約束です。
目を覚ますと、温かで柔らかな感触に包まれていた。
なので一瞬、思考が止まる。……けどすぐに、今の状況を思い出す。そういえば昨日は、紫浜先輩と同じベッドで眠ったのだと。
だからこの柔らかな感触は先輩の大きな胸の感触で、先輩は眠ってしまった俺を守るように、抱きしめてくれているのだと。
「…………」
そう気がつくと、ずっとこうしていたいと思う。だって先輩の胸は温かで柔らかで、とても気持ちがいいから。
でも今が何時なのかは分からないけど、カーテンからこぼれる日差しは朝のものだ。だから先輩は一度、家に帰るべきなのだろう。
けど、どうしても……躊躇してしまう。もう少しだけでいいからこの温かさを感じていたいと、そんな風に思ってしまう。
「おはようございます」
しかしそこでふと、声が響く。
「……おはようございます、紫浜先輩。先に起きてたんですね」
「はい。あまりよく、眠れませんでしたので」
先輩はそう言って、俺の背中に回した手に力を込める。……だから俺の顔はまた、先輩の胸に埋まってしまう。
「……先輩。どうして腕に、力を込めるんですか?」
「貴方が言ったのでしょう? 私の胸が気になるって」
「……そうでしたね。でも先輩は嫌じゃないですか? その、俺が胸に触って……」
「そんなの、今更です。昨日はもっと凄いことを、沢山したじゃないですか」
「それも、そうですね……」
確かに昨日は今以上に身体を密着させて、息をするのも忘れるくらい何度も何度もキスをした。だから胸に触ることくらい、今更なのかもしれない。
「…………」
……いや、そうじゃない。今はそんなことよりも、他に言うべきことがある。俺の寝ぼけた頭は、ようやくそのことに思い至る。
「先輩、覚えてますか? 先輩が昨日、言ったこと」
「…………」
先輩は言葉を返さない。だから俺は、そのまま言葉を続ける。
「先輩はこの夜だけ、この夜だけは俺の考えを受け入れるって、そう言ってくれました。……でももう、朝ですよね? だから約束の期限は、過ぎてるはずです。なのに先輩は、俺のことを抱きしめてくれるんですか?」
つまり昨日のあのキスで、少しでも先輩の心を変えられたと思っていいんですか? と、俺は尋ねる。
「…………」
すると先輩は一瞬、腕の力を緩める。けど、すぐにまたぎゅっと強く俺を抱きしめて、囁くような声で言葉を告げる。
「……私、思ったんです。少しだけ……本当に少しだけですけど、この夜が明けなければいいのにって。だから私は、貴方を抱きしめてるんです。離したくないって、夜の続きがしたいって、そう思ってしまったから……」
「それは……うん。嬉しいです。先輩にそんな風に思って貰えたのなら、本当によかったです。……じゃあ少しだけ、夜の続きをしましょうか」
先輩はやっぱり、俺が望んでいる言葉を言ってはくれなかった。でも一歩、前に進めた。また一歩、先輩の心に近づけた。そう思うと、自然と頬が緩む。
だから俺は先輩の胸から顔を離して、真っ直ぐに先輩の瞳を見つめる。
「朝から貴方は、本当に……変態ですね。……でも、いいですよ? 今日は学校はお休みですから、少しくらい寝坊しても……誰も怒りません」
俺たちはどちらともなく、ゆっくりと唇を近づける。そしてまたキスをして、柔らかで熱い感触に溺れ合う。
……そう思った直後、俺のスマホから電話の着信を知らせる音が鳴り響く。
「…………」
「…………」
だから俺と先輩は、同時に動きを止める。そして黙り込んだまま、お互いの瞳を見つめ合う。そんな永遠のような沈黙が、しばらくこの場を支配する。
……けどその永遠は、聴き慣れた電子音が止まるのと同時に終わりを告げる。
「……貴方はあの人と、デートするのですか?」
そして先輩がそう、口を開く。
「はい。そのつもりです」
だから俺は、迷うことなく言葉を返す。
「……そうですか。……いえ、私が言ったんですもんね。約束を守らない人は、嫌いだって。だから私は……何も言いません」
「そんなに寂しそうな顔しなくても、大丈夫ですよ? 先輩。確かに俺はちとせとデートするつもりですけど、でもそこで伝えるつもりなんです。俺は先輩のことが好きで、だからお前の気持ちには応えられないって」
それでちとせが諦めてくれるかは、分からない。けど答えを返さなくていいと言ったちとせに、自分の気持ちを伝える。それはきっと、一つの区切りになるはずだ。
「そう、ですか。そうなんですね。それなら……いえ、それは貴方の問題なので、貴方の好きにしてください」
「はい、そうさせてもらいます。それでその後の、来週の日曜日。先輩をデートに誘うつもりなんですけど、いいですよね?」
「構いません。元よりそういう約束ですから」
先輩はそこで、もじもじと足を動かす。そして軽い笑みを浮かべて、こちらを見る。
「じゃあ、その……私、遊園地に行ってみたいです。……あ、いや、別に貴方が行きたいと言ったからではないですよ? ただ私、そういう場所に一度も行ったことがないんです。だから一度くらいは、行ってみたいなって……」
先輩は顔を赤くして、視線をそらす。やっぱりその姿はとても可愛くて、自然と俺の腕にも力が入る。
「分かりました。じゃあ来週の日曜日、一緒に遊園地に行きましょう。約束ですよ? 先輩」
「……はい。分かりました」
先輩はそう答えて、ゆっくりと目を瞑る。だから俺はそんな先輩の唇に、優しく触れるだけのキスをする。
「未鏡 十夜さん」
キスが終わると、先輩は目を開けて俺の名を呼ぶ。……でもその目は先程までとは違い、何故か悲しい色を帯びている。
「どうしたんですか? 先輩」
「今度の……デート。今度のデートで、私のことを話そうと思います。私の過去を、私の罪を、そして私の秘密を余さず貴方に伝えます。……だから貴方も、話してくれませんか?」
「……話すって、何をですか?」
「貴方が抱えているものを、です。……貴方はついさっき、寝言で言っていました。ごめんなさいって。凄く凄く苦しそうな顔で、まるで泣いているかのようにそう言ったんです。だから私のことを教える代わりに、貴方の苦しみを私に教えてください」
「…………」
先輩がそんなことを言うだなんて、思ってもいなかった。……でも思えば、先輩は俺のことを何も知らない。俺が先輩のことをほとんど知らないのと同じように、彼女もまた俺のことを知らないんだ。
……いやきっと、俺は知られたくなかったんだ。だから俺は自分のことをほとんど話さず、ただ告白を繰り返した。それで先輩が、振り向いてくれると信じて。……そんなこと、できるわけないのに。
「分かりました、話します。……つまらない話ですけど、俺の抱えている問題を全て先輩に伝えます」
「ではこれも、約束ですね。今度の日曜日、私たちはお互いの秘密を教え合う。そして……そしてそれでも貴方の想いが変わらないのなら、また私に告白してください。その時は私も、ちゃんと答えを返しますから……」
先輩の瞳は、やっぱり悲しい色のままだ。だからもしかしたら先輩は、自分の秘密を話したら俺の気持ちが揺らぐと思っているのかも知れない。
だから俺は、真っ直ぐに先輩の瞳を見つめる。そしていつもと同じように、その言葉を告げる。
「好きです、先輩。俺のこの気持ちは、どんなことがあっても変わりません。だから、安心してください」
そこでまた、キスをする。今度は少しだけ深く、一瞬呼吸が止まるようなキスを、先輩の唇に押しつける。
「……いきなりは、やめてください。いきなりだと、心臓が止まりそうになります。……でも貴方の気持ちは、分かりました。本当に貴方は……バカな人です」
今度は先輩の方から、キスしてくれる。俺のさっきのキスより更に深い蕩けるようなキスを、先輩は俺に押しつけた。
そしてそのキスが終わると、俺から手を離しゆっくりと立ち上がる。
「では、私はもう帰ります」
「家まで、送りましょうか?」
「……大丈夫です。もう日も、高いですから」
「そうですか。……じゃあまた月曜日、部室で」
「はい。……待って、ますから」
先輩は真っ赤な顔でそう言って、そのまま俺の部屋から出て行く。だから俺はその背を見送ってから、もう一度ベッドに寝転がる。
そしてしばらく何も考えずぼーっとしていると、またスマホから着信を知らせる音が鳴り響く。だから今度は、その音が途切れる前に電話をとる。
すると開口一番に、ちとせはそう声を響かせた。
「明日、デートに行きましょう?」
だから俺は、こう言葉を返す。
「分かった」
そうして明日の日曜日と、一週間後の日曜日。二つのデートが決まった。
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