第1章 2話 救われる、ということ

「ありがとう」


私は最後にすべてに感謝した。幕引きに後悔はない、だが、残してきてしまう家族にだけは申し訳ないと思った。

地球が私を引っ張っている重力に従って、私の体は徐々に降下を始めた。


そのときだったーー


「おめでとう、合格」


その声と共に私の落下速度はゼロになる。

気がつけばまた、屋上の地面の上だった。

目をぱちくりと高速に瞬きする。どうして?

原因であろう彼を憎たらしく見上げた。


「何?」


「邪魔しないで」


彼はさも当然という顔をする。


「君は今落ちたんだ。もうその体も心も君のものじゃない。すべてを投げ捨てたんだから、それは拾った者が得てもいいよね」


このくさい台詞を真顔で言う辺り、この人は変人だと思う。

きっと、これが創作物なら私は『ありがとう。嬉しい』ってなるのかな?それなりに顔立ちの整ったインテリイケメンのような彼に助けられた、普通の女子なら嬉しいのかもしれない。でも、私は違う。邪魔をしたという事実だけ。


「何、その理屈。私を煽ったのは貴方でしょ」


「そうだね。でも煽られたからって、覚悟してない半端な人は飛び出せないよ」


彼は、私に視線を合わせるためにしゃがんだ。どうしてだろうか。彼の瞳はギラギラと何かの欲望を見え隠れさせている。その鋭さに、私は息をのんだ。


「君の望みを当てようか?」


望み?そんなもの、貴方が今邪魔したことだよ。何言ってるの?


「そうだなあ、存在証明すること……そうだろう?」


存在証明、そう聞いた瞬間身体中に電気が走る感覚を覚えた。目を見開く、口角がだらしなく下がって口をぽかんと開ける。


「僕なら、その手助けができるよ。どうする?僕のものになる?それとも、またここから飛び降りるのかな。もう下校時間も過ぎるだろうから、君をどれ程の人が認識するだろうか」


彼は柵の外へ視線を向けると、そう言って私の視線を誘導した。同じように私の瞳も下校している生徒へ向けられる。さっきまでは、笑い声や話し声がたえなかったのに、今は疎らだ。これじゃ意味がない。


「僕が、最高の幕引き舞台を用意してあげる。でもそれまでは僕のものとして、ついておいで」


「本当に?みんなが私を見てくれる?」


何故だろうか。彼の言葉には、重みがある。

そんなに歳の差もないだろう。でも、彼の言葉はまるで、言霊のように私のなかに入ってきて縛り付ける。


「君の一声に、すべての人が振り向く世界を見せてあげる」


さあ、立ってというように半ば強引に私の手を引き立ち上がらせる。


「僕は、達也」


彼は反対側の柵へ移動しながら、適当に名前を名乗る。校舎裏に何かをみつけたのだろうか、とても楽しそうな笑みが張り付いていた。


「私は……」


「名乗らなくていいよ。知ってるから」


彼の笑みの原因が知りたくて私も、反対側へ行く。彼の視線の先には、黒いバイクが停まっていた。そして、その隣には絵になりそうな煙草をふかせる青年がいる。

彼は、本当にそれはそれは小さな声で「あきら」と呼んだ。そんな声であんなに離れた人に届くわけないのに、と私は彼を見る。


ところがだーー


煙草を吸いながら、目ぼしい人を探していた目線が彼の呟きのあとこちらをばっちりと向いた。そして片手を上げて挨拶してくる。


「なんで……」


「簡単なことだよ。人間は高いところが好きなんだ。様々な場所に展望台をわざわざ作っている。見下ろせる場所を作るのは人間の本能だろうね」


彼は、バイクの青年に手を上げながら答えた。


「人間はね、元々狩りをしていた種族だ。獲物を的確にとらえつつ、自らは身を隠せる場所……つまり高いところに身を置きたいものだよ。特に見知らぬ土地では、ね」


彼の話しに私は釘付けだった。展望台をそんな目線で見たことなんてない。確かに言われてみればいたるところにある。当たり前のものの意味なんて、知ろうとしてこなかった。彼の話は、新鮮で、私を魅了した。


「こんな話が、好みならいくらでも聞かせてあげるよ」


「……聞きたい」


彼はまた、私と視線を合わせてくれた。今度の視線はさっきよりも穏やかでどこか、優しささえ感じられる。


「あきらが待ってる。行こうか」


彼の差し出した手を、私は迷わず取った。

これが私の幕引きを無理矢理後延ばさせた彼との出会いである。

私は、この出会いに人生を変えられた。彼から与えられるもの全てが魅力的だった、奇跡とさえ、思っていた。大学に入って、久美優結という友人と出会うまでは……。







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