あり得ない。
その日はどうしてか、頭痛が酷かった。
俺が部屋に引きこもるようになってから、3日目の夜。まるで何かに誘われるように、家を出た。
「……頭が、痛い」
軽く頭を押さえながら、小さく息を吐く。
今日もいつも通り、先輩とちとせが帰ったのを確認してから、眠りについた。でも珍しく今日は深夜に目が覚めて、しかももう一度眠ることができないくらい……酷く頭が痛んだ。
だから俺はそんな頭痛から逃げるように、家を出た。
「もう長くは、ないのかな」
俺の心が、あとどれくらいで保つのか。はっきりとしたことは、分からない。けどきっと、この夏は越えられないだろう。
「確か昨日が、6月1日。だから残り、3ヶ月か……」
無論、3ヶ月保つなんて保証もどこにもない。何かきっかけがあれば、今日にでも心が凍りついてしまうかもしれない。だからいつまでも引きこもって、時間を無駄にする訳にはいかない。
「……どうしてこんなに、頑張ってるんだっけ」
ふと口をついた言葉の意味は、自分でも分からなかった。
「…………」
意味もなく立ち止まり、空を見上げる。欠けた月が、煌々と街を照らしている。もう6月で、夜でも蒸し暑い空気が漂っている。なのに夜空は、とても冷たく見えた。
「帰るか」
そう呟き、来た道を戻る。頭痛は全く治らなくて、気分も晴れない。しかしこれ以上、夜道を歩いても意味なんてない。……そんなことは、ずっと前から分かっていたことだ。
小学生の時も、俺はこうやって1人夜道を歩き続けた。でも結局、何かを見つけることなんて出来なかった。
だから……そう。紫浜先輩のお姉さんが書いた白い本のように、都合よく誰かと出会えるなんてことは、現実ではあり得ない。
だから
だからそれは、ある意味で奇跡だったのだろう。……そして同時にそれは、どうしようもない絶望でもあった。
「こんばんは、未鏡 十夜くん」
ふと、夜の闇からそんな声が響いた。
「貴女は……」
俺は悪夢でも見るかのように、唖然とその女性を見つめる。
「ふふっ」
だってその女性の笑みは、とても無邪気だったから。……それこそまるで、あの写真で見た笑顔と同じように……。
◇
「月が綺麗だね」
近くの公園にやってきた俺たちは、並んでベンチに腰掛けて、遠い夜空を見上げていた。
「なんですか、それ。私、死んでもいい。そう返せば、いいんですか?」
俺は呆れるように、息を吐く。
「ふふっ、冗談だよ。私、嫌いだからね。誰かの言葉を使って、告白するの。というかそもそも、月が綺麗ですねって言葉と、死んでもいいって言葉じゃ、言葉の重みが全然違うしね」
「俺には分かりませんよ、その辺の機微は。……でも、自分の想いを伝える為に自分だけの言葉を作る。そんな奴、どこにも居ませんよ? 誰だって、どこかの誰かが作った言葉を、喋ってるだけなんですから」
「君、面白いこと言うね。やっぱり私の妹が、彼氏に選んだだけはあるよ」
彼女は、笑う。俺は、笑えない。
この女性は、どこからどう見ても……写真で見た、紫浜先輩のお姉さんそのものだった。夜の闇より黒い、綺麗な黒髪。月明かりを反射する、真っ白な肌。それに何より、まるで子供みたいな無邪気な笑み。
やはりどこをどう見ても、紫浜先輩のお姉さんにしか見えない。
「…………」
死者を蘇らせる研究。
ふと、その言葉が脳裏を過ぎる。しかしそんなことは、あり得るはずがない。……いや、あり得てはいけないことだ。
「ねぇ、私のことが気になるの?」
「そりゃ、気になりますよ、だって貴女は……死んだはずでしょ?」
無論、俺は彼女が死んだところなんて見ていない。それにこの女性が、紫浜先輩のお姉さんだという確証もどこにもない。……でも今更、他人の空似でした。なんてそんな都合のいいことは、流石にあり得ないだろう。
「そうだよ。私は確かに死んだ。……ううん。私は今も、死んでる。人間としての紫浜 美咲は、もうとっくに死んだんだ」
「なら貴女は、人間じゃないと? 笑えない冗談ですね」
「ふふっ。君はやっぱり、面白いね? 私も君も、それに玲奈ちゃんや、ちとせちゃんも。皆んな皆んな、人間じゃないじゃない。君だってそれくらい、知ってるはずでしょ?」
「それは……」
それは確かに、その通りだ。でも俺たち吸血鬼に、そんな特別な力はないはずだ。……いや、俺たちは誰も、吸血鬼について深く知らない。なら、もしかしたら俺の認識より、彼女の言葉の方が正しいのかもしれない。
「分かりました。もうそこは、いいです。でも、ならどうして、今ここで俺に話しかけてきたんですか? どうして先輩に、会いに行ってあげないんですか?」
「ふふっ。冷静だね。普通じゃ考えられないくらい、クールなものの考え方だ。……どうやらもうだいぶ、心が凍りついているみたいだね? 未鏡 十夜くん」
「…………」
確かに今の俺は、とても冷めている。死んだはずの人間が、目の前に現れた。なのに大して驚くこともなく、当たり前のように会話している。
でも今はそんなこと、どうだっていい。
「今は俺のことより、貴女のことですよ。答えてください。どうして先輩に、会いに行ってあげないんですか?」
俺は真っ直ぐに、目の前の女性を見つめる。……すると彼女はやっぱり、無邪気な笑みを浮かべた。
「私が玲奈ちゃんに会いに行かない理由は、今の君が玲奈ちゃんに会わないのと、同じ理由だよ。……というかそもそも、自由に出歩けるわけでもないしね、私は」
「……どういう意味ですか? それ」
「そのままだよ。……私は今も、死に続けている。あの人たちも頑張ってくれてはいるけど、でも私は依然……死んでいるんだよ」
言葉の意味が、分からなかった。死んでいるも何も、貴女は今、俺の目の前にいるじゃないか。
「まあ、私のことはいいよ。それより、聞きたいことがあるんじゃないの? 特に……吸血鬼についてとか、ね」
「……そうですね。でもちゃんと、答えてくれるんですか?」
「それは聞いてみれば、分かることだよ」
彼女は透き通る瞳で、俺を見る。……その瞳はどこか、紫浜先輩に似ていた。
「……じゃあ聞きますけど、吸血鬼の冷たい心を人の心に戻す方法。それについて、何か知りませんか? 無論、同じ吸血鬼に血を吸ってもらう以外で」
「ないよ」
彼女は考える素振りも見せず、そう言い切った。
「…………」
「ふふっ。そんな顔しないでよ。……私が知らないだけで、どこにもないってわけじゃないはずだから」
「意味深な言い回しをしますね。なら聞きますけど、その答えはどこにあるって言うんですか?」
「それは私より、君の方が分かっていると思うよ。だって君は誰より血が濃くて、そして誰よりその血に……抗っているんだから」
彼女はそれだけ言って、話はもうお終いだと言うように、ゆっくりと立ち上がる。……正直、まだまだ聞きたいことは沢山あった。けど彼女は、まるで俺のその考えを見透かしたように、口を開く。
「悪いけど、私はもう帰らないといけない。だから今日のお喋りは、ここまでだ」
「……今日のってことは、また会えるってことですか?」
「ふふっ。どうだろう? それもまた、君次第かな。……じゃあね、未鏡 十夜くん。君も、日が登る前に帰るといいよ。何せ吸血鬼に、日の光は毒だからね」
彼女はそう言って、最後にとびきり華やかな笑みを浮かべてみせた。
「……っ」
するとその瞬間、遠い空から朝日が目に差し込む。だから俺は思わず、目を瞑ってしまう。
「居ない……」
そしてその一瞬で、彼女は姿を消していた。それこそまるで夢のように、目を開けるとこの場から完全に消え去っていた。
「後をつけようと思ってたの、バレてたのかな」
彼女が今どこで、何をしているのか。それが分かれば、何かしらのヒントになるかもしれない。そんな風に考えていたのだけど、流石にそこまで甘くはないらしい。
「帰るか」
だから俺も立ち上がり、帰路につく。気づけば頭痛は、いつの間にか治っていた。
「ねえ、十夜。あんた、こんなところで何やってるの?」
……けれど背後から、そんな声が響いた。だからまだまだ、家に帰れそうにはなかった。
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