頼みます。



 雨が、降っていた。


「…………」


 日が登って、すぐの時間。しとしとと静かに街を濡らす雨を自室の窓から眺めながら、昨日の夏祭りのことを考えていた。


「……何を、したんだっけな」


 けれど昨日のことなのに、もうはっきりと思い出せない。記憶から抜け落ちているのではなく、どうでもよすぎて脳みそから記憶を引き出せない。


「…………」


 だからほとんど無意識に、引き出しを開ける。そしてそこにしまわれてある、1枚のルーズリーフを取り出す。


 そこには丁寧な文字で、4人の名前と短い一文が書かれている。


「紫浜 玲奈。御彩芽 ちとせ。神坂 黒音。水瀬 揚羽。彼女たちは大切だから、絶対に傷つけてはダメだ」


 そう呪文のように唱えて、なんとか未鏡 十夜を維持する。……そうすることで辛うじて、人である心を保てる。


「そうだ。皆んなでお面をつけて、それで先輩とちとせと花火を見たんだ。……そんなことも、忘れてたのか。なんだか昔読んだ、小説みたいだな」


 何故かそんなどうでもいいことは、覚えている。……きっと何が大切で、何が大切じゃないか。その区別が、つかなくなってきているのだろう。


 先輩たちと過ごしたこの2ヶ月は、とても楽しいものだった。そんな日々があったから、俺は今もここに居られる。しかし人は、幸福に慣れる生き物だ。だから自分でも気がつかないうちに、心が凍りついてきているのだろう。


「あんまりのんびりしてる時間は、ないな」


 そう呟いて、プリントを引き出しにしまう。すると丁度いいタイミングで、スマホにメッセージが届く。……まだ朝の5時前だけど、先輩とちとせの2人ならこんな時間にメッセージを送ってきても、おかしくない。


 そう思い、スマホを手に取る。しかしメッセージの主は、意外な人物だった。


『今から、家に行くねー』


 そんなメッセージを送ってきたのは、生徒会長の水瀬 揚羽さんだった。だから俺は意外に思いながらも、『構いませんよ』と簡単な返事をする。するとその直後、聴き慣れたチャイムの音が鳴り響く。


「……今からって、本当に今からなんだな。でもまあ、丁度いいか。俺もあの人と、話しておきたいことがあったし」


 そうして、まだ誰も道を歩いていないような静かな時間。理由は分からないが、水瀬さんが家にやって来た。



 ◇



「朝早くから、ごめんね」


 部屋を仕切ったカーテン越しに、水瀬さんが頭を下げる。


「別にいいですよ。丁度、起きてましたし」


「ふふっ。もしかして、エッチなこととかしてた? なんならお姉さんが、手伝ってあげようか? ……もちろん、紫浜さんには内緒だよ?」


 水瀬さんはカーテン越しに、胸を強調するような色っぽいポーズをとる。


「コーヒーでも淹れようかと思ってましたけど、それだけ元気なら要りませんね。……それで? 何か大切な話があるんですよね?」


「つれないなー。……まあでもあんまりふざけすぎると、ちとせさんに怒られちゃうか」


「それより先に、俺が怒ると思いますよ」


「十夜くんは、これくらいじゃ怒らないよ。私でも、それくらいは分かる」


「……どうでしょうね」


 自分の声が、とても淡々としている気がする。意識して抑揚をつけているつもりなのに、なんだかロボットみたいな感じだ。


「ねぇ、十夜くん。カーテン開けてもいい? 私、昨日のお祭りでつけてたお面、つけてきたからさ」


「……別に構わないですけど、このままじゃダメなんですか?」


「ダメだね。私はね、大切な話は顔を見てしたいの。そうじゃないと、嘘をつかれても分からないでしょ?」


 それは確かに、そうだな。そう思ったので、俺はゆっくりとカーテンを開ける。……まあカーテンを開けても水瀬さんはお面をつけているので、俺の方からは彼女の顔は見えない。


 ……けどまあ、別にそれくらいどうでもいい。


「……うん。やっぱり、昨日思った通りだ。十夜くん、変わったね。それが吸血鬼ってことなのかもしれないけど、初めて会った時とはまるで別人だ」


「自分では分からないんですけど、そんなに違いますか?」


「うん。見てると背筋がゾクッとする。……吸血鬼の話は私にはよく理解できないけど、それでも十夜くんの顔を見るだけで、それが嘘じゃないって分かる」


 水瀬さんは小さく息を吐いて、居住まいを正す。だから俺も真っ直ぐに、水瀬さんを見つめる。


「私から1つお願いがあるんだけど、聞いてくれるかな?」


「それは、昨日の埋め合わせ的なやつですか?」


「ううん。もっともっと、大事な話」


「そうですか。でもまあ、聞くだけなら何だって聞きますよ」


「ふふっ。やっぱりモテる男は、器が違うね」


 水瀬さんはそうやってふざけたことを言うけど、声はとても平坦だ。だから俺は黙って、彼女が本題を話し出すのを待つ。


「……ねぇ、十夜くん。紫浜さんと別れて、ちとせさんと付き合ってもらえないかな?」


 言葉の意味が分からなくて、俺は眉をひそめる。けれど水瀬さんは、決して俺から目をそらさない。なら今の言葉は、俺の聞き間違いではないのだろう。


「さっきの言葉より今の言葉の方が、ちとせは怒ると思いますよ?」


「だろうね。だからこうして、ちとせさんも紫浜さんも来ないであろう早朝に、訪ねて来たんだよ」


「そうですか。でも残念ながら、それは無理です。俺は先輩が、好きですから」


 もうだいぶ心が凍ってきているけど、それでもその想いに嘘はない。


「でも、ちとせさんには君しか居ない。紫浜さんは冷たく見えるけど、話してみると案外優しくて、何より強い子だ。きっと彼女は君が居なくても、1人でやっていけるだろう。でも……ちとせさんは、そうじゃない。あの人には、君しかいなんだ」


「例えそうだとしても、俺の気持ちは変わりません。……そもそも、ここで俺がその提案を受け入れてちとせと付き合ったとして、あいつが喜ぶと思いますか?」


「思うよ。恋する乙女は、盲目だからね」


「……酷い言いようですね」


「でもそれくらいちとせさんは、君を……君だけを愛しているんだ」


 俺は大きく、息を吐く。雨がザーザーと降り注ぐ。


「どうしてそこまで、ちとせの為に動くんですか?」


 それが俺には、分からなかった。


「……ただの、我が儘だよ。私はあの人に助けられた。あの人の真っ直ぐな生き方に、憧れた。……けど今のちとせさんは、とても不安定だ。正直、見ていられないくらい」


「理想の人には、理想のままでいて欲しい。……確かに、我が儘ですね」


「ああ。でも私は、君にとってもその方がいいと思うんだ。紫浜さんと君は、どちらも優しすぎる。きっと君たち2人では、いつか擦り切れて潰れてしまう」


「俺は優しくなんて、ないですよ」


「優しい人は、皆んなそう言うんだよ」


 水瀬さんは、綺麗な金色の髪を指でくるくると弄ぶ。俺はそんな水瀬さんから視線をそらし、何もない天井を見上げる。


「…………」


 どうしてか、少し安心していた。……いや、その理由は明白だ。動機はどうあれ、水瀬さんはちとせのことを想ってくれている。なら、俺がいなくなった後は、きっと彼女がちとせのことを支えてくれるだろう。


「まあ、水瀬さんの言いたいことは分かりました。もちろん承諾はしないですけど、1つの意見として心に留めておきます。……でもその代わり俺からも1つ、いいですか?」


「何かな? 私はチューまでなら浮気にはならないと思ってるから、大丈夫だよ?」


「いや、その価値観はたぶん大丈夫じゃないです。そうじゃなくて……」


 そこで一度言葉を止めて、何かいい感じの言い回しがないか考える。……けれど特に、何も思い浮かばない。だから俺は考えていたことをそのまま、水瀬さんに伝える。


「仮にもし俺に何かあったら、ちとせのことお願いします。あいつが何か無茶しようとしたら、止めてやってください。そしてできることなら、少しでいいんであいつの側にいてやってください」


「…………」


 水瀬さんは、何も言わない。けれど目の色が変わったのが、お面越しでも分かる。


「私はね、十夜くんたちの事情を詳しく知らない。けど、ちとせさんを残して十夜くんがどこかに逃げるって言うなら、私は君を許さないよ? 絶対に絶対に、許さない」


「……別に、許してもらう必要はないですよ。俺の選択は間違ってるって、分かってはいるんで。でももう、それしかできない。……できないんですよ、もうそれしか」


 先輩もちとせも誰も分かってくれないけど、俺の中には血を吸う真っ赤な鬼がいる。人の心を完全に失った俺はそんな真っ赤な鬼となり、先輩やちとせだけじゃなくもっと多くの人を傷つけてしまうだろう。


 だからそうなる前に、死ぬしかないんだ。


「君はやっぱり、優しすぎるよ」


 水瀬さんはそう言って、優しく頭を撫でてくれる。


「……私は、君の言葉に承諾はしないよ。でもさっきの君と同じように、胸のうちに留めておくよ」


「ありがとうございます、水瀬さん」


「いいよ。……でも自己犠牲なんてものは、大抵は自己満足でしかない。生きることより……幸福な日常より価値があるものなんて、この世にはいくらでもあるんだ。それだけは、忘れちゃダメだよ?」


 水瀬さんは最後に俺の髪をくしゃくしゃっと撫でてから、『バイバイ』とそれだけ言って立ち去る。



「……さよなら、水瀬さん」



 俺はその背が完全に見えなくなってから、小さくそう呟く。



 まだ、雨が降っている。薄かった雨雲はどんどん厚くなり、雨足は次第に強まる。どうやら、台風が来ているらしかった。



 だから……いや、もしかしたら他に何か理由があったのかもしれないけど、先輩とちとせの2人は珍しくうちに顔を出さなかった。


「…………」


 どうしてか、少しだけそれが寂しかった。


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