姉さんなの?



 その日、玲奈は1人空を見上げていた。


 寂しくなったら、空を見上げる。それは姉の美咲に教わった、寂しさを誤魔化す方法だ。……でも玲奈は別に、寂しくて空を見上げていたわけではない。というより彼女は昔から、寂しいという感情が理解できなかった。


 でも今日は美咲が両親に呼ばれて、朝早くから出かけてしまった。だから玲奈はとても退屈だったので、ぼーっと空を見上げていた。


「…………」


 少しずつ赤らみだした、遠い空。美咲は晩御飯までには帰ると言っていたので、もうすぐしたら帰ってくるだろう。


「姉さん、何の話をしてるんだろ」


 お父さんと、お母さん。玲奈が未だにそう呼べない両親は、大切な話があると言って美咲を電話で呼び出した。だから美咲は最初、玲奈も一緒に連れて行こうとした。けど両親は、それを拒絶した。長い話になるから、子供を連れてきても退屈するだけだと。


 それはあからさまに、玲奈を避ける為の言葉だった。けど玲奈は特に、何も思わなかった。そういう風に避けられるのは、いつものことだから。……しかし美咲が珍しく、不機嫌そうだった。


 だから玲奈は、私は別に気にしてないよ? そう言って美咲を送り出した。自分の為に怒ってくれるのは嬉しかったが、それでも美咲に余計な手間をかけさせたくなかった。


 だから玲奈は1人、意味もなく空を見上げ続ける。


「……冷血吸血鬼、か」


 そしてほとんど無意識に、その言葉を呟く。冷血吸血鬼。あのうさぎの事件から3ヶ月ほどの時間が経って、玲奈は1つ学年を上げた。だからクラスメイトも新しくなったのだが、玲奈は相変わらず1人だった。


 ……いや1人だけ、そんな玲奈に話しかける奇特な少女がいた。


 彼女は別に、玲奈と友達になりたかったわけでも、玲奈を虐めようとしていたわけでもない。彼女はただ毎日のように、同じことを玲奈に尋ねた。



「どうして貴女は、うさぎを殺したの?」



 けど玲奈は、その少女を完全に無視した。元よりその少女に何の興味もなかったし、何よりその質問に答える理由なんてどこにもなかったから。しかしその少女はめげずに毎日毎日、同じ言葉を繰り返した。



 どうして? どうして? どうして?



 少女はそれを正義感でやっていたのかもしれないし、ただの好奇心だったのかもしれない。しかし玲奈はそんなことどうでもよくて、でもいい加減うっとおしいと思うようになった。……だから玲奈は、答えた。



 知らない、と。



 しかし少女はその言葉に納得せず、より執拗に玲奈に付き纏うようになった。だから玲奈は、その少女のことを姉に話した。変な女に付き纏われて、困っていると。すると翌日から、その少女は学校に来なくなった。



 吸血鬼の仕業だ、と誰かが言った。吸血鬼に関わったから、不幸になったのだと。



 しかし事件は、まだ終わらない。体育で玲奈に怪我をさせてしまった生徒。玲奈にだけ当たりがきつかった、嫌味な教師。玲奈に少しでも嫌がらせをした者は、なにかしらの理由で学校に来なくなった。



 吸血鬼の仕業だ、と皆んなが言った。



 いつしか、それらの事件はまとめて『吸血鬼事件』と呼ばれるようになり、一種の都市伝説として学校中に広まった。


 そして時が経つごとに噂に尾ひれがついていき、彼女が血を吸っているのを見た、とか。彼女の冷たい血を見ると死んでしまう、とか。そんな噂まで広まるようになり、もう誰も玲奈に近づこうとしなくなった。



 けど玲奈はそんなこと、どうでもよかった。



 だって今の玲奈にとって大切なのは、1人だけ。



「姉さん。遅いな……」


 玲奈はつまらない思考を振り払うようにそう言って、すっかり暗くなった空から視線を逸らす。するとちょうど、


「ただいま、玲奈ちゃん!」


 そんな元気な声が響いて、玄関の扉が開く。だから玲奈は軽い笑みを浮かべて、早足に玄関へと向かう。


「おかえり、姉さん」


「ふふっ、ただいま」


「……姉さん。何かあったの? いつもより、楽しそうだよ?」


 玄関で出迎えた美咲は、いつもよりずっと楽しそうな笑みを浮かべていた。だから玲奈は疑問に思い、そう尋ねる。


「あ、分かる? 分かっちゃう? なんとさっきね、本物の吸血鬼を見かけたんだよ!」


 そんな玲奈の疑問に、美咲は素っ頓狂な言葉を返す。だから玲奈は驚いたように目を見開くが、美咲は気にした風もなく言葉を続ける。


「その子はね、凄く綺麗な目をしてたんだよ。歳は玲奈ちゃんと同じくらいで、とても可愛い顔をした男の子。もう結構遅い時間なのに、その子は1人で歩いてた。でも他人を拒絶する空気が凄くて、誰も声なんてかけられなかった……」


 美咲はまるで今もその少年が見えているかのように、目をキラキラと輝かせる。


「人を見た時に感じるあの冷たさとは違う、もっとどうしようもない冷たさを感じた。心がぎゅってなるような、そんな感じ。だからきっと、あれが本物なんだろうなぁ。すごいなぁ」


 美咲は溢れ出る興奮を抑えるように、大きく大きく息を吐く。


「……姉さん。姉さんはもしかして、私よりその子の方がいいの? 私を捨てて、その子を弟にするの?」


 だから玲奈はなんだか面白くなくて、拗ねたようにそう呟く。


「ふふっ。そんなわけないでしょ? 玲奈ちゃんは、可愛いな。……ほら、おいで? ぎゅってしてあげる」


「…………」


 玲奈は少し照れくさかったが、とてとてと歩いて美咲の方に近づく。すると美咲は言葉通り、優しく優しく玲奈の身体を抱きしめる。


「玲奈ちゃん、大きくなったね」


「……うん」


「私はね、そんな玲奈ちゃんが世界で1番大好きなの。だから絶対、玲奈ちゃんを捨てたりしないよ?」


「……ほんと?」


「うん。ほんとほんと。……ただ、ちょうどよかったんだよ。お父さんとお母さんからあの話を聞いた後に、吸血鬼と出会う。ちょっと、出来過ぎなくらいにね……」


 玲奈は美咲のその言葉の意味が分からなかったが、姉の温かな身体が心地よくて、余計な疑問は消えてしまう。


「さ、ご飯食べよっか。玲奈ちゃんは、なに食べたい? 今日はお姉ちゃんが腕によりをかけて、ご飯を作ってあげる」


「じゃあ私、いつもの姉さんの卵焼きが食べたい」


「ふふっ、分かった。じゃあいっぱい、作ってあげるね?」


 美咲はそこで玲奈から手を離し、上機嫌で台所の方に歩いていく。だから玲奈も早足に、その背中を追う。


「姉さん」


 けどその途中、ふと疑問が思い浮かんで姉の背中に声をかける。


「どうかしたの? 玲奈ちゃん」


「……姉さんが、やってくれてるの?」


「なにを?」


「色々。色々いっぱい、姉さんがしてくれたの? 私の為に」


 その玲奈の言葉を聞いて、美咲は考えるように目を瞑る。けどすぐに答えが思い浮かんだのか、いつもの無邪気な笑みを浮かべて言葉を返す。


「玲奈ちゃんはね、人間になりたい?」


「……どういう意味? 私は元から、人間だよ? ……冷血吸血鬼なんて、変なあだ名で呼ばれてるけど……」


 答えになっていない唐突な美咲の問いに、玲奈は驚きながらそう返す。


「……そっか。玲奈ちゃんは、凄いね」


「凄い? それ、どういう意味?」


「内緒。それより、早くご飯食べよ? お腹、空いたでしょ?」


 美咲はそう言って、ゆっくりと歩き出す。


「…………」


 だから玲奈は、少しだけ不服だった。だってなんだか、誤魔化されているような気がしたから。……でも玲奈は、それ以上の追求はしなかった。答えがなんであれ、玲奈にとってそれは大した問題ではなかったから。


 どういう形であれ、姉が自分を愛してくれている。玲奈はそれだけで、満足だった。



 だからその日は、ただただ幸福に幕を閉じた。




 そしてそれからしばらくして、美咲は一冊の本を書きを始める。その本のタイトルは、



『吸血鬼のあなたへ』



 その本が完成した時から、玲奈の運命は大きく動き出す。


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