杉ちゃんとグラナドス

増田朋美

杉ちゃんとグラナドス

杉ちゃんとグラナドス

今日はやっと、冬のにおいがしてきたというか、そんな気がする寒い日だった。やっと冬らしい日が来たねえと、みんなそういうことを言っていた。これでやっと、冬らしく、こたつにミカンを食べて過ごせると、世間では一般につぶやいている。滅茶苦茶であった日本の気候がやっと、日本らしくなったか、何て、皆そういうことを言っていたのであるが、そうなると、寒いから風邪が流行っていやだねえという人も現れていた。

「こんにちは。今日も寒いですねえ。もう、二重廻しなしでは、外へは出られませんね。いやあ、着物というものは、実に寒いものです。なつは涼しいんですが、冬はなかなか苦手ですね。」

そんなことを言いながら、ジョチさんが製鉄所に入ると、四畳半からピアノの音が聞こえる。それと同時に、マリンバの音を柔らかくしたような、不思議な木琴の音が聞こえてきた。はあ、またあの少年が来ているんだなとすぐにわかったジョチさんは、にこやかな顔をして、四畳半に行く。

「こんにちは。今日も、こちらへ来られたんですか。」

四畳半には、板谷薫君が、一生懸命バラフォンをたたいているのだった。其れを、水穂さんがピアノで伴奏している。二人が奏でているメロディは、一寸聞き覚えがあった。

「ああ、グラナドスですか。」

と、ジョチさんが言うと、

「ええ、薫君、水穂さんが弾いて聞かせた、グラナドスの詩的なワルツを気に行ってしまったようで、何度も同じメロディをたたいているんです。なんでもあの、第一楽章が気に行っているみたいで、何度も繰り返して水穂さんに弾いてくれとせがむものですから。」

と、隣にいた、カーリー・キュイが説明した。

「なるほどね。確かに、特定のメロディにはまってしまうということはよくありますよね。でも、あんまり何回も繰り返してやっていると、水穂さんの体によくありませんから、無理はしないでくださいね。」

とジョチさんが言うと、

「いいえ、せっかくだから、楽しんでやってもらいましょう。」

と、水穂さんは、そのままピアノを弾き続けるのであった。まったく、水穂さんも無理しないでやってもらいたいなとジョチさんは思うのであるが、水穂さんはまだピアノを弾きつづけるのだった。薫君は何度もやってくれてうれしそうな顔をしているが、水穂さんの体に考慮して、というのは難しいと思われる。

三回目に、詩的なワルツの第一楽章を弾き終えると、水穂さんは一寸せき込んでしまった。キュイは水穂さん大丈夫ですかと声をかける。薫君は、まだマレットを持っているが、演奏を止めることができた。それも、薫君にとっては大きな進歩だった。

「水穂さん大丈夫ですか、少し横になりましょう。」

と、ジョチさんが声をかけるが、水穂さんは、

「いえ、大丈夫です。このくらいでは。」

というがさらに、せき込んでしまうのであった。

「大丈夫じゃありませんよ。無理をしすぎですよ。素直に無理だと言って横になってくれませんか。」

ジョチさんがそういうとキュイも、横になってくれるように促した。薫君が、その有様を心配そうに眺めている。もしかしたら、他人のことを心配するという行為は、初めての経験だったのかもしれない。

水穂さんを布団の上に寝かせていると、

「おーい、いるかい。」

と、杉ちゃんが、やってきた。

「今日は、このおばさんが僕を送ってきてくれた。たまたまね、駅で知り合ってさ。製鉄所に行くんだったら、一緒に行こうということになってさ。」

と、杉ちゃんと一緒に女性が一人やってきた。まだ30代くらいの女性であるが、なんだかいかにも苦労人という感じの表現がぴったりの女性である。

「あれ、薫じゃないの。どうしたの?」

と、彼女はそういうことをいった。

「あの、薫君のご家族の方ですか?」

とジョチさんが聞くと、

「ええ、板谷と申します。板谷繭子です。薫の母親です。」

と、彼女は言った。

「偶然ですねえ。薫君のお母さんが、こんなところに来てしまうなんて。ああ、事情をお話しますと、なんでも、ご主人を事故で無くされまして、お母さま一人で薫君を育てているそうなんですが、薫君は、誰かが常に見ていないといけないんですよ。それでは、仕事ができないということで、私が、あずかっているんです。」

そういうことをいった彼女に、キュイが説明した。はあなるほど、とジョチさんは、彼の説明を聞いたのであるが、それにしても実の母親がやってきたというのに、薫君がマレットをもって茫然としているだけなのは、なんだかおかしいとおもった。薫君のような年齢の子どもであれば、お母さんが来たとなれば、其れで大喜びするはずなのに。喜ぶ顔もしないし、うれしそうな顔もしない。

「一体、何をなさっているんですか。お仕事は。」

と、ジョチさんが繭子に聞くと、

「ああ、タクシーの運転手さんだよ。僕がたまたま、駅でタクシーを呼び出した時に、彼女が来てくれただけで。」

と、杉ちゃんが答えた。

「それを、いつまでされているんですか?」

ジョチさんが聞くと、

「ええ、実は夜勤もやっているんです。風俗とは関係のない仕事で、資格もあまり必要のない仕事となりますと、タクシーの運転手しかなかったんです。まあ確かに、風俗では収入は得られますが、でも、この子がいますでしょ、だから、そういう仕事はしたくないんですよ。」

と、繭子は答えた。

「そうですか。確かにお母さん一人で、子供さんを育てるのは大変ですからね。それでキュイさんのもとへ預けているというわけですか。」

ジョチさんはマレットを握りしめたままの薫君を心配そうに見た。

「薫君、本当にお母さんとわかっているのでしょうか?」

と、水穂さんが布団に横になったまま、心配そうに聞く。

「確かに、単に金の製造マシーンとしか見てないと思われているんじゃないの?」

と、杉ちゃんは言った。そういう風に飾りをつけず、用件をいってしまう杉ちゃんの一言で、その場の空気が一寸変わったような気がする。一寸、四畳半の空気がおかしな雰囲気になった。

「杉ちゃん、其れは、」

とジョチさんは言うが、

「いや、こういう場合は言っちまった方が良い。お前さんは、この少年にとって、単なる金の製造マシーンで、お母さんでも何とも思われていない。この少年の態度を見ればすぐにわかる。だって、お母さんがこっちへ来たのに、うんともすんとも言わないし、表情一つ変わらない。そんな親子何てあると思う?そうだろう?」

と、杉ちゃんは、にこやかに言った。杉ちゃんの顔はにこやかなままだけど、その内容は結構きつい言葉で、其れは非常につらいセリフだという顔をしている。

「つまり、薫君は、お母さんのことが嫌いということですかね。」

と、ジョチさんは、杉ちゃんの言葉を受け継ぐように言った。

「いくら生活のためとはいえ、他人に子供を預けて、一日中家をあけたままでいるなんて、確かに不自然とは、私も言ったんですが、どうしてもだめだというんです。保育園も定員がいっぱいで預かってくれるところもないそうですしね。まあ、今の世情じゃしょうがないということは確かにそうなので、僕が預かっているんですが。でもね、いつまでもこの生活は確かにしないほうが良いと思いますよ。」

キュイは、大きなため息をついた。

「そうですね、、、。申し訳ありません。でもほかにできそうな仕事がないんですよ。今更医療関係の資格を取る暇もないし、、、。」

繭子は、頭を垂れて、そういうことを言っている。

「医療関係じゃなくてもいいからさあ、せめて夜何て働くのやめてさ、夜は、しっかり薫君と一緒にいられるような仕事を探したらどうなの?」

と、杉ちゃんは、腕組みをして、そういうことを言ったのであるが、答えは初めから出ているようなものだ。そんな仕事があるなら当の昔にそっちの方へ行っているはずである。

「そうですね、せめて日勤だけにさせてもらうとか、、、ああ、薫君の医療費で、そういうわけにもいかないのですか。」

とジョチさんは、一寸ため息をついた。

「でもだよ。このままじゃいけないって事は、薫君の今の態度でしっかり証明されているじゃないか。其れは、仕方ないで済ませる問題じゃないと思うよ。いつまでもキュイさんのもとに預けていたら、必ずどっかで問題が浮上するぜ。普通の子ならわからないことまで、わかっちゃうってこともあるからな、こういうやつは。」

と、杉ちゃんが、頭をかじった。

「ええ、確かに杉ちゃんの言う通り、それは問題としてしっかり提起されています。実の母親を認識できないのは、親子関係において、大問題です。」

「そうですね、、、。」

繭子は、小さな声で言った。

「本当は、解決法があるって、私の母が、言ってくれているんですが、私、母の言う通りにすることがどうしてもできなくて。」

「はあ、解決法って、どういうことだ?」

と杉ちゃんが聞くと、

「ええ、母が、お見合いを勧めてくれているんです。相手はこっちで探してあげるからというんです。でも、私は、そういうことは、自信がないというかなんといいますか、、、。」

と繭子は答えた。

「お見合い?」

杉ちゃんが返答すると、

「ええ。母が、親戚の中から見つけてきてくれたそうなんです。今度は、仲人さんも立てて、ちゃんと結婚しようっていうんですよ。前回は、そういう手順をちゃんと踏まなかったから、うまくいかなかかったって。母は、冠婚葬祭とか、そういうことにおいては、ものすごくうるさい人で、私はそれが嫌で、母のところを飛び出したんですけど、、、。」

繭子は、そういうことを話し始めた。

「ちょっと待て、現在と過去を混同させちゃいけないぞ。お前さんは、お母さんと何か対立しているわけだね。その対立の要因を一寸話してみてくれないか。」

と、杉ちゃんが、繭子の話をまとめ始めた。

「ええ、母は、昔から、親せきづきあいとか、そういうことを大事にしていた人だったんです。何かあると、すぐに親戚に報告して、親戚と分け合うというか、そういうことをすごく一生懸命やっていて、私はそれがどうしてもいやで。其れで、私は、高校を出たら、すぐに母のところをとびだしてしまったんですよ。なんか、あの時は、私が周りのひとに管理されているように見えちゃいましてね。どうしても、自分の意志で歩きたかったんです。」

「はあ、なるほど。其れで、最初の結婚はいつだったんですか?」

と、ジョチさんが聞くと、

「ええ、高校を出て、資格は普通免許しかもっていなかったので、二種免許を取り直して、タクシー運転手をしました。其れで、タクシーに乗ってきた、お客さんと結婚しました。会社員の方だったんですけど、幸せな生活でした。数年後に薫が生まれて、彼はさらに仕事を頑張ってくれたんですが、仕事中に、交通事故に巻き込まれてしまいまして。」

「はあ、なるほどね。其れでお前さんは、その前のご主人を忘れられなくて、再婚もせず、一人で生きようと思っているわけか。」

杉ちゃんがそういうと繭子は黙って頷いた。

「でも、薫が、こういう障碍を持っていることがわかって、普通の子みたいに生活することはできないってわかったのは、主人がなくなってからだったんです。それで、私の母が、私に再婚の話を持ち掛けてきたんですけど、私は、どうしてもその気になれなくて。」

「そうだねえ。」

繭子がそう話すと、杉ちゃんは言った。

「そうだねえの一言では解決できませんね。僕はお母さまの発言に賛同すべきなのではないかと思いますよ。だって、こんな生活を続けていたら、間違いなく、薫君に悪影響が出てしまいますよ。あなたは、このままでいたら、杉ちゃんの言う通り、金の製造マシーンでしか見られなくなりますよ。そうしたら、思春期に問題を起してしまう可能性だってないとは言えません。今は、何も言わないからいいとか、そんな甘い考えはダメですよ。ちゃんと、彼のことを見てくれる存在をつくらなきゃ。それを手伝ってくれる人が必要なのなら、再婚した方が良いと思います。」

と、ジョチさんが杉ちゃんの話に付け加えた。キュイも、

「そうですよ。僕もそれは彼女に伝えたつもりなんですが、日本語というのは、なかなか難しくうまく伝えられませんでした。」

と、彼女に言った。

「でも私、お母さんの言う通りには。」

と、半分涙をこぼして泣く彼女に、

「泣いてはいけません。あなたは、一人で生きているわけではありませんから。其れをよく考えて行動してくださいね。」

とジョチさんは言った。

「まあ待て待て。お前さんが、お母さんの説明を聞かない理由も話してみろや。話した方が、きっと、すっきりするんじゃないの?」

と杉ちゃんが言う。

「ええ、私は、子供のころから、お母さんは、親戚づきあいの事ばかりで私のことは何も見ていないと思ってたの。だから、もし、私が結婚して子供を持つことになったら、お母さんの手を借りないで育ててやるってそう思ったのよ。其れで、お母さんには頼りたくない。負けたくないって、そう思って、一人で生きようと思って。だって、母ときたら、親せきのひとに私の事なんでも話すんですもの。其れで助けを求めて、なにもかっこいいと思わなかった。絶えず、親せきの子供さんと比較されて、本当にあたしは、いつもさらし者だって、そう思ってたわ。其れなのに、母ときたら、私の結婚のことまで、管理しようというんだから。今度は、家を飛び出して勝手に結婚ということはしないようにしよう、親せきの方に仲人さんになってもらって、薫に何かあったときは、手伝ってもらえるようにして、新しいお父さんになってもらうひとにも、それをわかってもらう人を選ぼうって、そういってくれるけど、私は、母に管理されて生きるのは、どうしてもいやで、、、。」

「管理されて生きるというわけじゃないよ。それは、お母さんがお前さんの事愛してくれているからじゃないか。お母さんは、お前さんを放っておけないから、親せきのひとに相談持ち掛けたんじゃないのか。そういう事だと思うけど?まあ確かに、なんでも話しちまうのは、嫌かもしれないけどさ、人間だもん、完璧な奴にはなれないさ。」

繭子が半分泣きながらそういう事を言うと、杉ちゃんは、そういうことを言った。

「まあ、一つか二つは、欠点があるもんだ。全否定しちゃだめだよ。お母さんのいいところは、ちゃんと踏襲して、その通りにしなきゃダメだい。」

「そうだけど、、、。」

繭子は、まだ納得できない様子だった。

不意に、薫君がよたよたと立ち上がった。すくなくとも、五年以上生きているはずなのに、まだ足がふらふらして、よちよちとした歩き方である。何処へ行くのかと思ったら、繭子の前を通り過ぎて、水穂さんのほうへ行ってしまう。繭子が目の前にいるにも関わらず、彼女の方に振り向くこともしない。布団に寝ている水穂さんに、もう一回ピアノをやってとでもお願いするつもりなのだろうか。繭子が、薫と声をかけても振り向きもしなかった。

「薫君、水穂さんは疲れていると思いますから、」

とキュイは言いかけると、薫君は、嫌そうな顔をする。

「お母さんのほうへ行ったらいかがですか?」

とジョチさんが言うと、薫君は、言葉の言えない顔で、お母さんって誰?と疑問符を描いたような顔をした。その顔がまさしく答えだった。確かに杉ちゃんの言う通り、繭子は金の製造マシーンでしかないのだろう。薫君にとっては。

「まあ、今だからこそ、キュイさんのもとにいられるのかもしれませんが、成長して、もうちょっと世の中のことがわかってきたら、きっと怒りの感情が込み上げてくると思いますよ。だいたいね、人間というのはそうなってしまうんです。お母さんが不在であるとわかったら、たとえそれが自分のためであったとしても、そうなってしまうことでしょう。お母さんが自分のために不在なのだとわかったら

、はいそうですか、と口に出して言うことはできないのが人間なんですよ。其れが、人間らしいんだという人もいるんじゃないのかな。」

ジョチさんは、このありさまを見て、心配そうに言った。

「このままだと、キュイさんや水穂さんが親だったらいいのになという気持ちと、お母さんは僕を捨てて、悪い人だという気持ちがわいてきてしまうと思います。」

それはきっとジョチさん自身がそういう気持ちになったことが在るから、そういうことが言えるのだろう。ちなみに、ジョチさんも幼い時、父親を亡くしていて、つらい思いをしたことが在ったのであるから。

「中途半端は結局みんなを傷つけるよ。徹底的にお母さんをやってやった方がいいよ。多少古いやり方は、古臭いかもしれないけど、それは我慢しろ。」

と、杉ちゃんに言われて、繭子はそうですね、、、と小さい声で言う。

やっぱり予想した通り、薫君は、水穂さんの腕を引っ張った。水穂さんは、はいはいと優しく言って、よろよろと布団から立ち上がって、ピアノの前に座った。薫君もバラフォンの前に座る。水穂さんが弾き始めると、薫君は、にこやかに笑ってバラフォンをたたき始めた。二人の息はぴったりだ。どこもずれていないし、しっかりとアンサンブルになっている。

「ほら、見ろよ。本当はお前さんがやってやらないとダメなんじゃないの?」

と、杉ちゃんが繭子の肩をたたいた。薫君は何回もグラナドスの詩的なワルツを演奏させた。やがて水穂さんの顔に疲れが見え始めた。薫君はそれでもバラフォンをたたき続ける。

「ほら、薫君を止めてやれ。」

と、杉ちゃんに言われて繭子は決断した。そして、一生懸命バラフォンをたたいている息子に、こう声をかけた。金の製造マシーンではなく、母親としてやっていく、第一歩となると願いながら。

「もうおじさんは疲れた顔をしているでしょ。終わりにしてあげましょう。」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

杉ちゃんとグラナドス 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る