楽しみですね?



「入りますね?」


 いつも通りうちにやってきた先輩が、当たり前のように俺の部屋に踏み入る。


「暑かったでしょ? 先輩。麦茶用意してあるんで、好きなだけ飲んでください」


「いつもすみません。ではお言葉に甘えて、頂きますね?」


「どうぞ。先輩の為に用意したんですから、お腹たぷたぷになるまで飲んでください」


「ふふっ、ありがとう」


 先輩の優しい笑い声が、蝉時雨に混じって響く。



 『冷たい心に対抗する為に、温かな思い出をたくさん作ろう!』



 そう決めてから、もう1ヶ月の時が流れた。


 だから今はもう夏真っ盛りで、廊下は茹だるほど暑い。流石にそんな所に、先輩やちとせを何時間も座らせるわけにはいかない。


 だから少し前に、部屋の中央にカーテンで簡易的な仕切りを作った。これがあれば、暑い廊下ではなくクーラーの効いた部屋で、会話することができる。


「……ふぅ。美味しいです、ありがとうございます」


 先輩は軽く息を吐いてから、カーテンの隙間から手だけをこちらに伸ばす。だから俺は、その手を優しく握る。


「十夜くんの手、冷たいです。もしかしてずっと、クーラーつけっぱなしだったんですか?」


「……苦手なんですよ、暑いの」


「そうなんですか。実は私も、暑いのはあまり得意ではありません。……でもあんまり身体を冷やしすぎると、風邪ひいちゃいますよ?」


「……気をつけます」


 そこで先輩が、こちらに背を向けて座る。だから俺は、その背中にゆっくりともたれかかる。


「もう、1ヶ月経ったんですね」


 先輩は懐かしむように、口を開く。


「早いですよね。とても楽しい1ヶ月だったから、とても早く過ぎていきました」


「そうですね。私もとても、楽しかったです。十夜くんと恋人になって、1ヶ月。本当に幸せな、日々でした」


「そう言ってもらえると、俺も嬉しいです。……でも、ごめんなさい」


「どうして貴方が、謝るんですか?」


「だって俺はまだ、先輩の顔を見ることができないじゃないですか」


「今更そんなことで、謝らないでください。私はこうやって手を繋げるだけで、十分幸せですから」


 先輩は手に力を込めて、ぎゅっと強く俺の手を握りしめる。


「それより、十夜くん。心の方はどうですか? 1ヶ月前より、少しは温かくなりましたか?」


「……はい。だいぶ、良くなってきたと思います。先輩や、ちとせ。それに、黒音や水瀬さん。皆んなが頑張ってくれたお陰です」


「……そうですか。なら、よかったです」


 そこでしばらく、沈黙。


「…………」


 本当のことを言うと、状況は1ヶ月前とあまり変わっていない。つまりそれは、加速度的に冷たくなっていく心を、抑え込めているということだ。……でも同時にそれは、俺のやり方では現状維持が限界という意味でもあった。


 その辺のことは、この前ちとせにも指摘された。でもだからって、今更やり方を変えるつもりはない。……というより今は、他にできることが何もなかった。



 俺たちより吸血鬼のことを知っているであろう紫浜先輩の両親には、連絡を取ることができない。そして、あの公園に姿を現したあの女性も、あれから一度も姿を見せてはくれなかった。



 だから今は、現状維持だけで精一杯だった。


 

「……十夜くん」


 そこでふと、先輩が俺の名を呼ぶ。そして俺が返事をする前に、俺の手のひらに柔らかなものを押しつける。


「これ、なんだと思います?」


 先輩はいたずら前の子供のような声で、そう言う。


「……どうしたんですか? 急に」


「ふふっ。別にどうもしません。ただの、ゲームです」


「ゲーム、ですか。なら楽しまないと、ダメですね」


 先輩は鋭い人だから、もしかしたら俺の考えていることに気がついたのかもしれない。だからこうやって、ふざけてくれているのだろう。


 先輩のこういう優しいところが、俺は本当に好きだ。……まだそう思える、自分がいる。


「……まあでも、流石に分かりますけどね。これ、先輩の太ももでしょ?」


 何度も膝枕してもらったので、すぐに分かった。


「正解です。……男の人は太ももが好きだと聞いたので、十夜くんに触らせてあげようと思ったんです」


 先輩は楽しそうに声を弾ませて、俺の手を柔らかな太ももで挟みこむ。……先輩は最近、よく笑うようになった。


「確かに太もも、好きですよ? でも俺は、先輩に触れられるのならどこでも嬉しいです。……というかこれ、ゲームになってなくないですか?」


「いいんです、これで。だって、楽しいですから」


「……そうですね。先輩にこうやって触れている時が、1番温かさを感じられます」


「ふふっ。ありがとう」


 先輩はそう言って、今度はもっと柔らかなものに俺の手のひらを押しつける。


「……先輩、また胸が大きくなりました?」


 Tシャツ越しに触る先輩の胸は、俺の手のひらに収まらないくらい大きい。


「分かりますか? きっと十夜くんが、たくさん触ってくれたお陰です」


「……俺、そんなにたくさん触りましたっけ?」


「触ってます。今もこうやって、触ってるじゃないですか?」


「確かにそうですね」


「ふふっ。じゃあ今日は、忘れられないくらいたくさん触らせてあげますね?」


 それから先輩は、もうゲームとかお構いなしに、俺の手のひらを色んなところに押しつける。……先輩の身体はどこも柔らかくて、心臓が少しドキドキする。


「はむ」


 そして不意に、指先が生温かいものに触れる。


「先輩。もしかして俺の指、食べました?」


「はい。美味しいです、十夜くんの指」


 レロレロと、舌で指を舐め回される。その感触はとてもくすぐったくて、背筋にゾクゾクとした感覚が走る。


「知ってますか? 十夜くん。今日は黒音さんも、生徒会長さんも、そしてあの人も来れないって言ってました。だから今日は、何をしてもいいんです」


「それで、指を舐めるんですか?」


「はい。十夜くんの指、すごく綺麗だから一度舐めてみたいと思ってたんです。……少し変態かもしれませんが、でも私はもう我慢しないって決めたんです」


「……そうですか。じゃあ、俺も」


 そこで今度は俺が先輩の手をとって、仕返しだと言うように白くて綺麗な指に舌を這わせる。


「ふやっ⁉︎ 」


「先輩、可愛い声出てますよ?」


「貴方が出させたんです!」


「嫌でした?」


「……ううん。もっと、して欲しいです」


「ふふっ、そうですか。じゃあ今日は、ずっとこうやってイチャイチャしましょうか……」


 真昼間からクーラーをガンガンに効かせて、薄暗い部屋で色んなところを触れたり舐めたりする。それはどこか退廃的で、でも逆にそれがドキドキと心臓を高鳴らせる。


 そして何時間もそうやってイチャイチャした後、先輩がゆっくりと口を開く。


「そう言えば、夏休みに文芸部の皆んなで夏祭りに行こうって話があるんです」


「夏祭りですか。いいんですね」


 俺はそう返すが、きっと俺はそれに参加することはできないだろう。


 少し前から、俺はまた学校に通い始めた。色々と理由をつけて2週間近く休み続けていたが、流石にこれ以上休むと留年してしまう。……まあ、事情が事情だから、俺はそれくらい構わないと思っていた。けど先輩とちとせの2人が、それに強く反対した。


 だから先輩やちとせに会わないよう気をつけながら、学校に通うことにした。


 元より先輩とは学年が違うし、ちとせともクラスが違う。だからお互い気をつけていれば、顔を合わせることはなかった。


 そして黒音や水瀬さんにも、ある程度、吸血鬼のことを話をして、2人とも顔を合わせないようにした。……2人がどれだけその話を信じてくれたかは分からないが、それでも一応、2人の顔も見ずに済んだ。


 ……でも正直に言うと、今2人の顔を見てももう何も変わらなかっただろう。それ程までに、俺の心は凍っていた。


「大丈夫ですよ? 十夜くん」


 俺の不安を見透かしたように、先輩が優しく手を握る。


「十夜くんも一緒に行けるよう、色々と考えてるんです。だから十夜くんは、ただ楽しみにしてくれればそれでいいんです。私がきっと、すごく楽しい思い出を作ってみせますから」


「ありがとう、先輩。……愛してますよ」


 カーテン越しに、先輩の背中を抱きしめる。先輩の身体は、やはりとても温かい。


「……幸せです。こうして抱きしめられると、すっごくドキドキします」


「俺も、ドキドキしますよ」


「なら、もっとずっとこうしていましょう。ずっとずっと、貴方に触れていたいです」


 先輩が、カーテンをゆらゆらと揺らす。だから俺は、いつも通り目を瞑る。


「十夜くん……」


 カーテンが開いた音がして、先輩が俺を抱きしめる。そしてそのまま目を瞑ったまま、ゆっくりとキスを交わす。


 この1ヶ月、ちとせや皆んなと色々と楽しいことをしてた。でもやっぱり、先輩とこうしている時間が1番幸せだった。


 そうしてその日は、そうやってただイチャイチャと甘え合った。



 その後も、何度もそういった日々を過ごして、気づけば夏休みになっていた。そして先輩の言葉通り、俺は思わぬ形で夏祭りに参加できることになった。



 その夏祭りを機に、停滞していたものが一気に動き出す。




 無論俺は、その結末を知らない。


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