……ありがとう。



 御彩芽みあやめ ちとせは、覚悟を決めていた。



 誰より感情的で、でも誰より冷徹に物事を考えるちとせは美咲から渡された本を読んで、本物の吸血鬼を人に戻す方法に気がついた。


 何より大切な想いを捨てることで、何より冷たい心に温かさを与えることができる。都合のいい奇跡なんて信じていないちとせは、その事実にどこか納得していた。



 だからちとせは、すぐに行動を始めた。



 忘れてしまうのなら、また思い出せるように。もう2度と思い出せないのなら、また今と同じように十夜のことを好きになれるように。


 今まで思い出を、日記に書いた。大切な想いを、メモに残した。自分に向けた、動画をとった。沢山送りあったメッセージを、全て保存した。



 今はもう、あの吸血鬼の物語の時とは時代が違う。今の時代なら想いや思い出を残す方法なんて、腐るほどある。だからちとせは、今日のパーティーまでありとあらゆる手段を使って、十夜との思い出を記録に残した。



 そうすればまた十夜を好きになれると、ちとせは信じていた。



「愛してるわ、十夜」



 だからちとせは何一つ憂うことなく、十夜の首筋に歯を立てた。






「…………どうして、よ」



 けれど……ああ。しかしそれでも、ちとせは十夜の血を吸うことができなかった。真っ白な首筋に、歯を立てた。あとは力を込めるだけで、血を吸うことができる。



 なのにどうしても、そのあと一歩が……踏み出せない。



「……違う。私はそんなに、弱い女じゃ……ない」



 震える手を隠すように十夜の背中を抱きしめて、また首筋に歯を立てる。……でもどうしても、血を吸うことができない。




 ──悪い。でも紅い瞳が、綺麗だなと思って。




 どうしてかちとせは、そんな言葉を思い出していた。今よりずっと、孤独だった頃。ちとせはよく公園で1人、空を見上げていた。そしてそんなある日、突然やって来た十夜がそんなことを言ってくれたんだ。



 その時のドキドキとした心臓の鼓動を、とても綺麗だった十夜の瞳を、ちとせは今でも覚えている。



 ……だから、気がついてしまう。いくら準備を整えて、いくら記録に残しても、肝心の心が消えてしまったら、もう2度と元には戻れない。もう2度と、あんな風に出会うことはできないと。



 そう気がついてしまったちとせは、我慢できずに熱い涙をこぼす。



「……ごめん、十夜。私……私、本当は怖いの。怖くて怖くて、仕方ないの。……こんな、こんなはずじゃなかったのに……。なんで? どうして! 覚悟はもう、決めてたはずなのに!」


 どれだけ叫んで、どれだけ泣いても、ちとせは血を吸うことができない。だからただ、悲しい慟哭だけが響く。


「大丈夫だよ、ちとせ」


 そんなちとせを、十夜は優しく抱きしめる。


「……違う。大丈夫なんかじゃ、ない! あんたにはもう、時間がないの。私がやらないと、ダメなのよ! ……きっとあの女じゃ、あんたを助けられない。だから私が、あんたを助けてあげないと……。そくらいしかもう、私にできることは──!」


「大丈夫。大丈夫だよ、ちとせ」


 事情を理解でていない十夜は、それでもちとせの様子を見て、何となく状況を理解する。ちとせはとても苦しんで、それでも自分の為に頑張ってくれているのだと。


 だから十夜は、とても優しい声でちとせに語りかける。


「お前が好きだった未鏡 十夜が、何を言うのか。今の俺には、それがもう分からない。けどな、ちとせ。お前がそんな悲しい顔をする必要なんて、どこにもないんだ」


 十夜は真っ直ぐに、ちとせを見る。……それでも十夜は、何も変わらない。ちとせはもうお面を被っていないのに、十夜は眉一つ動かさない。その事実がますます、ちとせの心を抉る。


「……嫌よ。嫌なのよ! 私は、大好きなあんたを殺してまで、生きたいだなんて思わない! この想いに応えてもらえないんだとしても、それでも……! 今までの楽しかった思い出まで、忘れて欲しくないの!」


「ありがとうな、ちとせ。お前の気持ち、凄く嬉しい。……お前がここで泣いてくれたことが、どうしてか凄く嬉しいんだ」


 もうずっと冷たいままだった十夜の表情が、一瞬だけ昔と同じように、優しい色に染まる。


「……好き。大好き。愛してる。私はあんたが、好きなの。あんたの為なら、死んでもいいって思ってる! なのに……なのにどうして、動いてくれないの!」


 手が震える。膝が震える。頭がぐわんぐわんと揺れて、真っ直ぐに立っていられない。涙が溢れる。胸が痛い。愛しくて悲しくて、なのにどうしてか……何もできない。


 ちとせはそんな自分が情けなくて、どうしても涙を止められない。



「ごめん! ……ごめん、十夜! 私はあんたの為なら、何でもできる気でいた。なのにこの想いだけは、捨てられないの……!」



「……そっか。その言葉が聞けて、よかった。お前が自分の心を大切にできる奴で、本当によかった」



 十夜は子供をあやすように、優しくちとせの頭を撫でる。ちとせはその感触が気持ちよくて、少しだけ身体から力が抜けてしまう。


 弱くて情けない自分を、晒してしまった。なのにその一瞬だけは本当に幸せで、だからちとせは……気がつけなかった。




 ……十夜の、覚悟に。





「────」



 首筋に、歯を立てた。



 ちとせの代わりだと言うように、今度は十夜がちとせの首筋に歯を立てた。そして十夜は一切迷うことなく、ちとせの血を……吸った。



「とう、や? どうして……」



 ちとせは必死になって、十夜を振り払うとする。けれど身体に力が入らなくて、上手く振り払うことができない。だから少しずつ、ちとせの中に沈澱していた冷たい呪いが消えていく。ちとせの心が、ゆっくりと人に戻っていく。


「痛い思いをさせて、ごめんな。……でも今の俺には、これくらいしかしてやれないんだ」


 倒れ込むちとせを、十夜が優しく抱きとめる。ちとせは薄れゆく意識の中、必死になって手を伸ばす。


「……とう、や……」


「ちとせ。お前なら、俺がいなくても幸せになれる。だから……頑張れよ」


「…………ばか」


 その言葉を最後に、ちとせの意識は暗い闇へと沈んでいく。


「……っ」


 その瞬間。十夜の頭に割れるような痛みと、同時に抗えない程の眠気が襲ってくる。


「……くそっ」


 十夜はそんな痛みと眠気を、思い切り歯を噛み締めて耐える。……ここで眠ってしまったら、もう2度と目が覚めない。そんな気がしたから。



「……ふぅ」



 そして、それからしばらく。何とか平静を取り戻した十夜は、いつかの時と同じようにちとせをお姫様抱っこして、自室のベッドまで運ぶ。


「……おやすみ、ちとせ」


 とても優しい声でそう言った十夜は、そのままスマホを手に取り、玲奈に1通のメッセージを送る。



『明日、デートしませんか?』



 するとすぐに、玲奈からの返事が返ってくる。



『分かりました。私も丁度、同じことを言おうとしてたんです』



 そうして、翌日。玲奈と……そして約束通り黒音を交えた、楽しい楽しいデートが始まる。


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