。
「お行きっ」と命じられたドラゴンはマオを呑み込まんと襲い、しかし、顎を捉えたマオのアッパーカットにより文字どおり霧散する。遅れてお湯の雨が降る。
「さっすが、あたしのメイド」
「お戯れが過ぎます」
それにつけても……。
二匹目のドラゴンを生成しようとしている主を制止し、マオは続ける。
「マーガレット様は、水魔法がお上手ですよね」
「天才美少女魔法士だもーん♪」
「そうやって見せびらかして、リッカー家のお株を奪うからですよ」
「うっ……」
魔法国家ナルマージにおいて、特に力を持つ「四摂家」と呼ばれる貴族のうち、リッカー家は水魔法をお家芸とする名門だ。同じ魔法学院に通うパルネ・リッカーから決闘を挑まれた経緯は、まさに水魔法の試験において、マーガレットが成績トップを譲らなかったからに他ならない。――もっとも、マオはそれでいいと思っているのだが。
(お小言はちょっとした仕返しだ)
ふふ、目を泳がせて、指先をつんつん突き合わせてる。胸が大き過ぎてお腹の前でやってるあたり、ちょっとムカつきますね。
「ま、まあ~~、パルネもさ、あした学院で会ったら許してくれるって!」
「どうしてそうなるんですか……マーガレット様、もしやサイコパスなんですか」
「だって決闘で勝ったでしょ!」
「潔い東方のサムライなら、そうでしょう。パルネ・リッカーはそうではありません」
「……アイシャに勝ったのはマオじゃん」
「それを言われるとつらい」
痛み分けということで口論を終え、また浴槽に浸かり、数分が経ち。
「正直言うと、あたしが魔法を得意なのって……コレのせいだと思うのよね」
先にお風呂から上がり、振り返ったマーガレットが、憂う視線を下半身へと落とす。右太腿の内側には小さな魔法陣が刻印されており、うっすら光を放っている。
「ほら、さっき魔法を使ったから反応してる」
「……」
魔法国家ナルマージでは、より強大な魔法を使えることが社会的ステータスに直結する。たまたま魔力が弱く生まれた子には、親心として、こっそり魔力増幅の入れ墨を彫ることもあるだろう。
(ただ、マーガレット様の場合は……)
確信している真実を口にせず、マオは代わりのことばを用意する。
「たとえそれが魔力を増幅させる刻印でも、魔法は、詠唱をもって魔力を操るセンスが最も重要なのです。誇ってください。天才美少女魔法士として」
「えへへ。マオって魔法の先生みたい」
「……魔法が使えない獣人の身であっても、マーガレット様の付き人として学院に通っておりますから。授業で最初に習ったことですよ」
「そうだっけ」
「ちゃんと授業を受けてください」
しょっちゅう舟を漕いでいるので、隣の席に座っているマオが叩き起こしている。もはや日常の風景である。それで成績トップなのだから、自称・天才美少女魔法士の肩書きもあながち嘘ではない。
「あしたはちゃんとするよお」
「毎日ちゃんとしろ」
「はあい」
なんだかんだ、明るく学院生活を語るあたり肝が据わっている。
パルネ・リッカーを決闘で負かしてしまったからには、リッカー家に追従する、いわゆるリッカー派の生徒たちと不可逆の決別をしたことになる。アンペイア家も四摂家ではあるが、マーガレットの性格から、子ぶんを作ったりしてこなかった。
(ぼくがマーガレット様を守らなきゃ。責任をもって)
意を決して主を見つめるマオに、マーガレットが歯を見せて笑う。
「背中は任せたぞ、相棒っ」
たのもしい我が主。
きっと明日も大丈夫だ。
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