第2話 落ちてゆく国
終わりの見えない真っ白な景色の中をひたすらに墜ちていく。耳元ではびゅうびゅうと風を切る音。古ぼけたコートがばたばたと暴れる。
雲が切れ、途端に緑の大地が目に飛び込んでくる。沈みゆく太陽。夕闇に溶けつつある地表では、いたるところで火の手が上がり、街々からは黒煙が立ち上っていた。
「いかにも終末という感じだ……」
ベルペトは降下中の体をくるりと一回転させ、赤と黒が混じりあってグラデーションしている空に漂いはじめた。
空の世界で覗いたとおり、大きな城とそれを囲むように重なり合う街からは、跳びかかる兵士の怒号、金属が弾き合う音、引き裂かれる市民の悲鳴、人外の低い唸り声が上空まで響きわたり、一層騒がしかった。
燃える街を見つめていたベルペトは戦場と化した地へするすると降りていった。
石畳の舗装が剥げた街道へ着地した彼は周囲をぐるりと見渡した。彼が降りた場所は、もう戦いの中心からは外れていて、遠くから聞こえる誰かの叫び声がむなしく反響するのみだった。
露店の立ち並ぶ買い物通りだったはずの一帯は、潰れた果物が散乱し、街路樹は倒れ、ベンチはひしゃげて尖った木面を露出させていた。あちらこちらから漂う嫌な生臭さが鼻を突き抜けた。ひっくり返った屋台には兵士や女性の体が微動だにせず重なり合っている。その無残な様子に、ベルぺトは胸をナイフで抉り取られたような感じを覚えたが、それもすぐ忘れてしまった。
「森はこの街からずっと北の方だ」
そう言うと、彼は軽く膝を曲げて、飛び上がった。コートをぱたぱたたなびかせながら3階建ての家の屋根を越え、すっかり暗くなった空を昇っていく。彼の影が沈みゆく城と重なり、そして遠ざかっていった。
夜の空をしばらく駆けていくと、地平線を隠すように茂る深い森が現われ、その手前には小さな集落が構えていた。ここはどうやら、魔物の襲来から逃れたようで、家の外にはまばらに村人たちがいて、民家の窓から漏れる光を片身に浴びながら、ランプと剣を手に外敵の影に目を光らせていた。
ベルペトは村の隅に立つ木造の家の屋根の上へ、音を立てずに降り立った。煙を吐き出す煙突から話し声が漏れていたので、彼は煙突のそばでかがみ、聞き耳を立てた。
「お兄ちゃん、大丈夫かな。お城には、こわいおばけがいっぱい来るんでしょ。ケガとかしてないかなぁ」
小さな女の子の声だ。どうやら、兄が義勇軍として城を守るため、ここを離れているらしい。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんなら無事に帰って来るよ」
女性、おそらく母親がはきはきとした調子で答えた。あまりにはっきりと断言するのは、彼女自身が抱く不安を直視したくないからだろうか。少なくとも、幼い子供の前ならば、親は誰だって「無事だ」と笑顔をつくるものだ。
「女王様が招いたあの人が、何とかしてくれるさ」
あの人。おそらく、この世界に召喚された転生者のことだ。
「あの人、すごくつよいんだよ。メル、このまえ森でまよって、こわい犬におそわれたら、助けてくれたんだよ」
メル、というのがこの子の名前だろうか。転生者も、こちらの世界に来てからずっと一人で森の奥の小屋に閉じこもっていたわけではなさそうだ。
「メル、また森に入ったの?あそこには一人で行くなってあれほど言っただろう!」
ごちん、と鈍い音がして、女の子は泣き出した。
村の外、南の方角の空をふと見上げる。彼方に見える城は赤く燃え上がり、夜の闇の中で光り輝いていた。村を巡回している男たちも足を止めて、遠い地で繰り広げられているはずの惨劇を、じっと黙って見つめていた。
ベルペトは森の方へくるりと振り返った。
戦場から程遠い森の中は、黒くて頑強な幹の針葉樹が密集して昼も夜も暗い。厚く艶のある葉が天井を覆い、その隙間から月の光がまばらに降り注いでいる。
村のはずれにある薪割り場から入ってしばらく進むと、小さく開けた空間に安い造りの小屋がぽつんと佇んでいた。
窓から差し込む月明かりが、小屋の中をぼんやりと照らす。膝を抱えて小さくなった男が中に一人。足元には小振りの剣や盾が散らかっている。
外で鳴く野鳥の声だけが聞こえてくる静かな室内。しかし、
ゴンゴン!
と入口の戸を叩く音。男の心臓は凍りついた。
ゴンゴン!
「来るな……!」
震える男の声。目一杯叫んだつもりだったが、縮こまった喉で発声した台詞は入口まで届かず彼の手前でぽとりと落ちた。
彼の意志に反し、小屋の扉はゆっくりと開かれた。
「あなたがなぜこんなところにいるんですか」
空いた扉から光の筋が伸びてきて、男の目が眩む。入口に立っている人物は、顔に影が落ちていて男には誰だか分からない。
「フユキカケル、でしたね」
侵入者は古い木の床を軋ませながら近づいてくる。
「誰だ!俺に近づくな!」
男――フユキカケルは小屋の隅へ這いつくばって逃げる。剣を両手で握りしめ、震えながら先端を侵入者に向けた。
「それを向ける相手は私ではないでしょう。それはあなたもよく分かっているはず」
切っ先を向けられても相手にしない侵入者の姿が差し込む光に照らされて露わになる。短い金髪の、碧い目をした若い男。
「――!」
「お久しぶりです。あなた方に二度会うことは、基本望んでいないのですが」
相手がベルペトだと気付いたカケルは歯を食いしばってうつむき、力なく剣を落とした。
「城が燃えています。あなたは今、あそこにいるべきではないのですか」
「……そんなこと、分かってる!」
カケルは壁を思いっきり殴った。
「ではなぜ」
「無理だったんだよ最初から!俺みたいな普通の人間があんな化け物と戦うなんて……」
拳がずるずると壁をなぞって落ちる。
「あなたは確か、こちらの世界に召喚される時、剣の達人にしてくれと言いました。そして我々は間違いなく、あなたを剣の達人として、この世界に転生させたはずです」
「はッ!笑わせるなよ、何が達人だこの野郎。そんなやつが、何でこんな痛い思いをしなくちゃならないんだよ!」
ベルペトは彼の右腕をちらりと見た。二の腕に包帯が厚く巻かれていたが、じんわりと血が滲んでいた。カケルがさっきまで座り込んでいたベルペトの足元には、真っ赤に染まった包帯が散乱していた。
「なるほど。あそこから逃げてきたわけか」
ベルペトの声色にはどんな感情もこもっていなかった。
「うるさいペテン師。人をだましやがって。こんなところ来るんじゃなかった」
「この国は長いこと争いが起きていなかった。人々は戦いを知らないのです。まともに魔物たちに立ち向かうことが出来るのは、あなた以外いないのですよ」
「うるさい。俺だって戦ったことなんてない。この国がどうなろうが関係ない。もうほっといてくれ」
「……そうですか」
ベルペトは少しの間、下を向いたままのカケルを見つめていた。そうしてから、先ほどより重い足取りで小屋から去っていった。
一本の針葉樹のてっぺんにベルペトは立って城の方をぼーっと眺めていた。
上空。雲の隙間から、何か小さなものがゆっくりと落ちてきた。ふらふらと動き回りながら、それはベルペトの近くへ寄っていき、そして肩に乗った。ぴよぴよと鳴くそれはどうみてもひよこだった。
「ベルさん、とりあえず三人、目ぼしい奴らを捕まえましたよ。早速送り込んじゃいますか?」
ひよこはフウトの声をそっくりそのまま再生した。その後はまたぴよぴよと鳴くばかりだった。
ベルペトは肩に乗ったひよこを手の甲に渡らせ、言葉を吹き込んだ。
「いや、まだいい。もう少し、様子を見る」
目をぱちくりさせていたひよこは、再び宙へ舞い上がり、ちいちゃな羽を忙しく羽ばたかせ、雲の切れ目へ潜っていった。
ひよこが見えなくなるまで見送ったベルペトは、懐から本を取り出した。日焼けした表紙をめくって目を凝らす。フユキカケルの召喚記録を遡っていた。
「担当はあいつか……」
「ベルさん、遅かったすね」
空の世界に戻ったベルペトをフウトが迎えた。彼の傍らで光る球体には、先ほどベルペトが立ち寄った街の光景が映し出されていた。
「フウト。例の国の転生者、フユキカケルのことだが」
「どうでした?」
「小屋に引き籠っていた」
「ですよね。あーあ、俺がせっかく剣豪にしてやったのに」
フウトは首の後ろで手を組み、口を尖らせた。
「あいつ元の世界でもろくに外にも出ずに、親のスネかじって家の中で遊んで暮らしてたんすよ。そんな奴がいきなり怪物の前に立ったところで、何もできないに決まってるっす」
「召喚の儀は、間違いなく遂行されたか?」
「当然」
フウトは本を取り出し、ベルペトの目の前に突き出した。書き込まれた文字を目で追う。
「能力ならいくらでも変えてやれるんっすけどね。結局のとこ、あいつらの元の性格までは、俺らじゃどうしようも出来ないっすから」
フウトはぱたんと本を閉じた。
二人の隣では、虚ろな表情の女王が、装飾華美な長い杖を天に振りかざす姿がむなしく繰り返された。
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