友達が欲しい。
少女が吸血鬼に友達になろうと言ってから、数日後。少女は今日も、吸血鬼の元へと向かっていた。
「……ふふっ」
少女は無意識に、笑みを浮かべる。少し前までは、こうやって歩いているだけで姉の顔を思い出して辛かったのに、今は不思議と笑えるようになっていた。
少女がいくら笑いかけても、吸血鬼はいつも冷たい瞳をしている。けれどそんな彼が、本当に一瞬だけその冷たさを崩すことがある。少女はその時の吸血鬼の表情が、好きだった。
「今日はどうやって、笑わせてやろうかな」
だから少女は楽しそうな声をこぼして、夜の闇を蹴飛ばしながら、いつもの洞窟に向かう。
「……どうして、あの短剣を使わない」
しかし、その途中。いつかの時と同じように、夜の闇から重々しい声が響く。
「また、お前か。……でも私は、吸血鬼の所になんて行ってないぞ!」
「……お前はあの鬼と仲良くできると、本気で思っているのか?」
声の主は苛立ちを孕んだ声で、そう告げる。
「そんなのお前には、関係ないだろ! 私は忙しいんだ! だからもう、どっか行け!」
「…………」
声の主は重苦しい息を吐いて、一歩一歩と足音を響かせる。その足音は少女の言葉に反して、ゆっくりと少女の方に近づいて来くる。だから少女は恐怖に堪えるように、ぎゅっと手を握り込む。
「……え?」
淡い月明かりが、声の主を照らし出す。その姿は声の印象とは正反対で、今にも倒れてしまいそうなくらい弱々しい男だった。
「…………私の、娘なんだ」
男は消え入るような声で、そう呟く。
「次の生贄に選ばれたのは、私の娘なんだ。だから頼む……いや、お願いします。私にできることがあるなら、何だってします。だからあの鬼を、殺してください。お願い……します」
男は一回り以上歳の離れた少女に、頭を下げる。
「そ、そんなこと言われても、知らない……。大体、どうして私に頼むんだ。私みたいな子供に、そんなこと頼んでも……」
「貴女だけなんだ。私のように娘を渡すまいとあの鬼に立ち向かった人間は、皆……殺された。でも貴女だけは、どうしてかあの鬼に気に入られている。だから貴女なら、あいつを──」
「うるさい! うるさい! ……うるさい! 私にはそんなの、関係ない!」
少女は現実から逃げるようにそう叫んで、一目散に走り出す。
「待ってくれ! 私にはもう、貴女しか──」
男は縋るように手を伸ばすが、その手が少女に届くことはなかった。
「はっ……はっ……」
少女は呼吸を乱しながら、必死になって走る。……少女だって本当は、気がついていた。人を喰らう鬼と人が、友達になれるわけないって。
「……でも、側に居たいって思ったんだよ。思っちゃったんだよ……」
少女だって、姉を殺された。その時の悲しみが、怒りが、なくなった訳ではない。……でも吸血鬼のあの寂しそうな顔を見ていると、そんな想いが霞んでしまう。
友達になろうと、少女は言った。
怒りも悲しみも飲み込んで、仲良くしようと。その選択に、後悔はない。けれどあの吸血鬼が人を喰らう姿を見ても、同じことが言えるだろうか?
「なんなんだよ、もう……」
少女には、分からなかった。
「……寝てる」
葛藤しながら走り続けて、気づけばいつもの洞窟にやって来ていた。しかしそんな少女に反して、吸血鬼は無防備な顔で寝息を立てていた。
「…………」
少女は懐から、毒が塗り込まれた短剣を取り出す。
今ならこいつを、殺せるかもしれない。例え殺せなくても、毒が回れば人の血を吸う力がなくなるかもしれない。
「もともと私は、こいつを殺しにきたんだ」
だから別に、構わない。こいつが苦しんで死のうが、最後まで1人ぼっちだろうが、そんなの自分には関係ない。
「……くそっ。何で手が震えるんだ」
カタカタと、手が震える。吸血鬼の穏やかな寝顔を見ていると、一緒に遊んだ日々を思い出す。……いつまで経っても冷たい奴だけど、でも全てが冷たく染まっている訳ではないと、少女はもう知っていた。
「でも私がやらないと、また……」
また自分と同じように、悲しい思いをする人が増えてしまう。……さっきの男のように、震えながら涙を流す人たちが、これからもいっぱい出てくるはずだ。
だから少女は、短剣を吸血鬼の首筋に押し当てる。
けれど、その刃が吸血鬼の肌を裂く前に、ふと声が響いた。
「──私を、殺すのか?」
声の主は確認するまでもなく、吸血鬼だった。
「……そうだ」
少女は歯の震えを隠すように、歯を噛み締める。
「ならつまり、友達だとかいう言葉はやはり嘘だったのだな?」
「……そうだ」
「…………そうか」
吸血鬼はそれだけ言って、また目を瞑る。
「……そうかって、なんだよ。なんなんだよ、それ! 私はお前を、騙してたんだぞ! 私はお前を……殺そうとしてるんだ! なのにどうして、そんなに簡単なんだ!」
「生きたいと思ったことなど、一度もない。……だから別に、死んでも構わん。その刃で私を殺せるのなら、やってみろ」
「な、なんだよ、それ……」
手が震える。心臓が痛いほど、跳ねる。涙が流れる。頭が痛い。そして何より……。
「できる訳、ないだろ……」
短剣が、地面に落ちる。少女は大声で、泣いた。悲しくて悲しくて。辛くて辛くて。泣かずには、いられなかった。
「……はぁ」
吸血鬼はそんな少女の姿を見て、最初の時と同じように小さく息を吐く。そしてそのままゆっくりと立ち上がり、少女が落とした短剣を拾う。
「これで、いいのだろ?」
少女が止める暇もなく、吸血鬼はその短剣で自らの首を切り裂いた。
「……は? な、何やってるんだ! お前!」
そんな吸血鬼の蛮行を見て、少女は驚きに目を見開く。
「貴様は私を、殺したかったのだろう? だから代わりに、してやっただけだ」
血を流しながら、吸血鬼はいつもの岩にもたれ掛かる。
「馬鹿じゃないのか! 私はお前に、死んで欲しかった訳じゃない!」
「でも、泣いていたではないか。私を殺せなくて、悔しいから泣いていたのだろう?」
「そうじゃない! そうじゃ、ないのに……!」」
少女は吸血鬼の胸に、縋りつく。……けれど血は、止まらない。
「貴様に泣かれては、うるさくて堪らん。だからわざわざ、こうしてやったというのに……どうしてまた、泣くのだ?」
「そんなの……そんなの、決まってるだろ! 友達が居なくなったら、嫌だからだ!」
「友達とは、嘘だったのだろう?」
「……違う! 嘘な訳、ないだろ! 私は……私はずっと……!」
理由はどうれ、少女の想いが吸血鬼を殺す。……吸血鬼にその自覚はなかったが、吸血鬼もまた少女を特別に思っていた。だから吸血鬼は、自らの首を切り裂いた。
そうすれば目の前の少女が、泣き止んでくれると思ったから。
だから……そう。このままいけば、物語はありふれた悲劇として、幕を閉じていたのだろう。
「……そうだ。毒を、吸い出さないと」
そう呟いた少女は、虚な目で吸血鬼の首筋に噛みついた。……その時はどうしか、あんなに硬かった吸血鬼の肌に、少女の歯が食い込んだ。そして少女はそのまま、吸血鬼の血を……吸ってしまった。
それは或いは、奇跡と呼べる出来事だったのだろう。
けれどそれは、誰も望んでなどいない奇跡だった。
「……え?」
少女がそう、声を上げる。
「……なっ」
吸血鬼もそう、声を上げる。
「……そうだ。こいつは、お姉ちゃんを殺したんだ。なのにどうして、私は……」
先ほどの涙なんて嘘だったというように、少女は吸血鬼から距離を取る。
「どうしてそんな冷たい目で、私を見る?」
そして吸血鬼は、いつもの冷たい目なんて嘘だというように、困惑した目で少女を見る。
「私のお姉ちゃんを殺した癖に、何を言ってるんだ! お前なんか、死んじゃえ!」
少女はそう叫び、もう一度、吸血鬼に短剣を突き刺す。吸血鬼は困惑しながら、痛みに堪える。
「どうして……。だって、友達だって、貴様は……」
けれど吸血鬼は、刺された痛みより胸の痛みに耐えられなくて、その場に倒れ込む。
「……お姉ちゃん。仇はとったよ」
少女は当たり前ようにそう言って、洞窟から立ち去る。
「……ま、待ってくれ。どうして、どうして貴様は……」
吸血鬼は消え入る声でそう呟くが、少女は足を止めない。だから吸血鬼は、冷たい洞窟に1人取り残される。
「なんなんだ。この胸の痛みは……」
短剣の毒が、身体中に回る。沢山の血が、流れる。……けれど残念ながら、吸血鬼はその程度では死ねない。いくら血を流しても、どれだけ毒に冒されても、本物の吸血鬼はその程度では死なない。
……でも、胸が痛んだ。
少女の太陽のような微笑みを思い出すと、胸が痛んだ。少女のあの冷たい瞳を思い出すと、胸が痛んだ。何百年も平気だった孤独が、唐突に胸に突き刺さった。
それこそまるで人のように、どうしようもない孤独が、胸に痛んだ。
「……そうだ。どうせまた、あいつが来てくれる」
あんな冷たい目は何かの間違いで、自分を刺したのも気が動転していたからだ。
吸血鬼はそう自分に言い聞かせて、目を閉じた。
「…………」
けれど、10の夜を超えて、100の夜を超えて、1000の夜を超えても、少女はやって来なかった。そして頼んでもいなかった生贄も、あの日を境に来なくなった。
「…………」
酷く喉が、渇いていた。酷く心が、渇いていた。だから吸血鬼はふらふらとした足取りで、近く村へと向かう。
「…………」
けれどそこにはもう、村なんてなかった。災害に巻き込まれたのか。それとも、盗賊にでも襲われたのか。……或いは、それほど長い時が流れたのか。
そこにはもう、誰の姿もなかった。
「おい? 居ないのか? 頼む。また一緒に、遊んでくれ。また話を、聞かせてくれ。……私たちは、友達だろ? なあ、おい!」
そんな叫びは、誰にも届かない。吸血鬼はどこまでいっても、独りだった。
「……友達が、欲しい」
偶然にも人の心を手にしてしまった吸血鬼は、冷たい孤独に耐えられなかった。
吸血鬼は、人の血を吸って回った。そうすればまた、少女みたいな存在が自分の所に来てくれると思った。だから吸血鬼は、何年も何年も人の血を吸い続けた。
そしてそんな彼の行いは、今の時代にも残り続ける冷たい冷たい吸血鬼の呪いとなった。
友達が欲しいと願い続けた彼の想いが、血を吸われた人の中に溶け込む。そしてそんな冷たい血が、彼と同じ冷たい心を持った吸血鬼を産み出す。
それが吸血鬼の呪いの、正体だった。
◇
ここまでの話を読んで、この悲しい結末を見て、ちとせはすぐに気がついた。
どうして吸血鬼は人の心を手に入れて、そしてどうして少女は急に吸血鬼を刺したのか。
「愛してるわ、十夜」
だからちとせはそう言って、いつかの少女と同じように、冷たい吸血鬼に歯を立てた。
自らの愛情を代償として、十夜を人に戻す為に。
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