久しぶりね。
「ねえ、十夜。あんた、こんなところで何やってるの?」
帰ろうと思い立ち上がった直後、背後からそんな声が響いた。
「……ちとせ、か。お前の方こそ、どうしてこんな時間にこんな所にいるんだよ」
俺は正面に視線を向けたまま、そう言葉を返す。
「私は……私はただ、あんたの家に行こうと思ってただけよ」
「俺の家? こんなに朝早くからか?」
「そ。だってこの3日間、ずっとあの女と同じことしかしてこなかったでしょ? 放課後になったらあんたの家に行って、夜になったら帰る。……でもきっと、それじゃダメ。あの女と同じことをしているうちは、絶対にあの女には……勝てない」
「だからこんなに朝早くから、出かけたと。……なるほどな。でもこの公園は、俺の家からもお前の家からも離れてるはずだろ?」
何も考えずに家を出て、先輩やちとせと出会ってしまう。それだけは絶対に避けたかったから、2人の家から離れた場所を歩いていた。
……まあ結局、こうしてちとせと出会ってしまったんだが。
「……この公園、私とあんたが初めて出会った場所でしょ? ここで1人でいた私に、あんたが声をかけてくれた。……綺麗だって」
ちとせの声が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。でも俺はただ、前だけを見つめ続ける。
「だから私ね、偶にここに来るの。これから頑張ろうって思った時や、ちょっと寂しくなっちゃった時。そういう時はここに来て、あんたの言葉を思い出す。……そしたらまた、頑張れるから」
「……知らなかったよ。お前がそんなに、この場所を大切に思ってたなんて」
「別にこの場所は、大切なんかじゃないわ。大切なのはあんたと、あんたとの思い出よ。……それよりあんたの方こそ、こんな所で何してるのよ? もう引きこもりは、辞めたの?」
「まあな。……ちょっと頭痛が酷かったから、気分転換してたんだよ」
今のちとせの様子からして、紫浜先輩のお姉さんが居たことには、気がついていないのだろう。だからわざわざ、彼女のことを口にするのは辞めておいた。
「頭痛、ね。大丈夫なの?」
「ああ。もう治ったよ」
「そ。ならよかった。……でも、私があんなに頑張っても部屋から出てきてくれなかったのに、頭痛ひとつで部屋から出るのね。……なんか、妬けるわ」
「頭痛に嫉妬して、どうすんだよ」
「私は何にだって、嫉妬するわ。……だって私、あんたの1番でいたいんだもん」
その言葉にどんな言葉を返せばいいのか、今の俺には分からなかった。だから俺は逃げるように、空を見上げる。
「…………」
俺は今も、紫浜先輩が好きだ。その想いが残っているから、辛うじて人としての心を保っていられる。……でもだからって、ちとせに対して何も思わなくなったわけじゃない。
「なぁ、ちとせ。悪いけど、帰ってくれないか? できれば今は、お前の顔を見たくないんだよ」
「……そ。でもあんた、ずっとそうしてるつもりなの?」
「ずっとってわけには、いかないんだろうな。でも今はまだ……怖いんだよ」
「怖い、ね。……まあ、あんたがそんな風になったのは私のせいだし、あんまり偉そうなこと言えないのは分かってる。でも、いつまでもそうやって逃げ続けても、仕方ないでしょ? ……というか、私はそろそろあんたの顔が見たいわ」
ちとせはそう言って、俺の背中に抱きついた。……だからドキドキと、ちとせの激しい鼓動が伝わってくる。
「私、少しだけど、胸が大きくなったのよ。あの女に負けてるのは癪だから、いろいろ調べて頑張ってるの。……どう? 少しはドキドキ、してくれる?」
「……どうだろうな」
「何それ。はっきりしなさいよ」
「もうあんまり、分からねーんだよ」
自分が今、何を思っているのか。気を抜くと全て、忘れてしまいそうになる。
「好きよ、十夜。大好き。ずっとあんたに、触れていたい。あんたの全てを、私だけのものにしたい」
「お前は、変わらないな。でも悪いけど、俺は──」
「あの女が、好きって言うの? だから、早く離してくれって? でもそれだったら別に、私の姿を見てもいいんじゃないの? 今のあんたにとって私は、大した存在じゃないんだから」
「…………」
俺は言葉を、返せない。
「そもそも、おかしいと思わない? 吸血鬼は、人を餌としか思えない。私はそこまでは思わないけど、その考えは理解できる。……でも、同じ吸血鬼まで餌だって思うのは、おかしいでしょ? だって死ぬのよ? 同じ吸血鬼の、血を吸ったら」
「確かにそれは、そうだな」
吸血鬼は、同じ吸血鬼の血を吸うと死ぬ。なのに同じ吸血鬼のことを、餌だと思ってしまう。そこには明確に、矛盾がある。
でも……。
「でも、そういうものなんだから、仕方ないだろ? 人間にだって、毒キノコと美味いキノコの区別なんてつかない。……そして腹が減っていれば、何だって美味そうに見えてしまう」
「……でもあんたは……ううん。結局それは、あんただけじゃなくて、私たち皆んなの問題なの。……遅かれ早かれ、私たち吸血鬼は皆んな心が凍りついてしまう」
「だから、引きこもってる場合じゃないって言いたいのか?」
「違う。だから、逃げてる場合じゃないのよ。あんたも、そして……私も」
だから私を見てと、ちとせは言う。
「運命なのよ。ここで私とあんたが、出会えたのは」
「運命、か」
或いはそれは、さっきまでここにいたあの女性が、仕組んだことなのかもしれない。
「…………」
……なら俺は、どうする?
ここでその運命……或いは思惑に従って、ちとせの顔を見るのか? それともまだ、逃げ続けるのか?
「なぁ、ちとせ。1つ、約束してくれるか?」
「分かった。少し大きくなった私の胸を、揉みたいって言うのね? いいわよ。あんたになら、好きなだけ触らせてあげる」
「誰もそんなこと、言ってねーよ。……そうじゃなくて。もし俺がお前を見て完全に何も想えなくなったら、その時は絶対に……紫浜先輩にだけは会わせないでくれ。……最悪、薬を盛って無理やり監禁してもいい。だから冷たい俺を、あの人に会わせないでくれ」
「……分かった。でも薬を盛るってあんたに? それとも、あの女?」
「バカ。俺に決まってるだろ?」
「そんなことしたら、私、あんたにエッチなことするかもよ?」
「しねーよ。お前はそんなので満足するほど、軽い女じゃない」
「ふふっ。かもね」
完全に心が凍ってしまった俺が、何をするのか。それは今の俺には、分からない。けど何をするにしても、何もしないんだとしても、そんな俺を先輩に見られたくはなかった。
「じゃあ手、離すわよ?」
「頼む」
「…………」
「……いや、離さねーの?」
離すと言ったくせに、ちとせは中々、手を離さない。
「ごめん。もう少しだけ、あんたの温かさを感じさせて。……あと、10秒でいい。それであんたの温かさを、私の身体に刻みつける。だから10秒だけ、待って」
ちとせは腕に、力を込める。だから、大きくなった……らしいちとせの胸が、俺の背中に押しつけられる。けど今の俺はもう、それに何も思わなかった。
そして、10秒後。
ちとせは俺から、手を離した。
だから俺は、ゆっくりと背後を振り返る。……するとそこには、照れたような笑みを浮かべた1人の少女の姿があった。
「久しぶりね、十夜」
そんな声が響いて、世界が真っ白に染まっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます