ここからよ。



 1つだけ、嘘をついた。



 そしてこれからもう1つ、嘘をつく。



 ……今はどうしても、そうしなければならなかった。



 ◇



「そもそも俺は、どうして先輩やちとせの顔を見るのを、恐れていたんだと思う?」



 その問いは先輩やちとせに向けたものではなく、自分自身への問いかけだった。だから2人が答える前に、続く言葉を口にする。


「それは無論、大切だったからだ。2人のことが、他の何より大切だった。だから俺は、2人を餌だと思ってしまうのが……怖かった」


 怖いくらい、大切だった。2人だけは、絶対に絶対に失いたくない。その想いは今も、変わらない。


「そして先輩とちとせの2人は、2人との思い出は、今も俺の支えになっている。俺が今もこうして人の心を保っていられるのは、2人を大切だと思う心が残っているからだ」


 ちとせと紫浜先輩の2人に出会っていなければ、俺はもうとっくに吸血鬼の冷たさに飲み込まれていただろう。



 つまり、それは──。



「人を好きになればなるほど、温かな思い出があればあるほど、吸血鬼の冷たさを遠ざけられるんだと思う」



 無論、吸血鬼の冷たさは、その想いや思い出ごと凍らせる、恐ろしいものだ。現に俺は、ちとせの顔を見た瞬間、ちとせのことをどうでもいい存在だと思ってしまった。


 ……でも、それでも確かに、2人のことを想う心が俺を人にしてくれる。


「今日、久しぶりにちとせの顔を見て、ちとせを……餌だと思って、俺の心は一度凍った。でも裏を返せばそれは、ちとせや先輩を想うような温かな心があれば、吸血鬼の冷たさに抗えるってことなんだ」


 だから俺は、可能性を提示する。この夏が終わるまでの、3ヶ月間。その間にできることの1つを、言葉に変える。



「だから俺は、楽しい思い出が欲しい。楽しい思い出が沢山あればあるほど、俺は人として生きられるはずだから」



 窓の外で、風が吹いた。まるで台風のような強い風が、ガタガタと窓を震わせる。光が一切入ってこない真っ暗な部屋では、その音が妙に大きく聴こえた。



「とても、素敵な考えだと思います」



 そこで先輩が、口を開いた。


「冷たさに抗えるのは、温かさ。……うん。思えばそれは、当然のことです。冷たい心が凍らし切れないほど、いっぱいいっぱい楽しい思い出を作る。そうやって過ごした日々が、吸血鬼の冷たさを消し去る。その考え、凄くいいと思います」


 先輩は心底から安堵したと言うように、小さな笑い声をこぼす。


「……ふふっ。でも、よかった。私、もしかしたら十夜くんは、とても悲しいことを言うんじゃないかって、凄く不安だったんです。でも、楽しい思い出作り。それならいくらでも、頑張れます!」


 先輩は楽しそうに、声を弾ませる。……もしかしたら先輩は、もっと嫌な想像をしていたのかもしれない。だからさっきのように、無茶な行動をしたのだろう。



「十夜。あんたは本気で、それで大丈夫だと思ってるの?」



 先輩とは対照的に、ちとせは鋭い声でそう告げる。


「本気でって言われると、どうかな。でも俺は、この案に賭けるつもりだよ。少なくとも、部屋に引きこもって秒針の音を数えているよりは、ずっと可能性はあると思う」


「それは確かに、そうかもね。でも今のあんたは、私やこの女の顔を見ることすらできない。……ううん。これから先、楽しい思い出を作れば作るほど、それを失った時の反動も大きくなる。つまり頑張れば頑張るほど、十夜との距離が遠くなるかもしれない。……あんただってそれくらい、分かってるんでしょ?」


「なら十夜くんに、ずっと引きこもってろって言うんですか? 貴女は」


 ちとせの言葉に、先輩が反論する。


「そういうわけじゃないわ。ただ私は、あんまり楽観視し過ぎない方がいいんじゃないかって、そう言ってるだけ」


「それは……それは確かに、そうかもしれません。でもそもそも貴女が十夜くんに血を見せたり、顔を見せたりしなければ、こんなことにはならなかったんですよ? 分かってるんですか?」


「……分かってるわよ、それくらい。分かってて、やったのよ、私は。だって私は、十夜が好きだから。貴女なんかよりずっと、私は十夜を愛してる」


「そんなこと、ないです。貴女はただ十夜くんを使って、自分の孤独を埋めようとしているだけです。そんなものは、愛情とは呼べません」


「別に貴女が何て呼ぼうと、知ったことじゃないわ。……私はただ、私の想いを信じるだけ。私のこの心は、十夜にだけ伝わればそれでいい」


「…………」


 部屋の外で、冷たい空気が広がっているのが分かる。だから俺は、慣れた口調で2人を諌める言葉を口にする。


「2人とも、今言い合いしても仕方ないだろ?」


 2人がこうやって言い合いするのは、今に始まったことじゃない。だから俺は、無理やり話を引き取る。


「それよりちとせ、お前は俺の案に反対なのか?」


「……ううん。反対ってわけじゃないわ。あんたの言ってることは理にかなってるし、何より今はそれくらいしかできることがない。でも……」


 そこでドアが、みしっと音を立てる。だから俺は、ドアが開いたのかと思い、急いで目を瞑る。……けどいくら待っても、ドアが開くことはなかった。


「でも私は、私だけは、あんたの心を元に戻すだけじゃダメなの。それじゃあんたは、私を選んでくれない。それじゃあ私は、ダメなのよ!」


「結局、貴女は自分のことばかりですね」


 先輩は呆れたように、そう言う。


「そうよ。だから私は、私のやり方で戦う。……もちろん、十夜のやり方に協力した上でね」


「……分かったよ、ちとせ。今更お前に、とやかく言うつもりはない」


 ちとせは元より、こういうやつだ。それに今ここで俺が何を言っても、ちとせの想いは決して変わりはしないだろう。


「それじゃあこれから、2人にいろいろ付き合ってもらうことになると思う。……いや、2人だけじゃない。いずれは黒音や水瀬さんも一緒に、色んなことをしたいって、思ってる」


 その想いは、本心だった。だから俺は自然と、笑っていた。


「俺はまだ2人と顔を合わせることもできないし、色々と面倒をかけると思う。でもそのぶん2人にも、楽しい思い出ができるよう頑張る。……だからこれから、よろしく頼むな? 紫浜先輩。それに、ちとせ」


 俺のその言葉を聞いて、2人はそれぞれ了承の言葉を返してくれる。



「任せてください! 顔を合わせなくてもできる、楽しいこと。私いっぱい、考えます!」



「……久しぶりゲームするのも、いいかもね。オンラインでなら、顔を合わせなくても一緒に遊べるし」



 そうして、俺たちの日常はゆっくりと動き出した。








「………待っててね、十夜」


 ちとせとその裏にいる1人の女性の思惑に、気がつくことなく。


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