楽しいわ。
ちとせがまず俺を連れて来てくれたのは、一風変わったカフェだった。
「面白いところでしょ?」
ちとせはそう言って、ニヤリと笑う。
「そうだな。お前、よくこんなところ知ってたな」
俺はそう言葉を返して、窓の外に視線を向ける。
窓の外は、雨が降っている。しとしととまるで静かな涙のように、冷たい雨が街を濡らし続ける。そして店内には音楽がかかっていないから、雨音だけがただ響く。
けれど今日は、晴れだ。少なくともこのカフェに来るまでは、雲ひとつない心地よい青空から春の日差しが降り注いでいた。
でも今は、雨が降っている。このカフェの中だけ、雨が降り続けている。
「雨が降るカフェ。ちょっと前に、ネットで話題になってたのよ。窓のところにディスプレイを入れて、雨の映像を流し続ける。そして雨音のBGMを流すことで、雨の日を作り出すの。……あんたこういうの、好きでしょ?」
「まあな。つーか、お前も好きだろ?」
「うん。こういうのって、ちょっとワクワクするわよね」
「ああ。雨に濡れた街並みなんてありふれた景色なのに、こうやってわざわざ作り出されると、まるで異世界にでも来たような気にさせられる。……でもここ、本当に雨が降ってる日は、売り上げが落ちそうだな」
「雨の日は、晴れの映像を流すらしいわよ。とびっきり陽気なBGMと一緒に」
「それはそれで、楽しそうだな」
「でしょ? だから今度は雨の日に、一緒に来ましょ?」
「……そうだな」
雨音に混じりながら、会話を交わす。そして偶に、少し割高のコーヒーに口をつけて、また言葉を交わす。ちとせとこうやってゆっくりと話すのは久しぶりで、だからいつまで経っても話題は尽きない。
「ねぇ、十夜。ちょっと賭けをしない?」
そんな風に楽しく会話を続けていると、ちとせは唐突にそんなことを言う。
「いいけど、賭けって何をするんだよ」
「ふふっ。それはね、この手を拭く紙……ペーパーナプキンとか言ったっけ? それをちょっとちぎって、こうやって握り込んで隠すの。それで入ってる方を当てられたら、あんたの勝ち。当てられなかったら、私の勝ち。そういう簡単なゲームよ」
「お前、昔からそういうの好きだよな。でも何を賭けるんだ? この店の奢りか?」
「違うわ。言ったでしょ? 今日は私が奢ってあげるって。……別にそんなのであんたが私を好きになってくれるなんて思ってないけど、でも私この前……ちょっとずるいことしたでしょ? だからこれは、そのお詫びなの」
俺は別に、そんなこと全く気にしていない。ちとせにはちとせの目的があって、俺には俺の目的がある。結局はそれだけのことで、だから別に責めるようなことじゃない。……そう思うのだけれど、ちとせの表情があまりに真剣だった。
だから俺は余計なことは言わず、彼女の言葉を受け入れることにする。
「分かった。別に気にしてねーけど、お前がそう言うならここはお前に奢ってもらうよ。でもじゃあそれ以外だと、何を賭けるんだ?」
「ふふっ。私が勝てば、今日のデートの間ずっと……私と腕を組んでもらう。それであんたが勝てば……そうね、私のおっぱいを好きなだけ触らせてあげるわ」
「いや、そんな内容ならやらねーぞ?」
「じゃあ私の不戦勝ね」
「それはずりーだろ。……じゃあせめて、俺が勝ったら……パンケーキも奢るとかにしてくれ」
隣の席の人が食べているパーケーキが目についたので、思わずそう言ってしまう。……けど、俺は甘いものがあまり得意ではなかった。
「パンケーキ? 別に食べたいならそれくらい普通に奢ってあげるけど、あんた甘いものあんまり好きじゃなかったわよね?」
「……今はそういう気分なんだよ。それよりいいから、さっさとやろうぜ?」
「ふふっ。了解」
ちとせは何かを企むような笑みを浮かべて、テーブルの下に手を隠す。
「ズルするなよ? ちとせ」
「しないわよ。というか、知ってるでしょ? ズルなんてしなくても、私はこういう勝負はめちゃくちゃ強いのよ。……はい、じゃあ選んで。右か左。言っとくけど、一回選んだらやり直しはなしだからね」
「分かってるって」
そう答えて、目の前の白い手に視線を向ける。……右か左。別にそこまで真剣になるようなことではないけど、勝負事で負けるのは嫌なので本気で頭を悩ませる。
「…………」
その途中、特に意味もなくちらりとちとせに視線を向ける。ちとせは、とても楽しそうな顔をしていた。まるで子供みたいに得意気な笑みを浮かべて、俺が選ぶのを待っている。だからどうしても、こちらも本気になってしまう。
「じゃあ、右だな」
俺はちとせの右手に、軽く触れる。
「ふふっ。残念でしたぁ!」
ちとせは勝ち誇ったようにそう言って、右手を開く。けれどそこには、何も入っていなかった。そしてゆっくりと開かれた左手に、小さな紙切れが握られていた。
「……負けた。俺の負けだよ、ちとせ。お前こういうの、ほんとに強いよな」
「私は昔から、勝負運が強いのよ。それに頭を使うゲームじゃあんたには勝てないから、こういう単純なのは絶対に負けたくないの。……大切なものが賭かっているなら、尚更ね」
ちとせはそこで立ち上がり、俺の隣に移動する。そして俺が何か言う前に、俺の腕をぎゅっと強く抱きしめる。すると紫浜先輩とは違う柑橘系の香りが漂ってきて、少しドキリとしてしまう。
「ふふっ。照れてる照れてる」
「別に照れてねーよ。……ただ、店の中で腕を組む必要なんてないだろ?」
「別に必要かどうかなんて、関係ないじゃない。……というか負けたあんたに、拒否権なんてないから。……嫌って言っても、離してあげないから」
「分かったよ。別に俺は、人目なんて気にしないしな」
「……あんたのそういうところ、私、好きよ。だからパンケーキ、食べたいなら注文してもいいわよ? ……その代わりもう少しだけ、側に居させて……」
「…………」
そんな甘えるようでどこか寂しそうなちとせに、俺は何の言葉も返せない。だからただ黙って、腕をちとせに預ける。
……俺は今日、彼女を振るためにこのデートにやって来た。でもちとせは、今日という日を純粋に楽しんでいるように見える。だからやっぱり、胸が痛む。
「……なんてことを考えるのは、らしくないか」
「何か言った?」
「いや、何でもない。それより、パンケーキ頼むけど、お前も食べるか?」
「うん、食べる。……あ、でもこのあとすごく美味しいって評判のレストランに行くつもりだから、2人で半分こにしましょ? それなら、お腹いっぱいにならないでしょ?」
「そうだな。じゃあ、そうするか」
そうして2人で、パンケーキを食べる。そしてしばらく仮初の雨音を聴きながら、ただ身を寄せ合う。そんな静かな時間を過ごした。
「……あんたも少しは、私を意識してくれてるのね」
「どういう意味だよ? それ」
「こうやってくっついてると、あんたの鼓動が伝わってくるの。……ドキドキって、うるさいくらいにね」
俺の肩に頭を乗せて、ちとせはそう囁く。その仕草は子供のようでありながら、どこか色っぽい。……いやそんな風に思ってしまう時点で、俺は確かにちとせを意識しているのだろう。
「…………」
けど、流石にそんなことを口にはできない。だから俺はただ黙って、ちとせを受け入れる。
そんな風に楽しくて、ドキドキして、少し胸が痛むデートはあっという間に過ぎ去っていった。
そして、街が茜色に染まる時間帯。俺たちは並んで自然公園のベンチに腰掛けて、燃えるような夕焼けを眺めていた。
「……お前に、伝えなきゃならないことがあるんだ」
俺は満を持して、その言葉を口にする。だからまだ、ちとせとのデートは終わらない。
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