大きくなったね。



「大きくなったね、玲奈ちゃん」



 風が、吹く。思わず目を瞑ってしまうくらい強い風が、世界から一瞬、音を奪う。


「────」


 玲奈は何も、言えなかった。目の前の光景は、それ程までにあり得ないものだった。絶対に絶対に、起こるはずがない奇跡だった。


「ふふっ。驚いてるみたいだね?」


 その女性が一歩、玲奈に近づく。するとドクンと、心臓が跳ねる。


 近づけは近づくほど、その女性は大好きだった姉にしか見えない。死んだはずの、もう会えないはずの、紫浜 美咲にしか見えなかった。


「……姉さん、なんですか?」


 お面を外した玲奈は、震える声でそう尋ねる。


「そうだよ。玲奈ちゃんのことが大好きな、美咲お姉ちゃんだよ」


「そ、そんなこと、あり得ません。だって姉さんは……姉さんは、もう……」


 もう、死んだはずだ。自分の目の前で、車に轢かれて、最後の力で血を吸って、この世から居なくなってしまったはずだ。


 なのに、どうして……その姉が、目の前にいる。


「ふふっ。あり得ない、か。確かにそれは、その通りだ。……でもね、玲奈ちゃん。玲奈ちゃんも、知ってるでしょ? あの人たち……私たちのお父さんとお母さんが、一体なんの研究をしているのか」


「……それは、それでもそれは、あり得ないことです。あの人たちがどれだけ優秀で、どんな狂気に取り憑かれていたとしても、死人を蘇らせるなんてこと……できるわけない」


「そうだね。死んだ人を蘇らせることなんて、誰にもできない。けどね、玲奈ちゃん。私は、私たちは。そうでしょ?」


「それ、は……」


 美咲も玲奈も、普通の人間ではない。冷たい血が流れた、吸血鬼だ。でもだからって、死を乗り越えて蘇る。そんなとてつもないことができるなんて、玲奈にはどうしても思えなかった。


「人を人とも思えない、冷たい心の持ち主。それは確かに、特殊な存在だ。でも普通それだけで、『吸血鬼』なんて特殊な呼び方はしないよね? 冷血でも、冷淡でも、薄情でも、他に呼び方はいくらでもある。でも私たちは、『吸血鬼』。そう呼ばれるだけの理由が、私たちにはあるんだよ」


「……吸血鬼だから、人じゃないから、蘇った。姉さんは、そう言うんですか?」


「そう。その通りだよ、玲奈ちゃん。吸血鬼はその名の通り、人の血を吸う存在だ。私たちは人の血を吸うことで、吸血鬼としての本領を発揮できる」


 楽しそうに笑う美咲の八重歯が、月光を反射して妖しく光る。


「姉さんは、人の血を吸ったんですか?」


「うん。……正確には、死んでしまった私に、あの人たちが人の血を飲ませた。何度も何度も、何年も何年も、私の意思なんて無視してただただ血を飲ませ続けて、ある日突然……私は目を覚ました」


「…………」


 そんなことは、あり得ない。その言葉を、玲奈はもう口にすることができなかった。だって姉は、ここにいる。死んでしまって、もう会えないはずの姉が、確かにここにいるのだ。


 ならいくら否定の言葉を口にしても、それになん意味もありはしない。


「死を乗り越えて、私は蘇った。……でもだからって、全てが元に戻ったわけじゃない。私の身体は……日常生活を送れるようなものではなくなっていたし、何より最近まで、玲奈ちゃんのことも……忘れちゃってた」


「でも姉さんは、ここに居ます。私の、前に……。昔と同じ、姿で……」


 玲奈の瞳から、涙が溢れる。現実に、ようやく心が追いついた。大好きだった姉に、理由はどうあれまた会うことができた。


 そう思うと、とても熱い感情が胸のうちで膨れ上がって、それは涙となって玲奈の頬を濡らす。


「ごめんね? もっと早くに会いにいければ、いろいろ助けてあげられたのに」


「ううん。いいんです。……いいの。こうしてまた、姉さんに会えた。ならもうそれで、いいんです……」


 玲奈は涙を拭いもせず、子供のように美咲に抱きつく。美咲はそんな玲奈の頭を、優しく撫でる。


「泣いちゃダメだよ? 玲奈ちゃん。……玲奈ちゃんには、大切な人ができた。私よりずっとずっと愛しくて、何より大切に想える人が。なら今は、泣いてちゃダメ」


「……そうです。そうです! 姉さん、十夜くんを見ませんでしたか!」


 美咲の言葉を聞いて、玲奈はようやく思い出す。自分が何の為に、この場所にやってきたのか。


「…………ごめんね、玲奈ちゃん」


 十夜。その名前を聞いた美咲は、逃げるように視線を空に逃す。


 鬱蒼としげる木々の切れ間から、欠けた夜空が見える。それはどうしてかとても悲しげで、満天の星々はその全てが冷たい涙のように見える。


「私はね、十夜くんの血を吸ったの。1番危なくて、1番時間がない彼を、まずは助けてあげたかった。……彼が私みたいになる前に、人に戻してあげたかった。それが玲奈ちゃんの幸せに繋がってると、私は今でも信じてる」


 でも、と。美咲は空を見上げたまま言葉を続ける。


「……甘かった。何もかもが、甘々だった。彼は私たちとは、濃さが違う。私たちのような紛い物とは違う、本物の吸血鬼だ。……そう分かっていたのに、それでもまだ認識が甘かった」


「い、意味が分かりません! 姉さんが、十夜くんの血を吸った? どうして、どうして姉さんが、そんな……」


「そうするしか、なかったんだよ。私にしてあげられることは、もうそれくらいしかないの。だから私が私でいられる僅かな間に、全て終わらせるつもりだった……」


 姉の声はあまりに悲痛で、玲奈は泣きそうな顔で歯を噛み締める。


「玲奈ちゃん。私はね、まだ玲奈ちゃんが大好きなの」


「……私も、私も姉さんが、好きです」


「うん。人の想いは、とても綺麗だ。そしてそれは決して、なくならない。現に私が死んでも、玲奈ちゃんは私を想ってくれた。私が死んでも、私の想いは玲奈ちゃんの中に残る。……でも吸血鬼の冷たさは、それすら凍らせる。それだけは絶対に、嫌だった」


「だから、十夜くんの血を吸ったんですか? 十夜くんのために。私の、ために」


「うん」


 美咲は胸のうちに溜まった虚を吐き出すように、小さく息を吐く。


「私が頑張って、玲奈ちゃんも、ちとせちゃんも、十夜くんも、皆んなみんな人に戻してあげる。それが蘇った私の役目なんだって、そう思ってた。……でも、ごめんね? お姉ちゃんじゃ、無理だった……」


「……十夜くんは、どうなったんですか? 姉さんは、大丈夫なんですか?」


 吸血鬼は、同じ吸血鬼に血を吸われると人に戻れる。けれどその代わり、血を吸った方の吸血鬼は死んでしまう。なら、十夜の血を吸ってしまった美咲は……。


「私は、大丈夫。もう死んでる私は、もう完全に人ではない私は、簡単には死ねない。でも……ううん。そんな私だから、何も、何も、変えてあげられなかった。彼の血は、彼の抱えている冷たさは、私のそれより何倍も、何十倍も冷たいものだったから」


 だから、ごめんね? と、美咲はとても悲しい顔で言う。玲奈は姉のそんな顔、見たくなかった。美咲は昔、演技だと言っていたけれど、それでも玲奈は姉の笑顔が大好きだったから。


「大丈夫ですよ? 姉さん」


 だから今度は、玲奈が笑った。大好きな人を真似るように、とても無邪気な笑みを浮かべてみせる。


「大丈夫です、姉さん。姉さんの事情も、姉さんの想いも、今の私には分かりません。……でもね、姉さん。私はあの頃より、ずっと大きくなったんです。まだまだ姉さんみたいにはなれてませんけど、それでも私は大人になった。だからね、姉さん。自分の大切な人くらい、自分の力で救ってみせます」


「……そっか。本当に、本当に大きくなったんだね、玲奈ちゃん」


 美咲は小さな幸福を噛み締めるようにそう言って、いつものように笑ってみせる。


「……十夜くんは、ちとせちゃんと一緒にいる。この林を抜けた先にある、小さな広場。そこは穴場でね、とても静かに花火を見ることができる。だからきっと、2人はそこにいる」


「分かりました。なら、姉さん。姉さんも一緒に……」


「ううん。残念ながら、今の私にそこまでの時間はない。本当はもっとすぐに、こうやって話すこともなく、全て終わらせるつもりだった。……でも肝心の十夜くんには歯が立たなくて、だからせめて玲奈ちゃんに伝えておきたかった」


 風が止む。月光が2人を照らす。そして夜空に涙のような星が流れて、美咲はゆっくりとその言葉を口にする。


「十夜くんは、死ぬ気だよ。彼は私と同じように、玲奈ちゃんとちとせちゃんの血を吸って、死ぬつもりだ。そうせざるを得ないくらい、彼にはもう時間がない。だから……」


 だからどうすればいいのか、それは今の美咲にも分からなかった。


「ありがとう。姉さん」


 けれど玲奈は、お面を被り直して走り出す。例えどこにも答えがなくても、玲奈はもう足を止めない。



「……ふふっ。もうすっかり、女の子だ」



 美咲はいつもの笑顔で、その背を見送る。





「……でもね、玲奈ちゃん。もし十夜くんがダメなら、私は玲奈ちゃんだけでも、人に戻す。だから……ごめんね?」


 そう呟いて、美咲は夜の闇へと消える。そして静かな林には、2人分の懐かしい香水の香りが取り残された。


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