綺麗ですね。



 血を、吸われた。



 背後の林から音もなく現れた紫浜先輩のお姉さんに、俺は……血を吸われた。



 嫌だと、思った。このまま血を吸われてしまうと、紫浜先輩のお姉さんが死んでしまう。それは絶対に、嫌だと。……未鏡 十夜ならそう思うのだろうなと、他人事のように思った。


 ……でも振り払おうにも、身体に力が入らなかった。まるで身体中の筋肉が溶けてなくなったように、どうしても振り払うことができなかった。


 だから俺は何の抵抗もできず、血を吸われた。悲しげな瞳でこちらを見るちとせと、真っ白な月に見下ろされながら、俺はただただ血を吸われ続けた。



 しかしそれでも、この真っ白な景色が、この冷たい心が、温かな色を取り戻すことはなかった。




 未鏡 十夜は依然、冷たい冷たい吸血鬼のままだった。




 ◇



 鬱蒼と生い茂る林の中心にある、小さな広場。そしてそこにポツンと置かれた、寂れたベンチ。俺とちとせの2人は並んでそのベンチに腰掛けて、真っ暗な空をただ見上げていた。


「ごめんね」


 ちとせがぽつりと、言葉をこぼす。


「……いいよ、別に」


 俺はそれに、消え入りそうな声で言葉を返す。


 今の俺は、紫浜先輩のお姉さんに血を吸われた後遺症で、ろくに歩くこともできなかった。だから言葉を喋るのも、酷く億劫だった。


「首、まだ痛む?」


「そりゃな」


「身体、まだ重い?」


「ああ」


「……本当に、ごめんね。助けて、あげられなくて」


「だから、いいよ。お前のお陰で、分かった。未鏡 十夜は、血を吸われた程度じゃ救われない。それが分かって、俺も踏ん切りがついた」


「……ごめん」


 ちとせはらしくもなく、しょげた表情で何度も何度も謝罪の言葉を繰り返す。……きっとそれ程までに、ショックだったのだろう。俺の瞳が、今も変わらず冷たいことが。ずっと前から練っていたであろう策が、通じなかったことが。



 吸血鬼は、同じ吸血鬼に血を吸われると、人の心を取り戻せる。



 その定説が崩れるなんて、流石のちとせも、そして紫浜先輩のお姉さんも、考えていなかったのだろう。


「……本物の吸血鬼、か」


 本物の吸血鬼。紫浜先輩のお姉さんは、俺のことをそう呼んだ。本物の吸血鬼には、私程度じゃ歯が立たないと。


 ……しかしそもそも俺は、本物どころか普通の吸血鬼についても、ほとんど何も知らない。ただ心が冷たいだけの存在を指すのか。それとも紫浜先輩のお姉さんのように、一度死んで蘇るといった超常の力を持つ存在を指すのか。



 俺にはまだ、分からない。



 ……でも1つ分かることがあるとするなら、俺はどうあっても救われないということだ。


 本物の吸血鬼である未鏡 十夜は、決して救われない。……ならやはり俺が皆んなを、救わなければならない。先輩とちとせ、そしてできることなら紫浜先輩のお姉さんの血を吸って、死ぬ。それが今の俺にできる、ただ1つのことだ。


「そうだ。先輩たちに、連絡しとかないと」


 ふと思い出して、スマホを取り出す。


 今のろくに歩けもしない俺が皆んなと合流しても、余計な心配をかけるだけだ。そう考えた俺は、この場所でちとせと2人花火を見ることにした。けれどそのことを、皆んなに伝えるのを忘れていた。



『ちょっと急用ができて、戻れなくなった。ごめん。また今度、埋め合わせする』



 Wi-Fiがない場所では先輩に連絡を取ることはできないから、とりあえず黒音と水瀬さんにそうメッセージを送る。



「先輩、心配してるだろうなぁ」



 ふと呟いた声は、誰にも届かず夜の闇へと消える。隣にいるちとせは、悩ましげな表情で空を見上げていて、何も言わない。だから俺も口を閉じて、花火が上がるのを静かに待ち続ける。




 ……けれどその静けさは、ふと響いた声に打ち破られる。




「ようやく見つけました、十夜くん」



 俺とちとせは、その声に引き寄せられるように背後に視線を向ける。すると、そこには……。



「……先輩、ですよね?」



 視線の先には、おどろおどろしいお面をつけた髪の長い女性の姿があった。……だから俺は一瞬、お化けでも出たのかと思ってしまう。けどよく見ればその着物は、先輩が着ていたものと同じものだった。


「そうですよ? そんなの見れば……って、あ。お面をつけているのを、忘れてました。……このお面、会長さんが貸してくれたんです。これをつけていれば、変な人に声をかけられないからって」


「そうなんですか。でも……いやそれより、よくこの場所が分かりましたね?」


 この広場は、まるで隠すように林の中心にある。だから普通に探しても、なかなか見つけられないはずだ。


「……姉さんに聞いたんです」


「……会えたんですね、お姉さんと」


 紫浜先輩のお姉さんは俺の血を吸った後、ごめんと一言残してどこかに消えてしまった。あの人にはまだ聞きたいことが沢山あったから、できることならその背を引き止めたかった。……けど先輩と話せたのなら、それでよかったのだろう。


 ……吸血鬼は、同じ吸血鬼の血を吸うと死ぬ。そういう話がある以上、あの人がこれからどうなるか分からない。そうでなくともあの人は一度、死んでいるんだ。


 だから、どういう形であれあの人と先輩が話すことができて、純粋によかったなと思う。


「隣、座ってもいいですか?」


 先輩が、伺うように俺を見る。


「もちろん、構いませんよ」


 俺はいつも通りに、そう返す。


「貴女も、いいですよね?」


「……好きにすれば」


 その疲れたようなちとせの言葉を聞いて、先輩はゆっくりと俺の隣に座る。


「先輩、たこ焼き食べますか? ……少し潰れちゃってますけど、凄く美味しいですよ?」


「じゃあ、頂きます。……あ、でもお面……」


「大丈夫ですよ、外しても。俺はずっと、空を見上げてますから」


 先輩にたこ焼きを手渡して、真っ暗な空を見上げる。……するとすぐに、隣から驚いたような声が響く。


「……美味しい。なんだか凄く、懐かしい味です」


「懐かしい、ですか。昔、食べたことあるんですか?」


「はい。小学生の時、姉さんと2人で一度だけお祭りに行ったことが──」


 そこで不意に、なんの前触れもなく空が光る。そしてそれとほぼ同時に、身体の芯に響くような大きな音が響く。



 花火だ。



 待ちに待った花火が、真っ暗な夜空に花を咲かせる。


「……綺麗だ」


 その鮮やかな色彩は本当に綺麗で、今の俺の心でもそれを美しいと思うことができた。


「…………」


「…………」


 隣にいる先輩とちとせも、俺と同じように息を呑む。……先輩はまだお面をつけていないだろうから、その表情を見ることはできない。けどきっと2人も、この花火に心奪われているのだろう。



 ……そう思っていたのに、先輩は唐突に、まるで夢から覚めるように、ゆっくりとその言葉を口にした。



「……十夜くん。十夜くんは本当に、私とその人の血を吸って……死ぬつもりなんですか?」



 その問いは、完全に予想していなかったものだ。でも何故か俺は、少しも迷うことなく、当たり前のように、その言葉を呟いた。



「はい。俺は2人の為に、死ぬつもりです」



 その答えはもう決して覆られないもので、だから俺はただ静かに夜空を染める花火を眺め続けた。


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